2016年1月19日火曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と鉄鏃出土の相関関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.270 鳴神山遺跡 紡錘車出土と鉄鏃出土の相関関係

これまでの検討で、紡錘車出土はその遺構あるいは周辺に資産が存在していたことを暗示するものとして考えました。

紡錘車は直接的に製品としての糸やそれを編んだ織物、それを縫製した衣服という資産を暗示するとともに、その背後に集落経済活動全体の広義の資産を暗示すると捉えることができると考えます。

一方、鉄鏃は対人殺傷兵器以外の無いものでもなく、盗賊の略奪に備える武器であると考ええることができます。したがって、鉄鏃出土遺構とはその遺構あるいは近辺に集落資産の存在があることになります。

このように考えてきましたから、紡錘車と鉄鏃の出土は大いに相関するはずです。

その相関を分布図で確かめてみました。

これまで作成した竪穴住居からの紡錘車出土イメージ図と鉄鏃出土イメージ図を年代毎に並べて対照できるようにしました。

紡錘車出土イメージ図は資産分布図、鉄鏃出土イメージ図は防衛拠点分布図と読み替えました。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第1四半期

資産分布と防衛拠点分布が近接してほぼ一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第2四半期

資産分布と防衛拠点分布が近接してほぼ一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第3四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第4四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第1四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致する場所があるのですが、直線道路東端南の資産分布域の防衛が手薄になっているように見えます。その代わり、直線道路中央部の北側に大きな防衛拠点が生まれています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第2四半期

9世紀第1四半期に既に見られた構造がより明瞭になり、直線道路東端南側の資産集中域をその場所で守るだけでなく、直線道路中央部北側に大きな防衛拠点(砦)を設けて集落全体を守るという集落防衛構造が確立します。

この集落防衛構造をポンチ絵にすると次のようになります。

集落ピーク時の資産と防衛の様子

このような集落防衛構造が9世紀第1四半期には既に生まれていたということは、蝦夷戦争終了直後から権力の空白、軍隊の不在状態が生じ、治安が悪化し、俘囚の反乱などと関連して(それが主因?)生業を営む集落に対する略奪行為が常態化したのだと想像します。

そして、集落活動がピークなり、竪穴住居軒数が最大となる9世紀第2四半期には略奪に対する備えが集落の重要な課題となっていたことがわかります。

映画「7人の侍」のような社会状況が存在して、映画はハッピーエンドでしたが、9世紀下総では集落消滅が結末となったのだと考えます。

なお、たくましく空想すれば、集落の直線道路北側は直線道路が使われていた時代から牧(大結馬牧の出先牧)であり、動員解除・戦後時代に本格的に自立した牧になったのだと思います。その牧集団が砦をつくり、盗賊集団から自分たちの馬の略奪を防ぎ、結果的にその砦が直線道路南側の農業を生業とする集落本体の防備の役割を担ったのだと思います。

牧集団と農業集団の間には上下関係(牧-下、農-上)、あるいは契約関係(牧-集落防衛業務受注、農-集落防衛業務発注)があったように感じてなりません。その証拠はおそらく見つかると予感しています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第3四半期

資産が存在する場所ごとに防衛するとともに、砦を設けて集落全体を守るという構造が継続しています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第4四半期

防衛拠点は縮小し、資産が存在する場所ごとに防衛する状況に戻っています。集落の終末期です。


以上の検討から、紡錘車出土と鉄鏃出土は大いに相関があり、紡錘車出土を資産存在に見立て、鉄鏃出土を資産防衛活動の存在に見立てるという考えの妥当性が高いことを確かめることができました。

2016年1月18日月曜日

鳴神山遺跡紡錘車の年代別出土イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.269 鳴神山遺跡紡錘車の年代別出土イメージ

2016.01.16記事「鳴神山遺跡鉄鏃の年代別出土イメージ」と同じ趣旨・方法・データ源で紡錘車の検討を行います。

(この記事のデータは「「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)」掲載資料から作成しました。)

