2015年11月12日木曜日

千葉県北部の小字密度

小字地名データベース作成活用プロジェクト 31

小字密度の市町村区分より詳しい分布状況の様子を知るためにアドレスマッチングで分布図を作り、それからヒートマップを作ってみました。

千葉県北部小字(46577件)のアドレスマッチングプロット

46577の小字が2131のポイント(略大字分布になります)に集約されてプロットされています。

1プロットは平均22小字が重なっている勘定になります。多いプロットは3桁の小字が、少ないプロットは1つの小字から構成されています。

このプロット図から小字密度をイメージすることはできません。

あくまで大字の分布の様子を示しているだけのものです。

千葉県北部小字分布密度図

千葉県北部小字(46577件)のアドレスマッチングプロットから作成したヒートマップです。

赤い部分程小字密度が高く、したがって小字の平均的面積が狭いことを示しています。

一方、青い部分程小字密度が低く、したがって小字の平均的面積が広いことを示しています。

千葉県北部小字分布密度図と色別標高図のオーバーレイ

ヒートマップと地形の状況がわかる色別標高図を重ねると、赤い部分が細密な谷地形地域とぴたりと重なります。

小字が細分されている地域が、細密な谷地形の地域と対応しています。

貴重な情報を得ることができました。

この情報から早速、次の仮説が生まれました。

細密な谷地形の地域は、古代の水田耕作にとっては、その動員できる技術力、人力からして最適の地域であることが予想されます。

現代の技術力や経済の状況から見ると最も非効率な水田耕作地帯になりますが、古代は正反対の評価がされていた土地であると考えます。

大小河川流域の平野と異なり、手狭な谷津では洪水の心配や干天の心配が少なくコントロールしやすい条件がそろっています。

小字密度が高い地域は古代において最初に水田耕作が行われて地域であるに違いないと考えました。

したがって、蝦夷戦争時代における下総国(一部上総国)の最大の穀倉地帯がこの細密な谷地形地帯、つまり小字高密度地域であるという仮説を持ちます。

房総から陸奥国へ運ばれた糧秣の多くがこの小字密集地帯からではないかと想像します。

また、以上の仮説が妥当であれば、この小字密集地帯の小字名が古代にその起源を有する名称であるということになります。

小字名が古代に起源を有するものであるか、近世に起源を有するかということはある程度判別できそうな印象を持っていますので、その点から検討しても上記仮説の妥当性検討に迫ることができるかもしれません。

今後この仮説実証に取り組みたいと考えます。

2015.11.12 今朝の花見川

曇天でいつまで待っても夜が明けないという朝でした。

花見川風景

花見川風景

花見川風景

落ち葉が路面を覆う割合が増えるとともに木の葉や蔦や草の葉が一斉に赤や茶や黄に色づいてすっかり風景が秋終盤です。

弁天橋から下流

弁天橋から上流

畑の空

2015年11月11日水曜日

墨書文字「六万」はムツマンドコロか?

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.237 墨書文字「六万」はムツマンドコロか?

最近の記事と関係ありませんが、気が付いたことがあるのでメモしておきます。

2015.09.21記事「参考 文字「六万」分布からの連想」で千葉県出土墨書土器文字のうち「六万」が2遺跡から19点出土していて、その中には須恵器ヘラ書き土器もあり、この文字を使う集団が土器生産地に特注できるだけの力をもっていたと推察しました。

参考 文字「六万」の出土遺構

また「六万」出土遺跡の高岡大山遺跡は東海道本路に位置し、村上込の内遺跡は東海道水運支路に位置していることから次のような記述をしています。

「高岡大山遺跡は東海道(陸路)を押さえていて、その権力の一翼を担う「六万」共有集団の一部が東海道水運支路(仮説)を押さえている村上込の内遺跡に派遣され、その場の権力の一翼を担うということが連想できます。

