花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.283 鳴神山遺跡 刀子の検討 2
2016.02.06記事「鳴神山遺跡 刀子の検討」では9世紀第2四半期から9世紀第4四半期までは、集落発展ピークを迎え、そこから凋落した時期で、集落凋落の主因は盗賊の略奪行為であり、その防御のために刀子の意義が変化し、単なる万能道具から武器としての役割に重点が移ったと検討しました。
年代を追う刀子出土イメージは竪穴住居の消長と異なり、9世紀第3四半期では竪穴住居数に比して多いことを論じました。
この様子をデータで表現してみました。
次のグラフは年代別の竪穴住居からの刀子平均出土数です。
鳴神山遺跡竪穴住居 刀子平均出土数
刀子平均出土数は9世紀第2四半期から第4四半期までと、それ以外の年代では大きく異なります。
9世紀第2四半期から第4四半期までは盗賊の略奪行為に対抗するために刀子の役割に武器としての要素が加わり、道具として利用していた時代と比べて、その所持が大幅に増えたものと考えます。
9世紀第3四半期の刀子平均出土数が最高値となりますから、この年代が盗賊による略奪行為が最も深刻であったと考えます。
この考えをポンチ絵で示すと次のようになります。
時代により変化した刀子の役割
武器そのものである鉄鏃について、同じく平均出土数を見ると次のようになります。
鳴神山遺跡竪穴住居 鉄鏃平均出土数
刀子と同じ傾向が読み取れます。
刀子と同じく9世紀第3四半期の平均出土数が最高値となり、この年代の略奪行為が最も深刻であったことをこのデータからも確認できます。
参考までに、紡錘車の平均出土数を見てみます。
鳴神山遺跡竪穴住居 紡錘車平均出土数
右肩上がりでグラフが推移しますから、竪穴住居1軒あたりの道具が時代を追って増え、糸(布、製品等)の竪穴住居1軒あたり生産量は増大していったものと考えます。
8世紀第2四半期から8世紀第3四半期の間には紡錘車平均出土数の飛躍がありますから、8世紀第3四半期になって麻糸(布、製品)の生産のための規模の大きな地域開発が鳴神山遺跡で行われたと考えます。
9世紀になり「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団が移住してきたころから鉄製紡錘車が増え、それは絹糸生産を表している可能性を検討しています。
9世紀第4四半期になると、その前の時代より紡錘車平均出土数が飛躍的に増えます。集落全体が凋落するなかで紡錘車平均出土数が増える理由として、糸(布、製品)生産は盗賊の略奪に対して牧(馬生産)より耐性があり、牧が全滅した時、ある程度の人員が糸生産に衣替えしたのではないかと空想します。
牧業務が略奪されて、商品としての馬を盗られてしまえば、その回復には多大の経費と時間が必要となりますが、糸生産の場合は在庫を盗られても、翌年から再び生産活動に入ることは、牧業務とくらべて容易です。
2016年2月7日日曜日
2016年2月6日土曜日
鳴神山遺跡 刀子の検討
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.282 鳴神山遺跡 刀子の検討
鳴神山遺跡の刀子出土について検討します。
刀子の年代別出土イメージ図を作成し、同じ方法で作成して竪穴住居、紡錘車、鉄鏃と対照させてみました。
刀子と竪穴住居、紡錘車、鉄鏃の年代別出土数イメージの対照
竪穴住居の消長が鳴神山遺跡の消長そのものであると考えます。このグラフパターンと、紡錘車出土イメージパターンは似ていると感じます。
一方このパターンと鉄鏃パターンを比較すると、集落が凋落しだす9世紀第3四半期において、鉄鏃の減少の割合が少ないことに気が付きます。
これは集落が衰退しだしているのですが、盗賊の略奪が激しく、対人殺傷兵器である鉄鏃の需要は高く、守るべき竪穴住居は減ったにも関わらず、それに比例して鉄鏃が減少しなかったことを物語っています。
現時点では集落凋落の主因が盗賊の略奪行為であったと想定しています。
さて、刀子ですが、刀子は万能道具であったといわれています。同時に護身用武器であったとも考えてきました。その2面のうち、歴史書物の記述から受ける印象は万能道具であった点が強調されているように感じてきました。
鳴神山遺跡の刀子の年代別出土イメージをみると、鉄鏃以上に9世紀第3四半期の減少が少なくなっています。
このグラフから、9世紀第2四半期以降は、専用武器(鉄鏃)以上に刀子が集落防衛のための武装具として大切なものであったことが判ります。
恐らく、刀子は集落の上層階層の男子全員が常時所持していて、盗賊の来襲時には武器として利用したものと考えます。
鉄鏃は槍と弓矢という武器で戦闘員(「大加」集団)が先鋒として使い、その後一般男子が刀子で応戦したものと想像します。
上記出土数イメージグラフから刀子の意義について、より深く認識することができました。
鳴神山遺跡では、9世紀第1四半期までの刀子の意義は、恐らく万能道具の方に重点があり、9世紀第2四半期以降は武器としての役割に重点があったものと認識します。
次に、年代別に鉄鏃と刀子の出土分布イメージ図を対照させてみました。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第1四半期
同じ1つの竪穴住居から鉄鏃1点と刀子4点が出土しています。
この場所が直線道路から離れているので、この時代にはまだ直線道路は作らていなかったように感じます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第2四半期
直線道路南側で、道路近くに一定間隔で刀子出土竪穴住居が分布します。
この時代には道路が使われていたことは確実であると考えます。
直線道路と刀子出土竪穴住居が関係あると推定します。
道路に面していて、道路利用者との何らかの交渉(関係)を持っていたと推定します。他の出土物や墨書文字などから道路との関係が浮かびあがるかもしれません。(例 他地域との交流を示す出土物の比率が大きいなど)
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第4四半期
集落の発展がピークとなり、鉄鏃、刀子ともに前の時代より急増します。
集落が発展して経済的豊かになるとともに、それを略奪する盗賊の来襲が増えたことを物語っていると考えます。
鉄鏃と刀子出土の数がともに多い竪穴住居がいくつかあり、砦(防衛拠点)のような役割を果たしていたと考えます。
鉄鏃出土竪穴住居より刀子出土竪穴住居の方が多いのは、鉄鏃の使用者は戦闘員(武士)であり、刀子の使用者は一般男子であったからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第3四半期
集落が衰退しだしていて、鉄鏃出土は減りますが、刀子出土はほとんど減りません。
盗賊の来襲が激しく、戦闘員だけでなく一般男子も盗賊に対抗して戦う必要性がそれまで以上に増大したからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第4四半期
鳴神山遺跡の刀子出土について検討します。
刀子の年代別出土イメージ図を作成し、同じ方法で作成して竪穴住居、紡錘車、鉄鏃と対照させてみました。
刀子と竪穴住居、紡錘車、鉄鏃の年代別出土数イメージの対照
竪穴住居の消長が鳴神山遺跡の消長そのものであると考えます。このグラフパターンと、紡錘車出土イメージパターンは似ていると感じます。
一方このパターンと鉄鏃パターンを比較すると、集落が凋落しだす9世紀第3四半期において、鉄鏃の減少の割合が少ないことに気が付きます。
これは集落が衰退しだしているのですが、盗賊の略奪が激しく、対人殺傷兵器である鉄鏃の需要は高く、守るべき竪穴住居は減ったにも関わらず、それに比例して鉄鏃が減少しなかったことを物語っています。
現時点では集落凋落の主因が盗賊の略奪行為であったと想定しています。
さて、刀子ですが、刀子は万能道具であったといわれています。同時に護身用武器であったとも考えてきました。その2面のうち、歴史書物の記述から受ける印象は万能道具であった点が強調されているように感じてきました。
鳴神山遺跡の刀子の年代別出土イメージをみると、鉄鏃以上に9世紀第3四半期の減少が少なくなっています。
このグラフから、9世紀第2四半期以降は、専用武器(鉄鏃)以上に刀子が集落防衛のための武装具として大切なものであったことが判ります。
恐らく、刀子は集落の上層階層の男子全員が常時所持していて、盗賊の来襲時には武器として利用したものと考えます。
鉄鏃は槍と弓矢という武器で戦闘員(「大加」集団)が先鋒として使い、その後一般男子が刀子で応戦したものと想像します。
上記出土数イメージグラフから刀子の意義について、より深く認識することができました。
鳴神山遺跡では、9世紀第1四半期までの刀子の意義は、恐らく万能道具の方に重点があり、9世紀第2四半期以降は武器としての役割に重点があったものと認識します。
次に、年代別に鉄鏃と刀子の出土分布イメージ図を対照させてみました。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第1四半期
同じ1つの竪穴住居から鉄鏃1点と刀子4点が出土しています。