上記記事では、鉄鏃つまり経済(生産)と関わらない武器(対人殺傷兵器)の出土状況を検討しました。

武器の出土率が9世紀第2四半期から急に高い値となることから、その頃から武器の装備水準を特段にアップする必要があるような、治安の急速な悪化を想定しました。

この記事では、その検討と対照させるために、集落の主要生業の一つであったと考える麻生産・紡績・織物に関わる道具のうち遺物として出土する紡錘車について検討します。

紡錘車の年代別出土竪穴住居軒数イメージを次に示します。

鳴神山遺跡 年代別紡錘車出土竪穴住居軒数イメージ
紡錘車の数は石製・土器片リサイクル品・鉄製を全て含んだものです。

このグラフのパターンは竪穴住居軒数消長パターンとほぼ同じです。

参考 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長

集落の消長と紡錘車出土竪穴住居軒数変動が類似するので、紡績(とその前後の麻生産・織物)活動は集落の安定した生業であったことを類推させます。

次に竪穴住居100軒当たり紡錘車出土竪穴住居軒数を見てみます。要するに竪穴住居における紡錘車出土率です。

鳴神山遺跡 竪穴住居100軒当たり紡錘車出土竪穴住居数イメージ

蝦夷戦争準備時代から蝦夷戦争時代までの間は紡錘車出土率が上昇します。集落の成長に伴って紡績活動が盛んになったと考えることができます。経済活動が発展していった状況を感じることができます。

律令国家が8世紀第1四半期に蝦夷戦争の兵站基地として開発着手して、8世紀第4四半期には生産活動(紡績とその前後の活動)がフル回転状態になった様子を見ることができます。

動員解除・戦後時代になると、趨勢的には紡錘車出土率が若干アップしますが、それ以前のような急速なアップは見られません。集落における紡績(とその前後の麻生産・織物)活動の意義は少しずつ大きくなっているのですが、蝦夷戦争時代までに骨格が完成してしまい、それ以上の急速な成長はなかったからだと想像します。

このグラフと鉄鏃に関する同じ出土率グラフを対照すると、そのパターンが異なることから、新たな情報(類推)を生むことができます。

つまり、紡錘車出土率が動員解除・戦後時代に大幅にアップしたわけではありませんから、紡錘車出土率が暗示する集落資産の伸びは大幅なものではないと考えることができます。

ですから、盗賊による略奪圧が一定なら、その資産を守るべき武器(鉄鏃)の伸びは大幅である必要はありません。

ところが、9世紀第2四半期以降の鉄鏃出土率は特段に高くなっています。

これは守るべき資産が増大したことによるのではなく、盗賊による略奪圧が大幅に強まったためであると考えることができます。

集落資産の伸びが大きくないのに(紡錘車出土率の伸びが大きくないのに)、武器の伸びが大幅に大きくなっている(鉄鏃出土率の伸びが大きくなっている)理由を、外的要因(盗賊による略奪圧の増大)に求めることができると考えます。

参考 鳴神山遺跡 竪穴住居100軒当たり鉄鏃出土竪穴住居軒数イメージ

次に時代別紡錘車出土分布イメージ図を掲載します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第1四半期

直線道路南側から1件出土します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第2四半期

直線道路南側から2件出土します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第3四半期

直線道路南側からの出土が多くなっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 8世紀第4四半期

直線道路南側からの出土が多くなっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第1四半期

この時代の最初期に直線道路が埋め立て廃棄されたと想定しています。地域分断の状況はなくなっています。
紡錘車出土は直線道路南側で増えています。
蝦夷戦争の動員が解除されてから直線道路南側が紡績の主な場所であったと考えます。

直線道路東端南側の台地が張り出した部分に初めて紡錘車出土竪穴住居が密集します。この場所は9世紀中紡錘車出土密集場所となります。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第2四半期

直線道路南側で紡錘車出土が増えていて紡績の中心地域を形成しています。
この状況から直線道路の北側では紡績以外の生業が存在していたと想像します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第3四半期