文字「六万」が2つの遺跡から出土した背景には、東海道陸路と東海道水運支路(仮説)が連携して活用されていたという古代交通事情があるものと考えます。」

参考 文字「六万」の出土遺構と交通との関係

突然ですが、この「六万」の読みがムツマンドコロであることに気がつきました。

六はムツと読みます。

ムツとは陸奥国のことです。

万はマン(ドコロ)と読みます。

政所(まんどころ)のことです。

政所は次の辞書解説にあるように古代から使われてきた政務や事務を行う場所の意味です。

まん‐どころ【政所】
〖名〗
① 一般に政務を執り行なう所。政庁。
※蜂須賀侯爵家所蔵文書‐天平宝字三年(759)八月五日・筑前国政所牒案「仍除二本籍一、謹請二処分一者、政所依二申状一具状」
② 平安時代以後、親王・摂政・関白・大臣・大将家や三位(さんみ)以上の貴族の家で荘園の事務や家政などをつかさどった所。
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「政所の人装束して出で来て、めしたてつつ給ふ」
③ 大きな神社・寺院で、所管の事務全般を取り扱う所。
※観智院本三宝絵(984)中「政所に飯をかしぎて露車につみて、朝ごとに僧坊の前よりやりて」
④ 大寺院の長官。別当。
※春日社記録‐中臣祐重記・養和二年(1182)八月一六日「御寺政所法印僧都信円、権別当僧都覚憲」
⑤ 中世、荘園の事務を現地で取り扱った所。
※東寺百合文書‐に・応永一四年(1407)一二月一五日・丹波大山荘一井谷百姓等申状「政所給一石三斗御免あるましき事蒙仰候」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

つまり、「六万」(ムツマンドコロ)は陸奥政所の意味であり、陸奥国に出向く軍勢や役人の世話あるいは軍事物資輸送管理をした役所にかかわる集団の祈願語であると考えます。

祈願語としての意味は「陸奥政所の業務をすべて滞りなく実行して、軍勢や役人あるいは軍事物資を無事陸奥国に送れますように」というようなものであったと考えます。

「六万」が村上込の内遺跡から出土していることから、陸奥政所の支所がその場所にあり、白幡前遺跡などを経由して陸奥国に向かう水運路に関する政務を行っていたと考えます。

輸送の実務(軍務)の場所が平戸川西岸の白幡前遺跡であり、その政務が東岸の村上込の内遺跡にあったことは大変興味深いことです。

白幡前遺跡からは会計(「圓」)や文書作成(「文」)に関連する墨書文字が出土していますから、実務(軍務)の場でも事務活動が行われていたことは確実です。

したがって「六万」集団の仕事は実務集団に指示してそれを動かすというより高次の役割を担っていたと考えます。

「六万」(陸奥政所)という国家レベルの高級官庁出先があったものと考えます。



2015年11月10日火曜日

千葉県北部34市町の小字データベース作成

小字地名データベース作成活用プロジェクト 30

1 千葉県北部34市町の小字データベース作成
千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のうち、千葉県北部の34市町の電子化を済ませ、データベース化しました。

データベースの原本はFile Makerファイルとして作成しています。

データベースの項目は次の通りです。
・小字
・小字よみ
・大字
・大字よみ
・市町村
・市町村よみ
・区
・区よみ
・所在地表記
・備考(旧市町村等)

千葉県北部34市町の小字総数は46577になります。

千葉県小字データベース作成市町村(2015.11.10)

34市町の小字数を多いものから並べたグラフを作ると次のようになります。

千葉県北部34市町の小字数

千葉県の約半分の領域・小字数を電子化したことになり区切りがよいので、自分の興味をこのデータベースに投影してみて(データベースを使って分析してみて)、データベースの使い勝手を試してみたいと思います。

これだけの情報があれば多様で本格的な検討が可能だと考えますが、それは千葉県全部のデータベース作成後の楽しみとして残しておくことにして、今はデータベースの使い勝手を確かめておく程度の試行的検討を行います。検討はいくつかの記事に分けて掲載します。