この場所が直線道路から離れているので、この時代にはまだ直線道路は作らていなかったように感じます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第2四半期
直線道路南側で、道路近くに一定間隔で刀子出土竪穴住居が分布します。
この時代には道路が使われていたことは確実であると考えます。
直線道路と刀子出土竪穴住居が関係あると推定します。
道路に面していて、道路利用者との何らかの交渉(関係)を持っていたと推定します。他の出土物や墨書文字などから道路との関係が浮かびあがるかもしれません。(例 他地域との交流を示す出土物の比率が大きいなど)
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第4四半期
集落の発展がピークとなり、鉄鏃、刀子ともに前の時代より急増します。
集落が発展して経済的豊かになるとともに、それを略奪する盗賊の来襲が増えたことを物語っていると考えます。
鉄鏃と刀子出土の数がともに多い竪穴住居がいくつかあり、砦(防衛拠点)のような役割を果たしていたと考えます。
鉄鏃出土竪穴住居より刀子出土竪穴住居の方が多いのは、鉄鏃の使用者は戦闘員(武士)であり、刀子の使用者は一般男子であったからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第3四半期
集落が衰退しだしていて、鉄鏃出土は減りますが、刀子出土はほとんど減りません。
盗賊の来襲が激しく、戦闘員だけでなく一般男子も盗賊に対抗して戦う必要性がそれまで以上に増大したからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第4四半期
2016年2月5日金曜日
2016.02.05 活動日誌 鳴神山遺跡検討を振り返る
現代社会における科学技術の進展は恐ろしくスピードアップしていて、それに伴い自然的社会的事象の認識と解明が急速に進んでいるという印象を持っています。
それと類似の出来事がこのブログでも生じているという感想を持っています。
鳴神山遺跡の検討を進める中で、発掘調査報告書記載の出土物生データを全部GISデータベース化して、遺物や墨書文字相互の年代別統計的分析が可能となり、その結果をGIS空間にわけもなくプロットできるようになりました。(年代別データは183サンプル調査の竪穴住居に関し存在しています。)
自分のGIS技術革新が大いに進んだということです。社会における技術革新進展の恩恵を、私もささやかですが享受させていただいたということです。
おかげで、昨年までは不可能だった次のような検討をこれまでに行ってきています。
鳴神山遺跡に関する年代別空間分布図作成項目
今後、同じような年代別空間分布図作成を伴う検討を次のような項目で行うこととします。
●刀子
●土器(種類別出土数等)
●墨書土器率
これ以外にも検討したい項目はあるのですが、きりがないので年代別空間分布図作成を伴う検討はこれで打ち切るつもりです。
これまでの検討は鳴神山遺跡情報をまず項目別に分けてしまい、それを年代別に空間分布を見てきたことになります。
この検討で鳴神山遺跡の特性が次のように年代的に2分されることがよくわかってきました。
鳴神山遺跡の年代区分
前期は蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代であり8世紀をメインとする時期です。この時期には集落を貫く直線道路が機能していました。集落の特性は蝦夷戦争と切っても切れない関係にあったと考えます。
後期は蝦夷戦争の動員から解放されて集落が経済的に大発展し、その後急速に衰退した9世紀をメインとする時期です。前期とは全く異なる文脈で集落が成長し消滅しました。
鳴神山遺跡といってもこのように前期と後期ではその特性が全く異なります。
そのため、鳴神山遺跡の特性をより詳細に知るためには、年代別に出土物項目を総合的に検討する必要があります。
年代毎に集落の構造を調べる必要があります。
そこで、項目別に行った年代別空間分布図作成を打ち切った後、新たに年代別出土物総合検討を行うつもりです。
その際、前期の検討では集落と直線道路との関係が検討のポイントになりそうです。
後期の検討では集落発展の要因分析、集落凋落の要因分析が検討のポイントになりそうです。
それと類似の出来事がこのブログでも生じているという感想を持っています。
鳴神山遺跡の検討を進める中で、発掘調査報告書記載の出土物生データを全部GISデータベース化して、遺物や墨書文字相互の年代別統計的分析が可能となり、その結果をGIS空間にわけもなくプロットできるようになりました。(年代別データは183サンプル調査の竪穴住居に関し存在しています。)
自分のGIS技術革新が大いに進んだということです。社会における技術革新進展の恩恵を、私もささやかですが享受させていただいたということです。
おかげで、昨年までは不可能だった次のような検討をこれまでに行ってきています。
鳴神山遺跡に関する年代別空間分布図作成項目
今後、同じような年代別空間分布図作成を伴う検討を次のような項目で行うこととします。
●刀子
●土器(種類別出土数等)
●墨書土器率
これ以外にも検討したい項目はあるのですが、きりがないので年代別空間分布図作成を伴う検討はこれで打ち切るつもりです。
これまでの検討は鳴神山遺跡情報をまず項目別に分けてしまい、それを年代別に空間分布を見てきたことになります。
この検討で鳴神山遺跡の特性が次のように年代的に2分されることがよくわかってきました。
鳴神山遺跡の年代区分
前期は蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代であり8世紀をメインとする時期です。この時期には集落を貫く直線道路が機能していました。集落の特性は蝦夷戦争と切っても切れない関係にあったと考えます。
後期は蝦夷戦争の動員から解放されて集落が経済的に大発展し、その後急速に衰退した9世紀をメインとする時期です。前期とは全く異なる文脈で集落が成長し消滅しました。
鳴神山遺跡といってもこのように前期と後期ではその特性が全く異なります。
そのため、鳴神山遺跡の特性をより詳細に知るためには、年代別に出土物項目を総合的に検討する必要があります。
年代毎に集落の構造を調べる必要があります。
そこで、項目別に行った年代別空間分布図作成を打ち切った後、新たに年代別出土物総合検討を行うつもりです。
その際、前期の検討では集落と直線道路との関係が検討のポイントになりそうです。
後期の検討では集落発展の要因分析、集落凋落の要因分析が検討のポイントになりそうです。
2016年2月4日木曜日
鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.281 鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討2
鳴神山遺跡出土墨書文字の「万」は政所(マンドコロ)であるとの解釈に基づいて検討を展開しています。
この記事では年代別「万」分布状況と特徴的な共伴出土文字について検討します。
なお、「万」は8世紀第3四半期までの出土はありません。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
「万」出土竪穴住居は2軒で、一方は「工」集団、「大」集団、「依」集団の祈願文字が出土します。この付近は掘立柱建物群の近くで「依」集団の本拠地であり、鳴神山遺跡の最初の拠点であったことは間違いないと考えます。
釈文「≡」という墨書土器が出土しますが、これをミソ(味噌)と読んで、この政所で味噌の製造販売が行われていたと想像します。
もう一方の「万」は直線道路すぐ脇であり、この時代にはまだ直線道路が機能していたので、この政所と直線道路が関係していたかもしれません。特にその位置が直線道路に近いだけでなく、この台地の中央部に位置していて、道路利用者にとって便利の良い場所にあるように感じます。今のところこの政所と道路をそれ以上に結びつける情報はありません。近々詳しく検討する予定です。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
「万」に共伴出土する生業集団に関わる文字は「大」、「山本」、「依」、「工」の4種類が出土します。
この時代の最初期までには直線道路が破棄埋め立てされたと考えられていますから、この図の情報は道路機能との関係が無いことになります。従って、直線道路の存在がその後の鳴神山遺跡集落形成に及ぼした影響はほとんど無かったと結論付けることができそうです。
直線道路跡を超えて北側に「万」の分布が広がります。
生業集団「山本」と一緒に「丈部」を含む長文土器が出土します。「山本」集団と集落の最高権力者「丈部」一族が結びつきます。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第2四半期
集落最盛期を迎え、「万」分布も最も広がります。
「万」に共伴する生業集団祈願文字は「山本」、「依」、「大」、「大加」、「久弥良」、「工」の6つが確認でき、集落内生業集団が最も増えた年代になります。「大加」「久弥良」は外部から集落に新たに移住したと考えています。「久弥良」(クビラ…金毘羅)は関西から移住してきた集団であると考えています。
「山本」に共伴して「丈部」が、また別の場所で「山本」の近くで「本家」が出土します。