集落が凋落傾向にあっても、紡績の中心は直線道路南側となっています。

鳴神山遺跡竪穴住居からの紡錘車出土イメージ 9世紀第4四半期

集落の終末期でも同じ直線道路(跡)南側が紡績の中心となっています。

集落のメイン生業の一つであった紡績(室内での製糸)活動という面から見るとその分布域は直線道路(跡)の南側であり、動員解除・戦後には直線道路東端南側のその中心が存在していたと捉えることができます。

紡績の原料となる麻栽培がどこで行われていたのか、今後検討します。

絹生産の可能性にも今後触れます。

また、紡績(製糸)だけでなく、織物縫製が行われ、衣類が作られていたと考えますが、その検討も今後行います。

2016年1月17日日曜日

開発前空中写真による古代道路線形復元の可能性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.268 開発前空中写真による古代道路線形復元の可能性

話題が日替わりになってしまいますがお許しください。

2015.12.27記事「学習 台地上の溝状古代道路の例」で鳴神山遺跡の近くの印西市小倉台の大塚前遺跡の出土道路について学習しました。

この道路の延長上がどうなっているのか気になっていたので、調べたところ、開発前空中写真に線形模様を発見しましたので報告します。

大塚前遺跡出土道路の延長上に発見した線形模様
空中写真は国土地理院サイトからダウンロードして引用。
発掘写真は「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用。

東側も小さい谷津を超えて台地上に線形模様が続いています。

大塚前遺跡付近の開発前空中写真(1966年撮影、MKT663X C2B-2)
国土地理院サイトからダウンロードして引用。

東側は直線道路の北側の弓状にカーブした線形模様が古代道路に対応しているのではないかと考えます。

私の目が発掘道路の延長上付近にある無数の線形模様の中から、好都合のものだけ(無意識レベルで)恣意的に集めている可能性はあります。

しかし、おそらく誰が見てもこの線形模様を見ることはできます。

下総台地上の出土古代道路近くで、類似の線形模様を調べ、開発されていない土地があれば、そこで実験的に発掘すれば、このような線形模様が古代道路線形を本当に示しているのか、そうでないのか判明します。(鳴神山遺跡の西隣台地にはそのような場所があります。)

開発前空中写真が古代道路線形復元に大いに役立つ可能性を感じ始めました。



2016年1月16日土曜日

鳴神山遺跡鉄鏃の年代別出土イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.267 鳴神山遺跡鉄鏃の年代別出土イメージ

鳴神山遺跡の検討を完結に向けて急ぎます。

鳴神山遺跡の遺構・出土物の検討では年代別検討(蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代、動員解除・戦後時代)という時間を意識した視点と、直線道路とどのようにかかわるかという分布を意識した視点の二つの視点が大切であると考え、これまでの単純な分布検討から一歩踏み込んだ再検討を行います。

幸い、「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)ではサンプリング調査として183竪穴住居を抽出して、その年代を明らかにしていますので、そのデータを使います。

サンプリング調査ですからこれから検討する情報は出土物の8割程度しか扱っていません。
また複数年代に対応している竪穴住居から出土した遺物は各年代毎に重複してカウントしています。

従って以下の検討はあくまでもイメージ的な情報です。

しかし、イメージ的情報にもかかわらず、出発点の情報が確実な情報であることから、有用な時間的・分布的情報を引き出すことができると考えます。

この記事では鉄鏃について検討します。

鉄鏃の年代別出土竪穴住居軒数イメージを示します。

鳴神山遺跡 年代別鉄鏃出土竪穴住居軒数イメージ

出土軒数が動員解除・戦後時代の9世紀第2四半期、第3四半期に急増しているように見えます。

鉄鏃は武器(対人殺傷兵器)であり、刀子のように生活道具として使う機能はありません。

動員解除・戦後時代の最初の四半期である9世紀第1四半期には蝦夷戦争時代や蝦夷戦争準備時代と同レベルの水準であった武器装備状況が9世紀第2四半期に急増しています。

蝦夷戦争時代までは国家が蝦夷戦争の兵站基地として地域開発を進め、権力の存在が明確であり、治安状況は安定していたものと考えます。

また蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代には征討軍の大部隊が下総国経由で陸奥国に向かったり、陸奥国から帰還したりして、軍隊が地域に存在している期間が長く、軍事的な意味でも治安が保たれていたのだと思います。