この記事では、小字密度(1㎢あたり小字数)の情報を示します。

2 小字密度(1㎢あたり小字数)情報

上記の市町村別小字数グラフを見ると、面積に比して小字数が多い市町と少ない市町が存在していることに気が付きました。

小字名の検討の前に、小字密度の特性を知っておくことが大切であると感じました。

そこで、小字密度(1㎢あたり小字数)グラフとその概要分布図を作ってみました。

1㎢あたり小字数

参考 1㎢あたり小字数

九十九里平野を望む台地の小字密度が高くなっているという明瞭な地域特性が見て取れます。

最初は、この密度分布特性が歴史的事象(例 上総国の開拓が北上した様子を示すなど)と関わるとすれば面白いと考えました。

しかし、ほどなく、地形的要因によって小字密度が異なるに違いないと結論的な直観を得ました。

上の分布図で黄色や赤の地域の台地は下末吉海進においてバリアー島として形成され、最初に陸化した地域です。

したがって地史的時間でみて最も長い間浸食作用を受けていて、台地の谷津地形の発達が進んでいます。要するに地形がより細分化されています。

そのため、土地区切の細分化に対応して小字が増えていると考えます。

一方印西市付近の陸化は最も遅く、したがって広い台地面が残り、地形の細分化が進んでいないので、小字の数も少なくなっています。

2015年11月8日日曜日

2015.11.08 活動日誌

かねてから取り組んでいる角川千葉県地名大辞典の付録小字リストの電子化・データベース化の作業に10月末頃から集中して取り組んでいます。

千葉県域の北半分がほぼ終了しましたので、その概要を近日中に報告したいと思います。

さて、この作業は次のような項目を市町村毎に行っています。

1 小字リストの印刷物(紙)をスキャンする。(JPEGファイル)
2 JPEGファイルをOCRで電子テキストに変換する。
3 OCR電子テキストの誤りを修正するとともに区切り記号を入力する。
4 修正済み、区切り記号入り電子テキストをExcelに取り込み、マクロを使ってデータベース用ファイルに変換する。

以上の作業の内、3の作業が時間的に全体の90%を占めます。

これまで約4万の小字と同数のルビを全部自分の目で読んできたことになります。

この作業はとても有用な入力快適化ソフトを入手したことにより思いのほか効率化が進み、また自分自身も単純作業に慣れてきて、「目」と「手」とわずかの「脳の集中力」でほぼ自動で作業できる状況になりました。

当初はとても苦痛で煩雑な単純作業でしたが、今では苦痛という感覚は極めて減衰し、逆に早く完成して分析に使えばどんなに興味を深めることができるだろうかという期待感が取って替わっています。

この単純作業では脳内作業空間に余裕が生まれたという実感を持ち始めています。脳内がある程度デュアルモードになり、別の思考をイメージ的で弱いものですが展開できるまでになりました。

OCRが犯した誤謬を発見し、語の区切りを確認するという注意思考と、まったく別次元の思考を2つ同時並行で進行させています。

おそらく早朝の散歩の初期状況と同じだと感じています。散歩を始めた頃は散歩のなかで自然や環境を感じ、それについて思考するということと、まったく別次元の思考を両立することができるかできないかの状況でした。

しかし、現在の散歩では散歩本来の楽しみと、それとは無関係の思考の両立ができるようになっています。

パソコン単純入力作業も、それをもっと続けますから、つまりこれから約4万の小字名と同数のルビを確認修正して区切り記号を入れる作業が残っています。

その単純作業で、単純作業とは別建ての思考をある程度体系的に行えるという両立能力を身につけることができるようになることを期待しています。

期待しているというか、自分自身をそのような能力が身につくように訓練したいと思います。

千葉県8万の小字と同数のルビを1人で入力するというとんでもない単純作業をする代償として、単純パソコン作業時の脳内デュアル思考能力獲得を目指します。

なお、参考までに、1日の大半をこの単純作業に費やした時に次のような思考を展開しましたので、思考例として紹介します。

思考例
●自分が花見川流域について特段の興味を抱いている事項
1 花見川河川争奪
2 東海道水運支路
3 印旛沼堀割普請
4 現代花見川流域の川づくり・地域づくり