このような「万」(政所…拠点)-「山本」-「丈部」「本家」という情報のつながりから、鳴神山遺跡がピークだった9世紀第2四半期では最高権力集団は丈部氏族であり、その氏族は「山本」を名乗り(実際に山=耕地の元締めであり)、他集団から本家として位置づけられていたことが判ります。
「山本」と一緒に「田に□」が出土する「万」がありますが、「山本」集団が水田耕作の元締めであったことを示していると考えます。
「大」と「依」が出土する政所から「申牛」という文字が出土します。これは「牛の所有を叶えてください」という祈願であると考えます。
耕地で使う牛を希望していたようですから、この付近が耕作地で、「大」あるいは「依」集団が農耕に従事していたことがわかります。
……………………………………………………………………
参考
もう・す まうす【申】
〖他サ五(四)〗 (上代は「まをす」。上代末ごろから、それの変化した「まうす」の形が現われた)
③ (神仏や朝廷など支配者に)お願い申しあげる。所望申しあげる。
書紀(720)継体元年二月「神祇を敬祭、天皇の息(みこ)を求(まう)して」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
……………………………………………………………………
「申牛」出土の近くの政所で「大」「久弥良」とともの「富長ヵ」が出土します。「富長ヵ」は「長(オサ…指導者)の役割を果たしている自分が富むように」という祈願だと考えます。「長」(オサ)という言葉がある程度の上級指導者であると考えると、この出土場所一体付近が、この年代の集落中心地であると考えることができます。
「万」の文字多出遺構が重なり、その場所から「大」、「長」、「卅」が出土します。「長」(オサ)に注目すると、この場所は「大」集団の根拠地であることが確認できます。
「卅」はミソと読み政所で味噌製造販売が行われていたと考えます。
「大」「大加」と「攴」が出土する政所があります。「攴」は鞭打つという意味で、刑罰執行を意味すると考えます。
「攴」は警察業務の祈願語であると考えます。
「大加」集団は「弓」(戦闘業務)の文字も使っていますから、戦闘員(武士)であり、同時に刑罰執行人でもあったと考えます。
「大」集団が親元になり、「大加」集団を外部から招き、集落の警備と治安維持を図っていたと考えます。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と似た状況が続きます。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第4四半期
集落の衰退とともに「万」出土遺構(政所)も減少します。
「山本」の出土がありませんから、この頃には盛時の権力構造は失われていて、最古参の「依」集団と「山本」配下であった「大」集団やさらにその配下「久弥良」集団により集落が構成されていたようです。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第1四半期
「万」と共伴する文字は「依」だけです。
竪穴住居数はたった4軒(183軒サンプル調査)になりましたが、「万」が出土しますから、政所が存在していたことが確認できます。この場所に10世紀になっても行政機構が存在していたことを知ることができました。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第2四半期
10世紀第1四半期と状況は同じです。
鳴神山遺跡出土墨書文字の「万」は政所(マンドコロ)であるとの解釈に基づいて検討を展開しています。
この記事では年代別「万」分布状況と特徴的な共伴出土文字について検討します。
なお、「万」は8世紀第3四半期までの出土はありません。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
「万」出土竪穴住居は2軒で、一方は「工」集団、「大」集団、「依」集団の祈願文字が出土します。この付近は掘立柱建物群の近くで「依」集団の本拠地であり、鳴神山遺跡の最初の拠点であったことは間違いないと考えます。
釈文「≡」という墨書土器が出土しますが、これをミソ(味噌)と読んで、この政所で味噌の製造販売が行われていたと想像します。
もう一方の「万」は直線道路すぐ脇であり、この時代にはまだ直線道路が機能していたので、この政所と直線道路が関係していたかもしれません。特にその位置が直線道路に近いだけでなく、この台地の中央部に位置していて、道路利用者にとって便利の良い場所にあるように感じます。今のところこの政所と道路をそれ以上に結びつける情報はありません。近々詳しく検討する予定です。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
「万」に共伴出土する生業集団に関わる文字は「大」、「山本」、「依」、「工」の4種類が出土します。
この時代の最初期までには直線道路が破棄埋め立てされたと考えられていますから、この図の情報は道路機能との関係が無いことになります。従って、直線道路の存在がその後の鳴神山遺跡集落形成に及ぼした影響はほとんど無かったと結論付けることができそうです。
直線道路跡を超えて北側に「万」の分布が広がります。
生業集団「山本」と一緒に「丈部」を含む長文土器が出土します。「山本」集団と集落の最高権力者「丈部」一族が結びつきます。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第2四半期
集落最盛期を迎え、「万」分布も最も広がります。
「万」に共伴する生業集団祈願文字は「山本」、「依」、「大」、「大加」、「久弥良」、「工」の6つが確認でき、集落内生業集団が最も増えた年代になります。「大加」「久弥良」は外部から集落に新たに移住したと考えています。「久弥良」(クビラ…金毘羅)は関西から移住してきた集団であると考えています。
「山本」に共伴して「丈部」が、また別の場所で「山本」の近くで「本家」が出土します。
このような「万」(政所…拠点)-「山本」-「丈部」「本家」という情報のつながりから、鳴神山遺跡がピークだった9世紀第2四半期では最高権力集団は丈部氏族であり、その氏族は「山本」を名乗り(実際に山=耕地の元締めであり)、他集団から本家として位置づけられていたことが判ります。
「山本」と一緒に「田に□」が出土する「万」がありますが、「山本」集団が水田耕作の元締めであったことを示していると考えます。
「大」と「依」が出土する政所から「申牛」という文字が出土します。これは「牛の所有を叶えてください」という祈願であると考えます。
耕地で使う牛を希望していたようですから、この付近が耕作地で、「大」あるいは「依」集団が農耕に従事していたことがわかります。
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参考
もう・す まうす【申】
〖他サ五(四)〗 (上代は「まをす」。上代末ごろから、それの変化した「まうす」の形が現われた)
③ (神仏や朝廷など支配者に)お願い申しあげる。所望申しあげる。
書紀(720)継体元年二月「神祇を敬祭、天皇の息(みこ)を求(まう)して」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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「申牛」出土の近くの政所で「大」「久弥良」とともの「富長ヵ」が出土します。「富長ヵ」は「長(オサ…指導者)の役割を果たしている自分が富むように」という祈願だと考えます。「長」(オサ)という言葉がある程度の上級指導者であると考えると、この出土場所一体付近が、この年代の集落中心地であると考えることができます。
「万」の文字多出遺構が重なり、その場所から「大」、「長」、「卅」が出土します。「長」(オサ)に注目すると、この場所は「大」集団の根拠地であることが確認できます。
「卅」はミソと読み政所で味噌製造販売が行われていたと考えます。
「大」「大加」と「攴」が出土する政所があります。「攴」は鞭打つという意味で、刑罰執行を意味すると考えます。
「攴」は警察業務の祈願語であると考えます。
「大加」集団は「弓」(戦闘業務)の文字も使っていますから、戦闘員(武士)であり、同時に刑罰執行人でもあったと考えます。
「大」集団が親元になり、「大加」集団を外部から招き、集落の警備と治安維持を図っていたと考えます。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と似た状況が続きます。
集落の衰退とともに「万」出土遺構(政所)も減少します。
「山本」の出土がありませんから、この頃には盛時の権力構造は失われていて、最古参の「依」集団と「山本」配下であった「大」集団やさらにその配下「久弥良」集団により集落が構成されていたようです。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第1四半期
「万」と共伴する文字は「依」だけです。
竪穴住居数はたった4軒(183軒サンプル調査)になりましたが、「万」が出土しますから、政所が存在していたことが確認できます。この場所に10世紀になっても行政機構が存在していたことを知ることができました。
鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「万」出土イメージ 10世紀第2四半期