蝦夷戦争が終わると、それまでの兵站基地がいわば民に払い下げられるような状況になり、基地としての集落が経済発展の場になったのだと思います。

同時に国家は手を引き、軍隊はいなくなり、権力の空白が生まれ、治安が悪化していったものと考えます。

蝦夷戦争後遺症としての俘囚の反乱が幾度となく生じています。

経済発展のピークだった9世紀第2四半期に鉄鏃出土軒数がピークになっていて、経済発展した集落を盗賊が常襲する状況が存在したのだと思います。

次に竪穴住居100軒当たり鉄鏃出土竪穴住居軒数を見てみました。

鳴神山遺跡 竪穴住居100軒当たり鉄鏃出土竪穴住居軒数イメージ

動員解除・戦後時代に鳴神山遺跡集落は9世紀第2四半期にそのピークを迎え、その後衰退するのですが、衰退期にも竪穴住居100軒あたり鉄鏃出土軒数が高い水準を保っています。

衰退期にも武器を用意して盗賊に備えていた状況が存在します。

盗賊の存在が集落衰退の原因であったかもしれないと推察します。

次に時代別鉄鏃出土分布イメージ図を掲載します。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路の南側から鉄鏃が出土します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路南側に存在していたとイメージします。
直線道路の北側には守るべき資産は存在していなかったとイメージします。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路の南側から鉄鏃が出土します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路南側に存在していたとイメージします。
直線道路の北側には守るべき資産は存在していなかったとイメージします。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃のほとんどは直線道路の南側から出土します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路南側に存在していたとイメージします。
直線道路の北側には守るべき資産は少なかったとイメージします。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
鉄鏃のほとんどは直線道路の南側から出土します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路南側に存在していたとイメージします。
直線道路の北側には守るべき資産は少なかったとイメージします。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
鉄鏃は直線道路の南側だけでなく、北側からも出土します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路の南側だけでなく、北側にも存在していたとイメージします。
直線道路の北側の開発が進んだということです。
この時代の初めに直線道路が埋め立てられて廃棄されましたから、直線道路の廃棄により地域開発が進み、盗賊から守るべき資産が発生したと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
鉄鏃の出土数は直線道路の北側で急増します。また南側も増加します。
盗賊から守るべき集落資産が直線道路の北側で特に増加したことと、南側でも資産が増加したと考えます。
集落が経済発展したので、資産が増え、権力の空白を良いことに盗賊にとっても生活しやすい環境が生まれたのだと思います。そうした状況を鉄鏃出土が物語っているとかんがえます。
北側の鉄鏃出土場所が1か所に集中しているところがあるので、台地北側から鳴神山遺跡に向かってくる盗賊に対する一種の砦のような印象を受けます。
盗賊の主体は俘囚であると仮説しておきます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
竪穴住居軒数の減少(集落衰退)に伴い鉄鏃の出土数は減少するのですが、竪穴住居100軒当たり鉄鏃出土数は高水準を保っていることはすでに述べた通りです。
直線道路の北側、南側ともに盗賊から守るべき集落資産がまだ残されている状況があります。


鳴神山遺跡竪穴住居からの鉄鏃出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
集落衰退に伴い鉄鏃の出土数は急減します。直線道路の北側、南側ともに盗賊から守るべき集落資産がもうほとんど存在しない状況です。



鉄鏃が盗賊から守るべき集落資産の存在を暗示していると考えると、直線道路が存在していた時代(8世紀第4四半期まで)には直線道路北側には集落資産は少なく、直線道路が鳴神山遺跡集落の経済発展に寄与した程度は小さかったと考えます。