1 花見川河川争奪
花見川河川争奪現象については地形学分野における学術上の特段の研究がありません。(環境分野の1論文で触れているものがある)
したがってほとんど知られていません。
しかし明瞭な自然現象ですから世の中にこの事象の存在を知っていただくことが大切であると考えています。
その理由は、その河川争奪現象により縄文海進時にこの場所が東京湾と香取の海の地峡となり、下総における交通の要衝となったからです。
花見川河川争奪現象があったので、その後の奈良時代の東海道水運支路開設、さらには近世の印旛沼堀割普請が存在しえたのです。
また花見川河川争奪現象の存在が知られていないことが背景となり、現代河川行政において花見川は「人工河川」であるという誤った認識が存在しています。

2 東海道水運支路
花見川と平戸川(現在の新川)の水運を結ぶ船越に官道跡の痕跡を発見しています。
奈良時代の遺跡、遺物分布から、花見川と平戸川、つまり東京湾と香取の海を結ぶ東海道水運支路が存在していたという仮説を構築しています。
東海道水運支路が機能していたころは、花見川、平戸川沿岸は律令国家の蝦夷戦争における最重要の軍事兵站・輸送基地群が存在していたと考えています。
花見川、平戸川付近が日本のなかで特段に注目されていたと考えます。

3 印旛沼堀割普請
江戸幕府の国家規模プロジェクトとして印旛沼堀割普請が実施されました。
奈良時代とともに近世の印旛沼堀割普請でも、花見川、平戸川(新川)が日本のなかで注目されました。
多くの素晴らしい研究が存在します。

4 現代花見川流域の川づくり・地域づくり
理論の上での問題意識ですが、現代河川行政において、不当にも花見川が「人工河川」という烙印を押されています。
千葉県に「人工河川」という烙印を押された河川は他にありません。
このような不当な(誤った)花見川認識では、つまり根本理論が間違っていては、具体的な河川整備や地域づくりがいつの間にか間違った方向に進んでいってしまう可能性を排除できません。

もっと詳しく、またこの4つ以外の項目についても思考したのですが、それを全部メモすると大論文になりますので、ここでは概要の概要だけ思考例としてメモしました。

1時間程度の散歩と違って、長時間パソコン入力作業では思考をより体系的で多くの分量について行うことができるようです。
おそらく思考の質は体全体を動かしている分、散歩の方が上ではないかと現時点で想像しています。