10世紀第1四半期と状況は同じです。
2016年2月3日水曜日
鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討1
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.280 鳴神山遺跡 万(マンドコロ)の検討1
2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」で、鳴神山遺跡に多出する墨書文字「万」をマンドコロと読み、政所(財政や訴訟などの日常政治実務を処理した政庁)と理解しました。
その理解から、「千万」は銭政所(財政中心の政所)、「七万」は質政所(質屋)、「酒万」は酒政所(酒製造販売)、「中万」は中政所(仲間内の中級レベルの政所)、「上万」は上政所(集団を超えた上級レベルの政所)という解釈を導きました。
また、文字「大」、「大加」、「久弥良」、「山本」、「依」、「工」などは生業を一にする集団の祈願語であると考えましたが、「万」は各集団の中で政所機能を担う者(あるいは家族)がその機能全うの祈願語であると考えました。「万」という特定集団は存在しないと考えます。
万(マンドコロ)が出土した竪穴住居は(あるいはその場所をごみ溜めとして使った近隣の竪穴住居は)政所機能が存在していて、現在社会の機能で考えれば、銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所などの機能が圧縮して全部備わっていたことになります。
この政所を意味する文字「万」の年代別出土状況を次に示します。
鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」墨書土器出土イメージ
蝦夷戦争準備時代には全く出土しません。
蝦夷戦争時代に2点だけ出土します。政所という機能が蝦夷戦争時代に初めて導入されたと考えます。
動員解除・戦後時代の9世紀第1四半期に増加し、9世紀第2四半期にピークとなります。その後、集落の衰退傾向とともに出土数が減少します。
政所という機能は9世紀第1四半期に発展し、9世紀第2四半期に完成されたと考えます。
次に、文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況を見てみます。
文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況
「万」出土竪穴住居とサンプル全数を比較してみると、「万」出土竪穴住居は鉄製紡錘車、鉄鏃、刀子でサンプル全数と比べてその出土数が顕著に多くなっています。
この結果から「万」出土から想定される政所機能を担った竪穴住居は、生業の道具においては高機能品を装備し、自衛のための武器もより多く備えていたことがわかります。
一言でいえば、集落の中で支配の側にポジションを持つ資産のある竪穴住居であることを確認できます。
次に、文字「万」出土割合を年代別に見てみました。
鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」出土割合
8世紀第4四半期は4.0%、9世紀第1四半期は12.1%ですが、9世紀第2四半期になると22.9%となります。そしてそれ以降は25.8~25%です。
政所機能が定着したと考える9世紀第2四半期以降は4~5軒に1軒の割合で政所機能を備えた竪穴住居が存在していたと考えることができます。
つまり、4~5軒の隣組が存在していて、そのリーダーが政所機能を担っていたということです。
現時点では、この情報から、9世紀の鳴神山遺跡では、いくつかの生業集団が存在していて、各集団の末端組織が4~5軒で構成されていて、そのリーダーが政所機能(銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所)を担っていたと考えます。
政所機能を担う竪穴住居(家族)が近隣の3~4軒の竪穴住居(家族)を相手にするという、その規模を考えると、4~5軒のこの末端組織は、行政支配下部組織であるとともに、相互扶助的機能も備えていたと考えざるをえません。
……………………………………………………………………
ウィキペディアの「保」の項に次のような古代律令制における五保の記述があります。
このような古代の行政末端単位と、この記事で検討した万(マンドコロ)の単位が対応するものかどうか、今後学習を深めます。
古代律令制における「保」[編集]
5戸を単位としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称した。5戸をまとめて保という。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負った。
中国には秦の商鞅が定めた什伍に源流を持つ唐の隣保の影響を受けて成立したとされている。日本の戸令では「隣」の制度は設けず、郷・里の下に5戸を1単位とした「保」の制度のみを設けている。戸令には唐の規定を元にして「凡そ戸はみな五家相保れ、一人を長とせよ」(戸令・五家条)という規定が設けられていたが、当時の日本では、唐のように「戸=家」という形態になっていなかったために後に問題を残すことになった。なお、25戸以下の僻遠地には里長を置かず保長が代理する規定があった(「古記」)。
保は同じ保に属する戸に関して、戸が逃走した時には3年間は追訪、不在の間はその田を耕して租や調を納める連帯責任を負っていた。また、保内で犯罪が発生した場合の犯罪者の告発と被害者の救済義務や保内の人が他の場所に赴く際や外部の人間を止宿させる場合には相互告知の義務を負うなど、民衆を公民として本貫に拘束するとともに相互監視や貢租確保のための規定が設けられていた。
白雉3年(652年)に五保の制度が導入されたとする『日本書紀』の記述から、中大兄皇子による大化の改新の一環として導入されたとする見方もあるが、この記事自体を後世の脚色(大宝律令からの転載)とする見方もあり、確実な記述としては大宝2年(702年)に作成された御野国戸籍に記されているの(「正倉院文書」)が最古のもので、以後いくつかの保や保長に関する記述のある文献・木簡・漆紙文書が存在するほか、その記録は乏しい。これについては、当時の日本における戸の規模が大き過ぎた(実際には1戸が血縁関係のある複数の家(族)によって構成されていた)ために、地縁的な家をもって編成されるようになり、法文と実体に相違が生じたこととの関係と言われているが詳細は不明である。ただ、戸籍制度が形骸化した時期のものではあるものの、寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国戸籍では、保を構成する戸の数は不定でむしろ地縁・地域を重視した編成になっていることを伺わせている。
また、律令法においては出挙や奴婢売買の連帯保証人として最高5名までの「保人」が必要であったことが、公式令に記されている。平安時代の土地売買文書に登場し、その後も用語として定着した「保証」の語はこの規定に由来していると考えられているが、「保人」が「五保」と同一の「保」を意味するのか、別のものなのかについては意見が分かれている。
ウィキペディアから引用
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2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」で、鳴神山遺跡に多出する墨書文字「万」をマンドコロと読み、政所(財政や訴訟などの日常政治実務を処理した政庁)と理解しました。
その理解から、「千万」は銭政所(財政中心の政所)、「七万」は質政所(質屋)、「酒万」は酒政所(酒製造販売)、「中万」は中政所(仲間内の中級レベルの政所)、「上万」は上政所(集団を超えた上級レベルの政所)という解釈を導きました。
また、文字「大」、「大加」、「久弥良」、「山本」、「依」、「工」などは生業を一にする集団の祈願語であると考えましたが、「万」は各集団の中で政所機能を担う者(あるいは家族)がその機能全うの祈願語であると考えました。「万」という特定集団は存在しないと考えます。
万(マンドコロ)が出土した竪穴住居は(あるいはその場所をごみ溜めとして使った近隣の竪穴住居は)政所機能が存在していて、現在社会の機能で考えれば、銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所などの機能が圧縮して全部備わっていたことになります。
この政所を意味する文字「万」の年代別出土状況を次に示します。
鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」墨書土器出土イメージ
蝦夷戦争準備時代には全く出土しません。
蝦夷戦争時代に2点だけ出土します。政所という機能が蝦夷戦争時代に初めて導入されたと考えます。
動員解除・戦後時代の9世紀第1四半期に増加し、9世紀第2四半期にピークとなります。その後、集落の衰退傾向とともに出土数が減少します。
政所という機能は9世紀第1四半期に発展し、9世紀第2四半期に完成されたと考えます。
次に、文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況を見てみます。