鳴神山遺跡集落と直線道路は機能的つながりが希薄であったと考えます。

直線道路が集落のメインストリートであったというイメージを持つことはできません。

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追記 2015.01.18
掲載グラフの名称が間違っていたので画像と説明を訂正しました。





2016年1月15日金曜日

ブログ開設5周年通過

本日(2016.01.15)がこのブログ開設5周年通過日となります。

5周年の通過が出来たのは、ひとえに多くの方にこのブログを閲覧していただき、いろいろなご協力をいただいたおかげです。

心から感謝申し上げます。

2016.01.14記事「過去5年間を振り返る」で過去5年間を振り返りましたので、この記事では未来5年間の活動の夢を描きたいと思います。

今後5年間のささやかな夢

人生残年数を指を折って数えるような状況になってきましたので、未来に描く夢も浮き浮きするような大きなものではなく、実現可能性の高いものに収れんしてしまい、熱さのあまり感じられないものになってしまいますが、しかたがありません。

2016年の活動
●古代遺跡学習を継続して、花見川-平戸川筋の古代社会のイメージをより豊かにする。
・鳴神山遺跡学習の完結、西根遺跡・船尾白幡遺跡・上谷遺跡・村上込ノ内遺跡等の学習
・萱田遺跡群の再学習(遺構のGISプロットによる検討)

●下総国古代社会のイメージをより豊かにする。
・駅路網の再学習
・古代行政域の地図表現(GISプロット)

●千葉県小字データベースを完成させる。

●東海道水運支路仮説をまとめる

技術的にはGIS・データベース技術向上を目指す。またWEBサイトの運営ができるだけのHTML技術を習得する。

活動表現の軸となるべきWEBサイトをつくる。

2017年、2018年の活動
●下総台地縄文時代社会の交通をイメージできるような学習活動を行う
・縄文海進の正確な把握
・縄文時代遺跡の学習

技術的にはGIS・データベース技術の一層の向上を目指す。

考古・地形・地名を総合した検討を目指す。

活動表現の軸足はWEBサイト、補助としてブログを利用する。

2019年の活動
●下総台地後期旧石器時代社会の狩猟活動をイメージできるような学習活動を行う
・最終氷期の谷津地形復元
・旧石器時代遺跡の学習

技術的にはGIS・データベース技術の一層の向上を目指す。

考古・地形を総合した検討を目指す。

活動表現の軸足はWEBサイト、補助としてブログを利用する。

2020年の活動
●2011年~2019年の活動を主要な素材にして、花見川や下総台地の地史・考古歴史の興味ある事象をまとめる
・下末吉海進以降の地史事象と後期旧石器時代、縄文時代、奈良・平安時代をメインにして、それ以外の時代も含んだ考古歴史事象の興味(仮説)をまとめて、公表する。

2021年から始まる次の5年間の夢
肉体的、精神的健康や思考力のレベルが使える状況にあれば、2021年以降次のような活動を行いたいと思います。

●弥生時代・古墳時代社会の交通をイメージできるような学習活動を行う
●中世・近世社会の牧や交通をイメージできるような学習活動を行う
●近代の演習場利用をイメージできるような学習活動を行う
●現代の印旛沼開発の意義等の学習を行う
●活動で得た知識・情報を川づくり・まちづくりに活用する方策について検討する

花見川風景

2016年1月14日木曜日

過去5年間を振り返る

2016.01.15がこのブログ開設5周年通過日となります。

2011.01.15にこのブログ「花見川流域を歩く」が開設しました。

区切りがよいので、過去5年間を振り返ってみました。

次の表は過去5年間、1600記事の主なテーマです。

ブログ「花見川流域を歩く」過去5年間の主な記事テーマ等

過去記事表題のデータベースを作成して、それから作成した資料です。

自分で書いた記事ですが、同じテーマを少しずつ掘り下げて書いている場合もあり、記事の内容や順番は表題だけでは思い出せないものも既に存在しています。

この表を作って感じる最大の感想は、花見川流域とその周辺地域というものが大変特異な地形的、歴史的特性を有しているにもかかわらず、それが現代社会ではほとんど認識されていないという状況があるということです。