花見川風景

2015年11月7日土曜日

墨書土器「佛」の閲覧

八千代市立郷土博物館で「佛」が墨書された土器を閲覧させていただきました。

佛(ほとけ) 白幡前遺跡出土

白幡前遺跡の2Aゾーンには周溝で囲まれた寺院跡が出土していて、瓦塔も出土していますが、この「佛」墨書土器も2Aゾーンから出土しています。

蓋の上面に墨書されています。

容器の蓋という上等品に墨書していることから寺院関係者(僧侶)が墨書したものと想像します。

神の代わりに佛(釈迦)に祈願したのだと思います。

祈願内容は、この遺跡に寺院が存在している趣旨(鎮護国家)からして、蝦夷戦争勝利という大きなものであったと考えます。

官人が労働層を動員するために墨書土器という風習を持ち込み、漢字の魔力(威力)で労働層の気持ちを束ねていったというようなものとは異なると考えます。

「佛」墨書土器は寺院関係者(僧侶)が寺院活動をアピールするためした、所有什器デザイン(仏具・祭具としての器のデザイン)のようなものだったと想像します。

この「佛」と書いた蓋を乗せた容器に飲食物を入れて、佛に対する供え物としたり、奈良の都からの来訪者や地元支配者の参拝があったときの接待に使ったのだと想像します。

寺院関係者(僧侶)個人が、自分の切実な問題をこの墨書土器に託して祈願したということはなかったと想像します。

八千代市立郷土博物館での2回目墨書土器閲覧の報告を終わります。

2015年11月6日金曜日

墨書土器「圓」「上」「入」の閲覧

八千代市立郷土博物館で「圓」「上」「入」文字の墨書土器を閲覧させていただきました。

「圓」 白幡前遺跡出土

圓の意味は過去に次のように考えました。
……………………………………………………………………
●圓の意味

まる【丸・円】
(「まろ」の変化した語)
1 〖名〗
③ 金銭、特に貨幣をさしていう。
※歌舞伎・隅田川続俤(法界坊)(1784)口明「イヤモウ〇になることならなんなりと相談に来ることさ」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

「圓」(マロ、マル)と読んで、貨幣を扱う官人つまり基地の会計係集団が会計業務の帳尻が合うことを祈願した言葉であると考えます。
……………………………………………………………………
2015.05.19記事「墨書土器文字の解読」




「上」 白幡前遺跡出土

上の意味は過去の次のように考えました。
……………………………………………………………………
●上の意味
ア 上(アガリ)と読み、官人が身分や位が上にあがることを祈願した。
イ この場所が中央貴族接待施設や寺院があり上(ウエ)の場所(貴い人がいる所)であり、その上(ウエ)に住む私が、○○○について祈願する。
……………………………………………………………………
2015.05.13記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その3」

上という漢字の多義性は大きなものであると感じますので、もっといろいろと想像してみることが必要だと感じます。





「入」 白幡前遺跡出土

入の意味について過去に次のような検討を行ています。
……………………………………………………………………
2 「入」の意味
これまでの検討と異なる点が1つあります。
「入」(井戸向遺跡Ⅲゾーン、白幡前遺跡2Eゾーン)は次のように解釈してきました。
「入(ニュウ)は納入の入の意味で、おさめる、献ずるという意味になります。提、奉と同義です。」(2015.05.11記事「八千代市白幡前遺跡 墨書土器の文字検討 その1」参照)

この記事では「入」を軍隊入隊(官の軍事組織入隊)祈願として捉えてみました。

そのように捉えると、井戸向遺跡Ⅲゾーンを新兵候補の訓練施設、白幡前遺跡2Eゾーンが軍隊従軍文官候補の訓練施設として捉えることができます。

白幡前遺跡2Eゾーンでは「圓」(財務管理の成功の祈願)、「文」(正しい文書を作成する祈願)が出土し、会計係とか書記官の活動が想定されます。

同時に、「遺構は竪穴住居・掘立柱建物とも集中して建てられ、建物の軸方向もよく揃えられている。2群DグループからFグループは同じような規模の建物群が並んでおり、この中では最も整った建物配置を採っている。」(「八千代市白幡前遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ- 本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター))としています。

このような情報から、白幡前遺跡2Eゾーンは軍事基地における事務ゾーンであり、その事務ゾーンで官人の下で下働きや小間使いなどで働く者が軍事組織の事務部門に正式に「入」(ハイル)(官として採用される)ことを祈願したと考えました。

井戸向遺跡Ⅲゾーンでは「入」(ハイル)と「生」(イキル)が一緒に代表文字になっていますから、軍事部門のゾーンで、かつ兵として正式登用されていない人間が多いと考え、そのゾーンが新兵訓練地みたいなところと、仮説してみました。
……………………………………………………………………
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」




1文字の墨書の意味(その文字を書いた古代人が祈願した内容)を考える上で次のような情報を参考にしています。

1 文字の古代における意味、用法や漢字の成り立ち
2 出土遺跡の特性(一般集落なのか、軍事兵站基地であるかどうかなど)
3 一緒に出土する文字
4 一緒に随伴出土する遺物
5 出土文字の遺跡内分布、それと遺跡内ゾーンとの対応
6 出土状況
7 その文字の他遺跡での解釈例
8 その文字の千葉県内や全国における分布
9 その文字が含まれる熟語とその分布