文字「万」出土竪穴住居からの遺物出土状況
「万」出土竪穴住居とサンプル全数を比較してみると、「万」出土竪穴住居は鉄製紡錘車、鉄鏃、刀子でサンプル全数と比べてその出土数が顕著に多くなっています。
この結果から「万」出土から想定される政所機能を担った竪穴住居は、生業の道具においては高機能品を装備し、自衛のための武器もより多く備えていたことがわかります。
一言でいえば、集落の中で支配の側にポジションを持つ資産のある竪穴住居であることを確認できます。
次に、文字「万」出土割合を年代別に見てみました。
鳴神山遺跡竪穴住居 文字「万」出土割合
8世紀第4四半期は4.0%、9世紀第1四半期は12.1%ですが、9世紀第2四半期になると22.9%となります。そしてそれ以降は25.8~25%です。
政所機能が定着したと考える9世紀第2四半期以降は4~5軒に1軒の割合で政所機能を備えた竪穴住居が存在していたと考えることができます。
つまり、4~5軒の隣組が存在していて、そのリーダーが政所機能を担っていたということです。
現時点では、この情報から、9世紀の鳴神山遺跡では、いくつかの生業集団が存在していて、各集団の末端組織が4~5軒で構成されていて、そのリーダーが政所機能(銀行、質屋(サラ金)、酒屋、裁判所)を担っていたと考えます。
政所機能を担う竪穴住居(家族)が近隣の3~4軒の竪穴住居(家族)を相手にするという、その規模を考えると、4~5軒のこの末端組織は、行政支配下部組織であるとともに、相互扶助的機能も備えていたと考えざるをえません。
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ウィキペディアの「保」の項に次のような古代律令制における五保の記述があります。
このような古代の行政末端単位と、この記事で検討した万(マンドコロ)の単位が対応するものかどうか、今後学習を深めます。
古代律令制における「保」[編集]
5戸を単位としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称した。5戸をまとめて保という。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負った。
中国には秦の商鞅が定めた什伍に源流を持つ唐の隣保の影響を受けて成立したとされている。日本の戸令では「隣」の制度は設けず、郷・里の下に5戸を1単位とした「保」の制度のみを設けている。戸令には唐の規定を元にして「凡そ戸はみな五家相保れ、一人を長とせよ」(戸令・五家条)という規定が設けられていたが、当時の日本では、唐のように「戸=家」という形態になっていなかったために後に問題を残すことになった。なお、25戸以下の僻遠地には里長を置かず保長が代理する規定があった(「古記」)。
保は同じ保に属する戸に関して、戸が逃走した時には3年間は追訪、不在の間はその田を耕して租や調を納める連帯責任を負っていた。また、保内で犯罪が発生した場合の犯罪者の告発と被害者の救済義務や保内の人が他の場所に赴く際や外部の人間を止宿させる場合には相互告知の義務を負うなど、民衆を公民として本貫に拘束するとともに相互監視や貢租確保のための規定が設けられていた。
白雉3年(652年)に五保の制度が導入されたとする『日本書紀』の記述から、中大兄皇子による大化の改新の一環として導入されたとする見方もあるが、この記事自体を後世の脚色(大宝律令からの転載)とする見方もあり、確実な記述としては大宝2年(702年)に作成された御野国戸籍に記されているの(「正倉院文書」)が最古のもので、以後いくつかの保や保長に関する記述のある文献・木簡・漆紙文書が存在するほか、その記録は乏しい。これについては、当時の日本における戸の規模が大き過ぎた(実際には1戸が血縁関係のある複数の家(族)によって構成されていた)ために、地縁的な家をもって編成されるようになり、法文と実体に相違が生じたこととの関係と言われているが詳細は不明である。ただ、戸籍制度が形骸化した時期のものではあるものの、寛弘元年(1004年)に作成された讃岐国戸籍では、保を構成する戸の数は不定でむしろ地縁・地域を重視した編成になっていることを伺わせている。
また、律令法においては出挙や奴婢売買の連帯保証人として最高5名までの「保人」が必要であったことが、公式令に記されている。平安時代の土地売買文書に登場し、その後も用語として定着した「保証」の語はこの規定に由来していると考えられているが、「保人」が「五保」と同一の「保」を意味するのか、別のものなのかについては意見が分かれている。
ウィキペディアから引用
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2016年2月2日火曜日
墨書土器文字検討メモ 八は七?
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.279 墨書土器文字検討メモ 八は七?
2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」で鳴神山遺跡で質(七)が行われ、その政所(万)の存在が墨書土器文字として残っていることを検討しました。
この検討は年代別分布図を作成してさらに詳細検討中です。
その検討中に次のような表を作成しました。
墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字
この表でⅢ175竪穴住居から「七万」(シチマンドコロ…質政所)とともに、「大八大八」が出土しています。
大八大八の刻書土器
Ⅲ175竪穴住居出土
千葉県墨書・刻書土器データベースから引用
大八はほかにも鳴神山遺跡で9点出土しているのですが、これまでその意味が分かりませんでした。
しかし、「七万」と共伴出土しているという情報から、「大八」の「八」は七(質)の意味であることに気が付きました。
……………………………………………………………………
参考
はち【八】
〖名〗
④ 質(しち)をいう、人形浄瑠璃社会の隠語。質を七に通わせ、それを八といいかえたもの。
滑稽本・戯場粋言幕の外(1806)下「れき(〈注〉あの衣)を孫三(〈注〉もらひ)として八(〈注〉質)えかめ(〈注〉入)たら」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
……………………………………………………………………
「大八」は「大」集団が運営する「七万」(質政所)の活動発展を祈願した言葉であると考えます。
質を同じ語呂の「七」に置き換え、さらに隠語的にそれを「八」に置き換えた言葉であることが判りました。
農業の収穫期までの間、質で生活を支えた住民の姿を見るのか、あるいは質という相互扶助的仕組みの意義について思考すべきか、さらには質という仕組みで支配を強化したとみるべきか、興味ある古代社会経済事象に墨書文字からたどり着きました。
鳴神山遺跡等の墨書土器の数字を表す漢字は全て語呂合わせ的、隠語的表現です。
三…味噌
四…(現時点で不明、これも質関連か?)
六…陸奥
七…質
八…質
廿(廾)…つづら
丗(卅)…味噌
千…銭
万…政所
2016.02.01記事「墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)」で鳴神山遺跡で質(七)が行われ、その政所(万)の存在が墨書土器文字として残っていることを検討しました。
この検討は年代別分布図を作成してさらに詳細検討中です。
その検討中に次のような表を作成しました。
墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字
この表でⅢ175竪穴住居から「七万」(シチマンドコロ…質政所)とともに、「大八大八」が出土しています。
大八大八の刻書土器
Ⅲ175竪穴住居出土
千葉県墨書・刻書土器データベースから引用
大八はほかにも鳴神山遺跡で9点出土しているのですが、これまでその意味が分かりませんでした。
しかし、「七万」と共伴出土しているという情報から、「大八」の「八」は七(質)の意味であることに気が付きました。
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参考
はち【八】
〖名〗
④ 質(しち)をいう、人形浄瑠璃社会の隠語。質を七に通わせ、それを八といいかえたもの。
滑稽本・戯場粋言幕の外(1806)下「れき(〈注〉あの衣)を孫三(〈注〉もらひ)として八(〈注〉質)えかめ(〈注〉入)たら」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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「大八」は「大」集団が運営する「七万」(質政所)の活動発展を祈願した言葉であると考えます。
質を同じ語呂の「七」に置き換え、さらに隠語的にそれを「八」に置き換えた言葉であることが判りました。
農業の収穫期までの間、質で生活を支えた住民の姿を見るのか、あるいは質という相互扶助的仕組みの意義について思考すべきか、さらには質という仕組みで支配を強化したとみるべきか、興味ある古代社会経済事象に墨書文字からたどり着きました。
鳴神山遺跡等の墨書土器の数字を表す漢字は全て語呂合わせ的、隠語的表現です。
三…味噌
四…(現時点で不明、これも質関連か?)
