花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.277 鳴神山遺跡 「依」集団の再検討
2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で文字「依」を祈願語として共有する集団を被服関係集団と見立て、紡錘車出土と重ならないことを指標にして論じました。
大きな趣旨は間違っていないと感じるのですが、強引に論理展開したところ、2日後には大幅訂正せざるを得ないミニ危機に陥りました。
反省して、これまで先延ばしにしてきた墨書土器データベースを含む全出土物のGIS用データベース(レコードは竪穴住居別、ただしサンプル183データ)を作成して、本格的な分析を開始しました。
この記事は上記記事で十分に把握しきれなかった「依」集団の特性を検討します。
文字「依」の年代別分布図に文字「依」と共伴文字を全部書き込み検討しました。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争戦争時代
「依、依ヵ」が出土する場所は掘立柱建物群の近くであり、この竪穴住居を建て替えるようなイメージですぐ近くから文字「依」が8世紀第3四半期を除き10世紀第2四半期まで継続します。
途中25年間のブランクはありますが、250年間ほぼ同じ場所から文字「依」が出土するということは特筆すべき情報です。
掘立柱建物群のすぐ近くですから「依」集団は掘立柱建物の管理、具体的には倉としての掘立柱建物のなかの資産(布や被服など)の管理に関わっていた可能性があります。
麻栽培→紡錘という上流側の原材料生産というよりも、機織り→縫製→販売取引という下流側の製品としての付加価値増大、商業のイメージをもつことができると考えます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
情報は8世紀第1四半期と同じです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期の文字「衣」出土はありません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期
蝦夷戦争時代
掘立柱建物群近くの竪穴住居から「依」が1文字と「工」が多数出土します。
「依」集団が継続したことは証明できますが、同じ場所で「工」が幅を利かせています。
「工」は土工つまり土木・建築集団の祈願語であると考えます。
蝦夷戦争時代であり直線道路の補修をはじめ工兵が行うべき活動はいくらでもあったのだと思います。
「依」と「工」が共伴出土するということは、「依」集団と「工」集団の間の人間関係が緊密であったことを物語っていると考えます。
「依」集団が集落の中枢地で250年間継続したということを考慮すると、「依」集団がコーディネイトして「工」集団の活動をサポートした可能性を想像します。
「依」集団は単純な衣服関係を生業とする集団ではなく、経済活動に付加価値を付ける役割、つまり総合商社とかゼネコンとか役割を果たしていた可能性を感じ取ります。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期
動員解除・戦後時代
本拠地以外に「依」の分布がひろがります。そして広がった「依」から共伴出土する文字は「大」(鳴神山遺跡の最大集団)、「大加」(戦闘員集団)、「山本」(耕地管理、紡錘活動集団)など幅広い集団と関連します。
「依」集団が集落生業の川上側(麻生産と紡錘、牧活動(馬生産))集団と密接に結びついている様子を見ることができます。
「依」集団は機織り、縫製の他、被服や馬などの商取引に関わっていた可能性を感じます。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期
9世紀第1四半期に見えた「依」集団が集落生業の川下側(付加価値増大、商取引)に位置するらしい構造がますます明瞭になります。
まず、本拠地では「依」文字が多出(28文字)します。
この情報から、「依」集団には大人数の労働者が酒宴を開き、土器の打ち欠きをしたことがわかります。
つまり、機織りや縫製などの実務労働集団を備えていたことがわかります。
同時に「廾」が出土します。これは「廿」(つづら)で倉庫の中のツヅラの中の被服資産の管理を意味します。管理人という消極的な意味ではなく、「依」集団が被服を商取引していた証拠であると考えます。
この期に「依」集団は「久弥良」(クビラ)集団とも関係を持ち、つまり絹生産集団とも関係を持ち、麻製品だけでなく、絹製品も扱い出したと考えます。
「依」集団は総合商社のようなイメージで捉えることができると思います。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と大きく変わっていません。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期
集落の凋落にしたがって、「依」出土地点も急減します。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第1四半期
10世紀第1四半期、第2四半期にも「依」が掘立柱建物群近くで出土するので、集落が壊滅状態になっても、最後まで残ったのは「依」集団だったということになります。
川上側(農業・牧畜の現場)はほとんど全滅したけれども、残存した部分を束ねて最後の集落の命脈を保ったのが川下側(商取引)の機能だったというわけです。
墨書文字「依」「衣」出土イメージ 10世紀第2四半期
10世紀第1四半期記述と同じ。
次に、掘立柱建物群近くの「依」集団竪穴住居変遷を示します。
掘立柱建物群付近における文字「依」出土竪穴住居の変遷
恐らく「依」集団の本拠竪穴住居は250年間の間に3回場所変更建て替えが行われたのだとおもいます。
2回目の建て替えでは本拠竪穴住居が2軒となっています。
最後の竪穴住居(9世紀第4四半期~10世紀第2四半期)は規模が大変小さくなっています。
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