これらの情報を勘案すると文字の意味がおぼろげに浮かび上がってくると思いますが、決定的証拠をもって説明できることはすくないと考えます。
想像力で大きく補わないと、文字の意味を説明できません。

墨書土器の1文字とか2-3文字の検討はこのような特性、つまり想像力の割合が多いので、学術世界ではリスクが大きくなり専門家の方は手を出さない、つまり豊かな想像や鋭い直観的考察があっても文章にしないのだと思います。

このブログは趣味の世界に存在しますので、恥掻きは必要経費と割り切って、墨書土器文字の意味について考察を続けています。

2015年11月5日木曜日

打ち欠き墨書土器の閲覧

八千代市立郷土博物館で閲覧させていただいた史料の中に、はっきりとした打ち欠き墨書土器が含まれていました。

白幡前遺跡出土墨書土器 饒

白幡前遺跡3ゾーンの234竪穴住居の覆土から出土した土師器で高台付坏の底面内部に饒(ゆたか)が墨書されています。
底面の文字「饒」がちょうど残るように円形に打ち欠きされています。

この遺構からは同じように坏の底面内部に饒が書かれ、周辺が打ち欠きされた墨書土器が他に2点出土しています。

以前の記事で「饒」は食糧倉庫管理警備隊がその職務遂行を祈願したものと検討しました。「軍事倉庫村の管理と警備を全うしたい」という趣旨を「饒」という文字1文字に込めたものと考えました。2015.05.27記事「墨書土器文字「饒」(ユタカ)の読解」参照

自分たちが食べるものではなく、蝦夷戦争に軍需物資として使う食糧倉庫の管理警備活動の万全を期して、管理警備部隊が酒宴(祭祀)を行い、最後に大事なマイ墨書土器を打ち欠いて234竪穴住居跡に捨てた(納めた)ものと考えます。

大事なマイ墨書土器を集団で各人が破壊することによって、職務遂行の決意の程をお互いに確認したのだと思います。

なお、饒という難しい漢字を書いていることに興味が沸きます。

同じ意味の「豊」も出土しています。

白幡前遺跡出土墨書土器 豊

しかし白幡前遺跡の3ゾーンからは18点もの饒が出土しています。

墨書土器作成を指導(主導)した官人の教養レベルがきわめて高かったのではないだろうかと想像します。

則天文字なども出土していますから、白幡前遺跡に中国文化と直結したような高級官人グループがいて、そのグループが地元出身の中位、下位官人集団を指導していて、それがために実務労働層も難解漢字や象形文字まで動員して、多様な文字を墨書土器に書いたのだと思います。

2015年11月4日水曜日

2回目の墨書土器閲覧

八千代市立郷土博物館にお願いして2回目の白幡前遺跡出土墨書土器現物閲覧が実現しました。

八千代市立郷土博物館のご好意に感謝します。

何回かに分けて閲覧した史料を紹介します。

閲覧させていただいた墨書土器史料

1 唐草模様のような墨書土器

唐草模様のような墨書土器

この模様は草の象形文字を植物の芽吹きをイメージして書いた(デザインした)墨書を、その趣旨を理解しないで真似て書いたものと判断しました。
詳しくは2015.11.01記事「メモ 萱採取集団の存在を暗示する墨書土器」をご覧ください。

参考 草の象形文字を墨書土器に書いた集団は有用資源の萱採取集団であた可能性がある

この現物を実際に手に取ってみて初めて、2015.11.01記事が書けました。

この唐草模様のようなものが、萱採取集団の祈願文字「草」であるのです。

古代人が草の象形文字を知っていて、それをデザインして作ったエンブレムなのです。

そして、漢字そのものの「草」、「草田」(カヤタ)などの出土を含めて総合的に勘案して、この付近では萱の需要と消費が多く、萱採取に専業的に従事する集団が存在したことを推定しました。