六…陸奥
七…質
八…質
廿(廾)…つづら
丗(卅)…味噌
千…銭
万…政所
2016年2月1日月曜日
墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.278 墨書土器文字検討メモ 万(マンドコロ)
鳴神山遺跡出土墨書土器文字のうち万の意味について検討していますが、万と千と七が大いに関係している様子が浮かび上がってきたので、最初の見立てをメモしておきます。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の中に墨書文字「万」を「マンドコロ」(政所)として理解している記述があります。この記述を参考に、以前墨書文字「六万」をムツマンドコロを読み、陸奥政所と理解して検討したことがあります。
2015.11.11記事「墨書文字「六万」はムツマンドコロか?」参照
鳴神山遺跡でも墨書文字「万」が多数出土しているので、興味を持って検討してます。
文字「万」をマンドコロと読み政所と理解すると、他の文字の意味も芋づる式に判ってきましたので、メモしておきます。
政所の意味を次の事典のようにとらえておきます。
……………………………………………………………………
まんどころ 政所
①財政や訴訟など日常的政治実務を処理した政庁。政所の語は奈良時代の史料にもみえ,8世紀中期には〈造東大寺司政所牒〉〈筑前国政所牒〉などもみえる。大宰府や国などの政府出先機関や半ば公的性格をもっていた大寺社などは,早くからその財政に関する収納や給田などの実務と,訴訟の受理・裁断,人事の管理,使者の発遣,文書の受理・発給・保管などの日常的政治支配を行う機関として政所を設置し,またその庁舎である政所屋〘まんどころや〙をもときに政所とよんでいた。荘園制が盛行する11世紀以降には,荘園の現地に政所をおき,日常的な徴税や荘民の訴論を処理したところも少なくない。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
……………………………………………………………………
鳴神山遺跡の墨書文字「万」(マンドコロ)出土状況は次の通りです。
鳴神山遺跡 墨書文字「万」(マンドコロ)出土数
中万が11、千万が9、七万が3出土しています。
政所が財政を管理していたことから千万はセンマンドコロと読んで銭政所の意味として捉えます。
千万は銭貨の財政や訴訟等の活動を行う者がその活動を全うしたいという祈願語であったと考えます。
また質(シチ)の運営・管理も政所が行っていたと考えることができますから、七万はシチマンドコロと読んで質政所の意味であると考えます。
物のみならず土地も質の対象になり、それらの物(諸質物)と土地(質券地)の管理や訴訟等の活動を行うものが、その活動について祈願した祈願語であると考えます。
酒屋の運営も政所が行っていたと考えることができますから、酒万はサケマンドコロと読んで、酒屋活動(酒造りとその販売)の祈願語であったと考えます。
次に、2つ以上の「万」関係墨書土器が共伴出土した例を示します。
2つ以上の「万」関係墨書土器が共伴出土した例
この情報から、千万(銭政所)と中万(中政所)と万(政所)が共伴出土している例が多いことがわかります。
千万と中万と万は同じ政所を別表現しているのではないかと考えます。
この結果を踏まえて、中万(ナカマンドコロ)の「中」の意味は中級レベルの財政や訴訟を扱う政所という意味か、あるいは集団の仲間内(集団の中)の財政や訴訟を扱う政所という意味だと解釈します。
従って、上万(ウエマンドコロ)は上級レベルの財政や訴訟、身内集団を超えた財政や訴訟を扱う政所という意味に解釈します。
次に墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字を示します。
墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字
共伴出土文字には「大」集団、「大加」集団、「久弥良」集団、「山本」集団、「依」集団の文字がふくまれます。
鳴神山遺跡の主だった墨書文字集団が全て含まれます。
この現象から、「万」は政所という機能に関わる祈願文字であり、集団の本来生業に関わる祈願文字ではないことが確認できます。
「万」という集団は存在していおらず、例えば「大」集団の中に政所機能を担う者(集団内の官僚)が存在していて、その者が「万」という祈願語を使ったということです。
中万(ナカマンドコロ)が最大出土数であることも、政所機能(財政や訴訟機能)が集団毎に設けられていたことを物語ります。
つづく
鳴神山遺跡出土墨書土器文字のうち万の意味について検討していますが、万と千と七が大いに関係している様子が浮かび上がってきたので、最初の見立てをメモしておきます。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」の中に墨書文字「万」を「マンドコロ」(政所)として理解している記述があります。この記述を参考に、以前墨書文字「六万」をムツマンドコロを読み、陸奥政所と理解して検討したことがあります。
2015.11.11記事「墨書文字「六万」はムツマンドコロか?」参照
鳴神山遺跡でも墨書文字「万」が多数出土しているので、興味を持って検討してます。
文字「万」をマンドコロと読み政所と理解すると、他の文字の意味も芋づる式に判ってきましたので、メモしておきます。
政所の意味を次の事典のようにとらえておきます。
……………………………………………………………………
まんどころ 政所
①財政や訴訟など日常的政治実務を処理した政庁。政所の語は奈良時代の史料にもみえ,8世紀中期には〈造東大寺司政所牒〉〈筑前国政所牒〉などもみえる。大宰府や国などの政府出先機関や半ば公的性格をもっていた大寺社などは,早くからその財政に関する収納や給田などの実務と,訴訟の受理・裁断,人事の管理,使者の発遣,文書の受理・発給・保管などの日常的政治支配を行う機関として政所を設置し,またその庁舎である政所屋〘まんどころや〙をもときに政所とよんでいた。荘園制が盛行する11世紀以降には,荘園の現地に政所をおき,日常的な徴税や荘民の訴論を処理したところも少なくない。
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
……………………………………………………………………
鳴神山遺跡の墨書文字「万」(マンドコロ)出土状況は次の通りです。
鳴神山遺跡 墨書文字「万」(マンドコロ)出土数
中万が11、千万が9、七万が3出土しています。
政所が財政を管理していたことから千万はセンマンドコロと読んで銭政所の意味として捉えます。
千万は銭貨の財政や訴訟等の活動を行う者がその活動を全うしたいという祈願語であったと考えます。
また質(シチ)の運営・管理も政所が行っていたと考えることができますから、七万はシチマンドコロと読んで質政所の意味であると考えます。
物のみならず土地も質の対象になり、それらの物(諸質物)と土地(質券地)の管理や訴訟等の活動を行うものが、その活動について祈願した祈願語であると考えます。
酒屋の運営も政所が行っていたと考えることができますから、酒万はサケマンドコロと読んで、酒屋活動(酒造りとその販売)の祈願語であったと考えます。
次に、2つ以上の「万」関係墨書土器が共伴出土した例を示します。
2つ以上の「万」関係墨書土器が共伴出土した例
この情報から、千万(銭政所)と中万(中政所)と万(政所)が共伴出土している例が多いことがわかります。
千万と中万と万は同じ政所を別表現しているのではないかと考えます。
この結果を踏まえて、中万(ナカマンドコロ)の「中」の意味は中級レベルの財政や訴訟を扱う政所という意味か、あるいは集団の仲間内(集団の中)の財政や訴訟を扱う政所という意味だと解釈します。
従って、上万(ウエマンドコロ)は上級レベルの財政や訴訟、身内集団を超えた財政や訴訟を扱う政所という意味に解釈します。
次に墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字を示します。
墨書文字「万」(マンドコロ)と共伴出土文字
共伴出土文字には「大」集団、「大加」集団、「久弥良」集団、「山本」集団、「依」集団の文字がふくまれます。
鳴神山遺跡の主だった墨書文字集団が全て含まれます。
この現象から、「万」は政所という機能に関わる祈願文字であり、集団の本来生業に関わる祈願文字ではないことが確認できます。
「万」という集団は存在していおらず、例えば「大」集団の中に政所機能を担う者(集団内の官僚)が存在していて、その者が「万」という祈願語を使ったということです。
中万(ナカマンドコロ)が最大出土数であることも、政所機能(財政や訴訟機能)が集団毎に設けられていたことを物語ります。
つづく
2016年1月31日日曜日
鳴神山遺跡 「依」集団の再検討
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.277 鳴神山遺跡 「依」集団の再検討
2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で文字「依」を祈願語として共有する集団を被服関係集団と見立て、紡錘車出土と重ならないことを指標にして論じました。
大きな趣旨は間違っていないと感じるのですが、強引に論理展開したところ、2日後には大幅訂正せざるを得ないミニ危機に陥りました。
反省して、これまで先延ばしにしてきた墨書土器データベースを含む全出土物のGIS用データベース(レコードは竪穴住居別、ただしサンプル183データ)を作成して、本格的な分析を開始しました。
この記事は上記記事で十分に把握しきれなかった「依」集団の特性を検討します。
文字「依」の年代別分布図に文字「依」と共伴文字を全部書き込み検討しました。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争戦争時代
「依、依ヵ」が出土する場所は掘立柱建物群の近くであり、この竪穴住居を建て替えるようなイメージですぐ近くから文字「依」が8世紀第3四半期を除き10世紀第2四半期まで継続します。
途中25年間のブランクはありますが、250年間ほぼ同じ場所から文字「依」が出土するということは特筆すべき情報です。
掘立柱建物群のすぐ近くですから「依」集団は掘立柱建物の管理、具体的には倉としての掘立柱建物のなかの資産(布や被服など)の管理に関わっていた可能性があります。
