八千代市立郷土博物館で閲覧させていただいた史料の中に、はっきりとした打ち欠き墨書土器が含まれていました。
白幡前遺跡出土墨書土器 饒
白幡前遺跡3ゾーンの234竪穴住居の覆土から出土した土師器で高台付坏の底面内部に饒(ゆたか)が墨書されています。
底面の文字「饒」がちょうど残るように円形に打ち欠きされています。
この遺構からは同じように坏の底面内部に饒が書かれ、周辺が打ち欠きされた墨書土器が他に2点出土しています。
以前の記事で「饒」は食糧倉庫管理警備隊がその職務遂行を祈願したものと検討しました。「軍事倉庫村の管理と警備を全うしたい」という趣旨を「饒」という文字1文字に込めたものと考えました。2015.05.27記事「墨書土器文字「饒」(ユタカ)の読解」参照
自分たちが食べるものではなく、蝦夷戦争に軍需物資として使う食糧倉庫の管理警備活動の万全を期して、管理警備部隊が酒宴(祭祀)を行い、最後に大事なマイ墨書土器を打ち欠いて234竪穴住居跡に捨てた(納めた)ものと考えます。
大事なマイ墨書土器を集団で各人が破壊することによって、職務遂行の決意の程をお互いに確認したのだと思います。
なお、饒という難しい漢字を書いていることに興味が沸きます。
同じ意味の「豊」も出土しています。
白幡前遺跡出土墨書土器 豊
しかし白幡前遺跡の3ゾーンからは18点もの饒が出土しています。
墨書土器作成を指導(主導)した官人の教養レベルがきわめて高かったのではないだろうかと想像します。
則天文字なども出土していますから、白幡前遺跡に中国文化と直結したような高級官人グループがいて、そのグループが地元出身の中位、下位官人集団を指導していて、それがために実務労働層も難解漢字や象形文字まで動員して、多様な文字を墨書土器に書いたのだと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