自分が居住する地域の状況を予備知識ゼロで歩き、それをブログ記事とすることから始めました。

花見川流域とかその周辺の下総台地に特段の興味があったわけではありません。自分の住宅の回りを調べてみようという趣旨から始まった活動です。

全く白紙状況から出発して、自分の居住地域の自然・歴史をブログ記事にして、それを紹介できればそれでよいだけでした。

しかし、ブログ記事を書きだすと、次々に学術界や一般社会で知られていない事象を多数発見してしまいました。

結果的に新発見的に感じた事象のうち大きなものは次のようなものになります。

・花見川河川争奪
・小崖地形(断層地形)
・印旛沼筋河川争奪
・花見川と平戸川(新川)を結ぶ陸路(船越)存在の各種兆候(東海道水運支路仮説)
・トーチカの存在
・上ガスの存在

こうした観察事象は、この地に引っ越してきた自分からみれば偶然なことだったのですが、花見川流域というものが自然的・歴史的に特異な性格を有している地域だったからであったのでした。

私の主観や興味の特性がこのような新発見的事象をみつけたのではなく(主観によるものではなく)、空間そのものの特性を私が理解したということです(客観事象を理解しただけです)。

「まてよ、花見川流域というのは自然的・歴史的に特別地域じゃないか!」という感じを、ブログ活動3年目に「花見川地峡」という概念で表現しました。

花見川河川争奪という地象と縄文海進という事象が重なって、その時文字通りの地峡が生まれました。

その地峡という空間特性が奈良時代の東海道水運支路、近世の印旛沼堀割普請、現代の印旛沼開発で活用されてきたということです。

(花見川地峡を活用した人は河川争奪とか縄文海進とか全く知らないことは、現代人も含めていうまでもありません。)

2011年、2012年、2013年のブログ活動で地形、考古歴史、地名、近現代史、行政、自然環境・風景等のテーマに取り組み、花見川流域とその周辺地域の空間基本特性を捉えることができました。

その後2014年には地形分野についてある程度(自分にとって)専門的に、2015年に東海道水運支路仮説と地名データベースについて同じくある程度(自分にとって)専門的に取り組んできました。

2014年、2015年の取り組みの中で、さらに細分化された新発見的事象を多数見つけ、興味を深めています。

全ての新発見的事象についてさらに詳細検討することは、残された想定人生時間を考えると、無理であると考えますから、今後は取り組むテーマについて、選択と集中を意識的に行うことが大切であると考えます。

現在、東海道水運支路仮説ということで奈良時代に焦点を当てた検討を継続していますが、奈良時代の検討をできるだけ早く切り上げ、縄文時代検討に移動したいと考えています。