麻栽培→紡錘という上流側の原材料生産というよりも、機織り→縫製→販売取引という下流側の製品としての付加価値増大、商業のイメージをもつことができると考えます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
情報は8世紀第1四半期と同じです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期の文字「衣」出土はありません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
掘立柱建物群近くの竪穴住居から「依」が1文字と「工」が多数出土します。
「依」集団が継続したことは証明できますが、同じ場所で「工」が幅を利かせています。
「工」は土工つまり土木・建築集団の祈願語であると考えます。
蝦夷戦争時代であり直線道路の補修をはじめ工兵が行うべき活動はいくらでもあったのだと思います。
「依」と「工」が共伴出土するということは、「依」集団と「工」集団の間の人間関係が緊密であったことを物語っていると考えます。
「依」集団が集落の中枢地で250年間継続したということを考慮すると、「依」集団がコーディネイトして「工」集団の活動をサポートした可能性を想像します。
「依」集団は単純な衣服関係を生業とする集団ではなく、経済活動に付加価値を付ける役割、つまり総合商社とかゼネコンとか役割を果たしていた可能性を感じ取ります。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
本拠地以外に「依」の分布がひろがります。そして広がった「依」から共伴出土する文字は「大」(鳴神山遺跡の最大集団)、「大加」(戦闘員集団)、「山本」(耕地管理、紡錘活動集団)など幅広い集団と関連します。
「依」集団が集落生業の川上側(麻生産と紡錘、牧活動(馬生産))集団と密接に結びついている様子を見ることができます。
「依」集団は機織り、縫製の他、被服や馬などの商取引に関わっていた可能性を感じます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期
9世紀第1四半期に見えた「依」集団が集落生業の川下側(付加価値増大、商取引)に位置するらしい構造がますます明瞭になります。
まず、本拠地では「依」文字が多出(28文字)します。
この情報から、「依」集団には大人数の労働者が酒宴を開き、土器の打ち欠きをしたことがわかります。
つまり、機織りや縫製などの実務労働集団を備えていたことがわかります。
同時に「廾」が出土します。これは「廿」(つづら)で倉庫の中のツヅラの中の被服資産の管理を意味します。管理人という消極的な意味ではなく、「依」集団が被服を商取引していた証拠であると考えます。
この期に「依」集団は「久弥良」(クビラ)集団とも関係を持ち、つまり絹生産集団とも関係を持ち、麻製品だけでなく、絹製品も扱い出したと考えます。
「依」集団は総合商社のようなイメージで捉えることができると思います。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と大きく変わっていません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期
集落の凋落にしたがって、「依」出土地点も急減します。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第1四半期
10世紀第1四半期、第2四半期にも「依」が掘立柱建物群近くで出土するので、集落が壊滅状態になっても、最後まで残ったのは「依」集団だったということになります。
川上側(農業・牧畜の現場)はほとんど全滅したけれども、残存した部分を束ねて最後の集落の命脈を保ったのが川下側(商取引)の機能だったというわけです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第2四半期
10世紀第1四半期記述と同じ。
次に、掘立柱建物群近くの「依」集団竪穴住居変遷を示します。
掘立柱建物群付近における文字「依」出土竪穴住居の変遷
恐らく「依」集団の本拠竪穴住居は250年間の間に3回場所変更建て替えが行われたのだとおもいます。
2回目の建て替えでは本拠竪穴住居が2軒となっています。
最後の竪穴住居(9世紀第4四半期~10世紀第2四半期)は規模が大変小さくなっています。
2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で文字「依」を祈願語として共有する集団を被服関係集団と見立て、紡錘車出土と重ならないことを指標にして論じました。
大きな趣旨は間違っていないと感じるのですが、強引に論理展開したところ、2日後には大幅訂正せざるを得ないミニ危機に陥りました。
反省して、これまで先延ばしにしてきた墨書土器データベースを含む全出土物のGIS用データベース(レコードは竪穴住居別、ただしサンプル183データ)を作成して、本格的な分析を開始しました。
この記事は上記記事で十分に把握しきれなかった「依」集団の特性を検討します。
文字「依」の年代別分布図に文字「依」と共伴文字を全部書き込み検討しました。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争戦争時代
「依、依ヵ」が出土する場所は掘立柱建物群の近くであり、この竪穴住居を建て替えるようなイメージですぐ近くから文字「依」が8世紀第3四半期を除き10世紀第2四半期まで継続します。
途中25年間のブランクはありますが、250年間ほぼ同じ場所から文字「依」が出土するということは特筆すべき情報です。
掘立柱建物群のすぐ近くですから「依」集団は掘立柱建物の管理、具体的には倉としての掘立柱建物のなかの資産(布や被服など)の管理に関わっていた可能性があります。
麻栽培→紡錘という上流側の原材料生産というよりも、機織り→縫製→販売取引という下流側の製品としての付加価値増大、商業のイメージをもつことができると考えます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
情報は8世紀第1四半期と同じです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期の文字「衣」出土はありません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
掘立柱建物群近くの竪穴住居から「依」が1文字と「工」が多数出土します。
「依」集団が継続したことは証明できますが、同じ場所で「工」が幅を利かせています。
「工」は土工つまり土木・建築集団の祈願語であると考えます。
蝦夷戦争時代であり直線道路の補修をはじめ工兵が行うべき活動はいくらでもあったのだと思います。
「依」と「工」が共伴出土するということは、「依」集団と「工」集団の間の人間関係が緊密であったことを物語っていると考えます。
「依」集団が集落の中枢地で250年間継続したということを考慮すると、「依」集団がコーディネイトして「工」集団の活動をサポートした可能性を想像します。
「依」集団は単純な衣服関係を生業とする集団ではなく、経済活動に付加価値を付ける役割、つまり総合商社とかゼネコンとか役割を果たしていた可能性を感じ取ります。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
本拠地以外に「依」の分布がひろがります。そして広がった「依」から共伴出土する文字は「大」(鳴神山遺跡の最大集団)、「大加」(戦闘員集団)、「山本」(耕地管理、紡錘活動集団)など幅広い集団と関連します。
「依」集団が集落生業の川上側(麻生産と紡錘、牧活動(馬生産))集団と密接に結びついている様子を見ることができます。
「依」集団は機織り、縫製の他、被服や馬などの商取引に関わっていた可能性を感じます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期
9世紀第1四半期に見えた「依」集団が集落生業の川下側(付加価値増大、商取引)に位置するらしい構造がますます明瞭になります。
まず、本拠地では「依」文字が多出(28文字)します。
この情報から、「依」集団には大人数の労働者が酒宴を開き、土器の打ち欠きをしたことがわかります。
つまり、機織りや縫製などの実務労働集団を備えていたことがわかります。
同時に「廾」が出土します。これは「廿」(つづら)で倉庫の中のツヅラの中の被服資産の管理を意味します。管理人という消極的な意味ではなく、「依」集団が被服を商取引していた証拠であると考えます。
この期に「依」集団は「久弥良」(クビラ)集団とも関係を持ち、つまり絹生産集団とも関係を持ち、麻製品だけでなく、絹製品も扱い出したと考えます。
「依」集団は総合商社のようなイメージで捉えることができると思います。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と大きく変わっていません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期
集落の凋落にしたがって、「依」出土地点も急減します。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第1四半期
10世紀第1四半期、第2四半期にも「依」が掘立柱建物群近くで出土するので、集落が壊滅状態になっても、最後まで残ったのは「依」集団だったということになります。
川上側(農業・牧畜の現場)はほとんど全滅したけれども、残存した部分を束ねて最後の集落の命脈を保ったのが川下側(商取引)の機能だったというわけです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第2四半期
10世紀第1四半期記述と同じ。
次に、掘立柱建物群近くの「依」集団竪穴住居変遷を示します。
掘立柱建物群付近における文字「依」出土竪穴住居の変遷
恐らく「依」集団の本拠竪穴住居は250年間の間に3回場所変更建て替えが行われたのだとおもいます。
2回目の建て替えでは本拠竪穴住居が2軒となっています。
最後の竪穴住居(9世紀第4四半期~10世紀第2四半期)は規模が大変小さくなっています。
2016年1月30日土曜日
鳴神山遺跡 紡錘車・墨書文字・銙帯出土の関係