その推定そのものが、遺跡群の名称ともなっている現在の八千代市大字名「萱田」の地名由来であると考えました。

2 生の墨書土器

閲覧した「生」の墨書土器 1

閲覧した「生」の墨書土器 2

閲覧した「生堤」の墨書土器

白幡前遺跡では「生」文字が多数出土しています。「生」が白幡前遺跡の最多数出土文字です。代表文字です。

ですから、「生」の意味を検討することは大変重要であると考えます。

発掘調査報告書を含めて、「生」の意味について検討した文章はほとんど見かけません。

「生」の字形の時代変化とか、その出土分布などの検討はありますが、その意味についての記述にはお目にかかっていません。

このブログでは、萱田遺跡群が蝦夷戦争における最重要軍事・兵站基地として律令国家によって開発されたと考えること、墨書土器は基地活動(軍需物資生産・集積・輸送など)としての組織活動を行う際に、官人が労働層の啓発(やる気を出させる)のために活用したと考えることなどから、墨書土器文字の意味を推察しています。

「生」の意味は端的に言えば、蝦夷戦争に出征して、その戦場での白兵戦で敵を倒して、自分は生きることによって社会に貢献しようという趣旨の祈願語だと推定しました。

兵士の本分は(必要ならば)相手を殺して自分は生きることであるという律令国家の指導があったものと考えました。

律令国家時代の人の生命価値(社会的価値)は現代などと比べて比較にならないほど高かったものと考えます。

「生」はあくまでも祈願語であり、組織活動におけるスローガンを1文字にしたものであると考えます。

「生」は氏族「大生直」一族の「生」ではないかなどの検討もあるようですが、氏族名とか地名とかが1文字の墨書土器にストレートで書かれることはあり得ないことだと思います。

支配氏族名とか地名などを墨書土器に書かせても、労働層を動員して働かせることはできないと考えます。

2015年11月3日火曜日

ダイナミックビュー(動的ビュー)表示が可能

このブログ(Bloggerブログ)では、以前は特別の設定をしなくても簡単なURL追記で、ダイナミックビュー(動的ビュー)表示が可能だったのですが、いつの間にかそれができなくなりました。Bloggerサイドの仕様変更だったようです。

ところが、ブログフィードの許可を完全にして、簡単なURL追記をしたところ、ダイナミックビュー(動的ビュー)表示が可能であることを知りました。

Bloggerサイドの仕様変更が最近あったようです。

このブログをダイナミックビュー(動的ビュー)表示するには、ブログURL http://hanamigawa2011.blogspot.jpの後ろに/viewを追記してエンターを押せば可能です。

ダイナミックビュー(動的ビュー)Flipcardモードの表示

ダイナミックビュー(動的ビュー)Sidebarモードの表示

これまでは、自分の書いたブログ記事をあるテーマについて過去にさかのぼって簡便に次々に読むことが、思い通りの効率性を伴って行うことが困難でした。

何とかならないだろうかと思案し、ブログをいじっていたところ、偶然ですが、ダイナミックビュー(動的ビュー)表示が可能であることを再発見?しました。

7つのモードのうちFlipcardやSidebarを使うと自分の記事の全体を俯瞰でき、テーマの連続性(あるいは連続していないこと)を簡便に確認できるので便利です。

7つのモード

Flipcardモードで1500以上の全記事をいとも簡単にスクロール俯瞰できました。

またブラウザを4画面全部に広げるとFlipcardモードで約280記事を表示できて、空間的な意味で俯瞰ができます。

4画面にブラウザを拡大した画面 Flipcardモード

本来のブログスタイルを変更することなく、気軽にダイナミックビュー(動的ビュー)に変更できることは、自分自身にとって、思考結果記録装置としてのブログの使い勝手が大幅に向上したことになります。

興味のある方は「ホーム」をクリックした時のURLに「/view」を追記して試してください。