縄文時代検討と同時に縄文時代をよく理解するために必要な旧石器時代の検討にも興味があります。

今後は、考古歴史を軸に地形、地名の情報をGIS上で有効活用して検討することによって、自分の探求欲を満たしていこうと思います。








2016年1月13日水曜日

2016.01.13 タメフン

久しぶりに弁天橋橋桁鉄骨でタメフン(正確にはまだ溜まっていないのでただのフン)を観察しました。

タメフンの状況 1

タメフンの状況 1 拡大

タメフンの状況 2

このフンは2015.01.11早朝にはなかったので、一昨晩か昨晩のものです。

タメフンの状況1と全く同じ場所で2013.07.28に観察したタメフンの状況を次に示します。

2013.07.28 タメフンの状況

2013.07.28 タメフンの状況 拡大

同じ場所に3年後にタメフンするのですから、この獣は同じ個体か、行動特性を引き継いだ子孫だと考えます。

ハクビシンを時々観察するので、ハクビシンのタメフンだと思います。

以前WEB検索していたら、ハクビシンが観測用鉄塔の上をタメフンの場にした例の論文を見たことがあります。

弁天橋橋桁鉄骨も同じように鉄製品で高所ですから、ハクビシンがタメフンをする場として好条件のようです。

弁天橋橋桁鉄骨は獣にとって、夜間人通りが途絶えて人の目が無くなった時に、花見川の東岸と西岸を安全に渡れる数少ない場所であると考えます。

そこは高所であり(見晴らしがよく)、雑草や物がなく、乾燥していて、自分や同族の存在感を示す場として最適であり、タメフンの場になっているのだと思います。

タメフン(弁天橋)とハクビシン観察箇所
Google Earth利用


2016.01.13 今朝の花見川

冷え込んだ朝で霜が一面に降って、空間が白くなっていました。

カメラを持つ手もかじかみます。

やっと真冬という雰囲気になりました。

柏井橋付近の畑

畑の柵に降った霜

針のような1~2㎜の着氷(霜)が天に向かってびっしりついています。

花見川風景

真竹が降雪時のように白くなっていました。

花見川風景

花見川風景

花見川風景

花見川風景

弁天橋から下流

弁天橋から上流

畑の空

2016年1月12日火曜日

鳴神山遺跡直線道路の発掘写真(古代自動運転道路)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.266 鳴神山遺跡直線道路の発掘写真(古代自動運転道路)

鳴神山遺跡直線道路から思考を四方八方に広げて船橋市夏見の大結馬牧との関連や、果ては千葉市花見川区地名「犢橋(コテハシ)」の語源にまで至っています。

その肝心かなめの鳴神山遺跡直線道路の発掘写真はこれまで確認していませんでしたが、ようやく図書館で発掘写真のコピーを入手することができましたので紹介します。

鳴神山遺跡直線道路M004の発掘写真
「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用


白井谷奥遺跡直線道路029の発掘写真
(鳴神山遺跡直線道路M004の延長部)
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)から引用

硬化面の上に埋め土があり、その上に周辺竪穴住居から捨てられたと考えられる廃棄物(8世紀末~9世紀初頭)が堆積している状況が発掘調査報告書に記載されています。

自分自身の解釈として、この道路は牛馬の通行を優先して地面を掘って作られたと考えます。

道路を周辺の土地より掘った溝状の形状にすれば、牛馬に歩くべきルートを確実に知らせることができます。牛馬にいちいち指示しなくてすみます。

現代の道路構造が自動車優先であるように、古代の道路構造は牛馬優先であったということです。

古代にあって、牛は軍用トラック、馬は乗用車とか軍用ジープ、あるいは自走砲(騎馬)であったということです。

牛馬にいちいち歩く場所を指示しなくても、牛馬を追い立ていれば目的地につける道路ですから、この道路は古代の自動運転道路であったといえます。

これまでの検討で鳴神山遺跡直線道路は鳴神山遺跡で完結しているのではなく、東西隣の台地にも延伸していたいたことは戦後の空中写真からも確かめることができました。

従って、この道路の起終点ABは鳴神山遺跡にあるのではなく、もっと遠方にあります。具体的には起点Aの一つは船橋市夏見に在った大結馬牧、終点Bの一つは香取の海沿岸にあった牛馬を船に乗せ常陸国へ運ぶミナトであると考えました。
2016.01.07記事「大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説」参照

この直線道路から展開できる下総台地古代史ドラマは大きなものがあると考えました。

この直線道路に関して「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では次のように記述されています。

鳴神山遺跡直線道路に関する記述
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

この記述は道路意義に関して鳴神山遺跡内に視野を限定してしまっていて、物足りません。

この道路は現代風に言えば自動車専用道路とか高規格道路みたいなものと考えます。(軍用牛馬搬送専用道路と仮説しています。)

地先集落からみると、地域分断こそすれ集落内移動のためにどれだけ役立っていたか疑問が生まれます。

その証拠に、蝦夷戦争の動員が終わると同時に埋め立てられてしまい、その後集落が急成長します。(ピークは9世紀第2四半期)

集落の発展という意味では有用物ではなく、反対に阻害物であったと考えます。

道路が地域分断こそすれ、地先地域発展に役立たないという、現代における自動車専用道路とか高規格道路と地先地域との関係と同じ関係が古代にもあったと考えます。