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.276 鳴神山遺跡 紡錘車・墨書文字・銙帯出土の関係
鳴神山遺跡の紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字の関係を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で検討しました。
この記事で紡錘車を使った活動と「山本」集団、「久弥良」(クビラ)集団の関係を明らかにしました。
この検討を行う中で、鳴神山遺跡出土銙帯4点のうち、出土場所が判明している3点は全て紡錘車出土竪穴住居であることを知りました。
早速銙帯出土竪穴住居の特性を詳しく知るという視点とその竪穴住居の意義を知るという2つの視点から紡錘車・墨書文字・銙帯情報をオーバーレイして分析して見ます。
鳴神山遺跡出土銙帯4点の情報は次の通りです。
銙帯出土遺構
この情報を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で作成した「紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字」図面にオーバーレイしてみます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争準備時代
銙帯は出土しません。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
掘立柱建物群の近くで銙帯が出土します。共伴する墨書土器文字の意味を理解することができません。
紡錘車と銙帯出土が共伴したということは、銙帯を身に着けてこの集落の活動を指導する立場にある官人の生活と、紡錘車による製糸活動が重なっているということです。
紡錘車を使った活動を官人(の家族)が先頭に立って行っていた状況を思い浮かべることができます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第3四半期
蝦夷戦争準備時代
もう一か所の掘立柱建物群の近くからも銙帯が出土します。
この遺構からは「山本、山本山本、子山本、丈」の文字が出土しています。
「山本」という耕地管理的集団が紡錘車を使った活動を行い、その集団に官人が存在していて、その集団が「丈」つまり「丈部」氏族であったことを全てつながりとして思考することが可能です。
この時代の鳴神山遺跡の支配者「丈部」(ハセツカベ)一族が官人という律令国家官僚体制の末端に位置していて、その集団が耕地を管理し(山本)、かつ紡錘活動の先頭に立っていたという戦時下の状況が浮かび上がります。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)が軍粮調達したメイン根拠地域が奥印旛浦地域であると考えています。
まさにその時代、その地域において、一つの重要開発地(軍事兵站基地鳴神山遺跡)において丈部氏族が「山本」として耕地開発の元締めとなり、銙帯を着帯した官人が先頭に活動し、竪穴住居内ではその家族が紡錘車を回していた様子が上記図から読み取れます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
銙帯出土はありません。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第2四半期
動員解除・戦後時代
絹糸生産の可能性がある鉄製紡錘車3つを含め紡錘車合計3つと「久弥良」(クビラ)文字が出土する竪穴住居のすぐ近くから紡錘車・銙帯・「益ヵ、太ヵ、大、長、冨廾」が共伴出土します。
この竪穴住居の近くには掘立柱建物が3棟出土しています。
集落が国家による戦争動員とは無縁となって、経済発展がピークの時期に銙帯が出土することから、銙帯を着帯した官人は国家官僚機構の末端というニュアンスよりも、官位を金で手に入れて権威を増した地元リーダーというニュアンスを感じます。
共伴する文字「大」は「大」集団を意味すると考えます。「長」はオサと読み、つまりリーダーのことだと思います。「冨廾」は豊かなつづら(財産となる被服をつづらに沢山蓄えたい)という意味であると考えます。
これらの情報を並べると、「大」集団のリーダー(長)が銙帯を着帯した官人で権威があり、被服倉庫の財産も管理していて、その家族は紡錘車を使った活動を行っていたということになります。
「大」集団の下位に「久弥良」(クビラ)集団が存在していたと考えます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第3四半期
動員解除・戦後時代
「大」集団のリーダー(長)が官人であると考えました。
その官人と丈部氏族との関係は現時点で不明です。
丈部氏族が動員解除・戦後時代(9世紀)も相変わらず鳴神山遺跡のトップ支配層であり、「大」集団をはじめとする各集団を全て配下においていたのかどうか、もう少しデータを分析すれば自分なりにイメージを持つことができると思います。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第4四半期
動員解除・戦後時代
銙帯出土はありません。
鳴神山遺跡の紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字の関係を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で検討しました。
この記事で紡錘車を使った活動と「山本」集団、「久弥良」(クビラ)集団の関係を明らかにしました。
この検討を行う中で、鳴神山遺跡出土銙帯4点のうち、出土場所が判明している3点は全て紡錘車出土竪穴住居であることを知りました。
早速銙帯出土竪穴住居の特性を詳しく知るという視点とその竪穴住居の意義を知るという2つの視点から紡錘車・墨書文字・銙帯情報をオーバーレイして分析して見ます。
鳴神山遺跡出土銙帯4点の情報は次の通りです。
銙帯出土遺構
この情報を2016.01.29記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字」で作成した「紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字」図面にオーバーレイしてみます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争準備時代
銙帯は出土しません。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
掘立柱建物群の近くで銙帯が出土します。共伴する墨書土器文字の意味を理解することができません。
紡錘車と銙帯出土が共伴したということは、銙帯を身に着けてこの集落の活動を指導する立場にある官人の生活と、紡錘車による製糸活動が重なっているということです。
紡錘車を使った活動を官人(の家族)が先頭に立って行っていた状況を思い浮かべることができます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第3四半期
蝦夷戦争準備時代
もう一か所の掘立柱建物群の近くからも銙帯が出土します。
この遺構からは「山本、山本山本、子山本、丈」の文字が出土しています。
「山本」という耕地管理的集団が紡錘車を使った活動を行い、その集団に官人が存在していて、その集団が「丈」つまり「丈部」氏族であったことを全てつながりとして思考することが可能です。
この時代の鳴神山遺跡の支配者「丈部」(ハセツカベ)一族が官人という律令国家官僚体制の末端に位置していて、その集団が耕地を管理し(山本)、かつ紡錘活動の先頭に立っていたという戦時下の状況が浮かび上がります。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)という記述の人物丈部直牛養(ハセツカベノアタイウシカイ)が軍粮調達したメイン根拠地域が奥印旛浦地域であると考えています。
まさにその時代、その地域において、一つの重要開発地(軍事兵站基地鳴神山遺跡)において丈部氏族が「山本」として耕地開発の元締めとなり、銙帯を着帯した官人が先頭に活動し、竪穴住居内ではその家族が紡錘車を回していた様子が上記図から読み取れます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
銙帯出土はありません。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第2四半期
動員解除・戦後時代
絹糸生産の可能性がある鉄製紡錘車3つを含め紡錘車合計3つと「久弥良」(クビラ)文字が出土する竪穴住居のすぐ近くから紡錘車・銙帯・「益ヵ、太ヵ、大、長、冨廾」が共伴出土します。
この竪穴住居の近くには掘立柱建物が3棟出土しています。
集落が国家による戦争動員とは無縁となって、経済発展がピークの時期に銙帯が出土することから、銙帯を着帯した官人は国家官僚機構の末端というニュアンスよりも、官位を金で手に入れて権威を増した地元リーダーというニュアンスを感じます。
共伴する文字「大」は「大」集団を意味すると考えます。「長」はオサと読み、つまりリーダーのことだと思います。「冨廾」は豊かなつづら(財産となる被服をつづらに沢山蓄えたい)という意味であると考えます。
これらの情報を並べると、「大」集団のリーダー(長)が銙帯を着帯した官人で権威があり、被服倉庫の財産も管理していて、その家族は紡錘車を使った活動を行っていたということになります。
「大」集団の下位に「久弥良」(クビラ)集団が存在していたと考えます。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第3四半期
動員解除・戦後時代
「大」集団のリーダー(長)が官人であると考えました。
その官人と丈部氏族との関係は現時点で不明です。
丈部氏族が動員解除・戦後時代(9世紀)も相変わらず鳴神山遺跡のトップ支配層であり、「大」集団をはじめとする各集団を全て配下においていたのかどうか、もう少しデータを分析すれば自分なりにイメージを持つことができると思います。
紡錘車・文字・銙帯情報オーバーレイ 9世紀第4四半期
動員解除・戦後時代
銙帯出土はありません。
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