2017年11月18日土曜日

小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)

5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕

奈良時代において墨書文字「野」は上記八千代市上谷遺跡出土多文字墨書土器の例から牧の意味であることが明白です。

一方、鳴神山遺跡で墨書土器「大」「大加」が最も集中して出土する直線道路北側の小字が「大野」です。
「大」「大加」集団が運営していた牧であるから「大野」という地名がついたと思考できます。
牧集団出土物である墨書文字「大」「大加」を根拠に小字「大野」の出自を説明できる珍しい例であると言えます。
学術的な意義(価値)のある小字であると考えることができます。

墨書文字「大」「大加」の元来の読みはオオカミで意味は大神、大国玉神であると考えます。その根拠はリーダー層が書いたと考えられる多文字墨書土器に大国玉神、国玉神がでてくることから推論できます。
具体的固有名詞(大物主神、大国主神など)でイメージされていたのかもしれません。
「大」「大加」は国譲りの神様である国津神を表現しているものと考えて間違いないと思います。
「久弥良」(クビラ)つまり金毘羅を表している墨書文字もあります。
なお「大」とともに「王」が共伴出土する場合がいくつかありますから、元来の読み(意味)「オオカミ」が短縮されて「オオ」と読まれていた場合が多いと推察します。
鳴神山遺跡のリーダー氏族は多文字墨書土器に出てくる丈部(ハセツカベ)であると考えられます。

墨書文字「大」は下総国、上総国の広範な開発集落から出土します。丈部の分布も同じく広範であるので氏族としての丈部が墨書文字「大」を共有していて各地の開発集落で使っていたと考えられます。

養蚕の道具である紡錘車が鳴神山遺跡から出土しています。

同時に養蚕集団の祈願文字であると考える「依」(キヌ)も多数出土します

墨書文字「依」(キヌ)は掘立柱建物が集中する付近の竪穴住居から集中出土し、紡錘車の出土は掘立柱建物群を取り囲むように広範な竪穴住居から出土します。
この分布の様子から蚕飼育は掘立柱建物で集中しておこない、その世話を行っていた集団の祈願文字が「依」(キヌ)であり、繭から糸を紡ぐ作業は女性が自宅(竪穴住居)で行っていたものと考えることができます。蚕飼育と糸紡ぎは人間的空間的に分業されていたと見てとることができます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年11月16日木曜日

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)

3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の位置を示しました。その間の戸神川谷津に西根遺跡があります。関係すると考える南西ヶ作遺跡と大塚前遺跡の位置も示しました。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の竪穴住居軒数、掘立柱建物棟数を近隣遺跡と比較して示しました。
この表をグラフにしてより直観的に観察してみます。

竪穴住居軒数のグラフです。
掘立柱建物は人が居住していた建物です。
鳴神山遺跡の竪穴住居軒数は千葉県開発集落でトップクラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の5倍ほどになります。
発掘区域の大小で竪穴住居軒数も変わるはずですから、古代集落規模の本当の比較にはなりませんが、参考になります。
なお数値は発掘した竪穴住居数であり、建て替え、廃絶、新築が繰り返された結果全部を含むので、ある時間断面をとると各遺跡ともより少ない竪穴住居が存在していたと考えられます。

掘立柱建物棟数のグラフです。
掘立柱建物の用途は養蚕小屋が多かったという印象を墨書土器などから強く受けています。倉庫や行政施設、寺院などの用途の建物も掘立柱建物です。
鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の棟数が近い数値で、鳴神山遺跡は竪穴住居軒数に比して掘立柱建物棟数が異常に少ない印象をうけます。この異常さを次のグラフで確認しました。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数のグラフです。
鳴神山遺跡の数値が近隣遺跡のなかで最低クラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の1/5です。後のデータで示すように鳴神山遺跡は牧集落であるので、養蚕小屋や倉庫をあまり必要としない生活を送っていたので、このような極端な掘立柱建物の少なさになったのです。逆に掘立柱建物棟数の少なさが鳴神山遺跡が牧集落であることを物語ります。

このグラフは鳴神山遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
年代を推定できる土器が出土した約半数の竪穴住居のグラフです。
因みに近隣遺跡のどこでも竪穴住居の約半数は廃絶後すぐ埋め立てられ遺物はほとんど無く、残り半数の竪穴住居から遺物が出土し、その中に多量の遺物が含まれているものがあるという似た状況があります。
8世紀第1四半期に鳴神山遺跡に竪穴住居が新たな開発集落として作られたと考えられます。
発掘調査報告書では7世紀2軒の竪穴住居と8世紀の竪穴住居との間に何らかの関連は見られないとしています。
その後竪穴住居数は増え、集落が発展します。下総国総合開発の時代に該当します。
蝦夷戦争時代には若干竪穴住居がへりますが、蝦夷戦争における「根こそぎ動員」の影響のようだとイメージしています。
蝦夷戦争が終わると竪穴住居数は急増して9世紀第2四半期にピークを迎えます。生産施設と労働力が存在し、かつ強制的供出がなくなったのですから拡大生産活動が可能になり、経済的に大発展したのだと思います。
その後雲行きが怪しくなり、9世紀第4四半期には急減し、10世紀には集落として消滅に近い状況になります。

このグラフは船尾白幡遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
左の縦棒2本は50年間を右4本は25年間をイメージできますから、その平仄違いを考慮すると竪穴住居の推移パターンは鳴神山遺跡と似たものになります。
船尾白幡遺跡は9世紀第3四半期にピークを迎え、その後急減します。
8世紀初頭に集落がスタートして8世紀一杯着実に竪穴住居軒数を増やし、9世紀になると急増して第2、3四半期頃ピークを迎え、第4四半期に急減、10世紀初頭にはほとんど衰滅というパターンは下総台地古代開発集落に共通するようです。

年代別竪穴住居の分布をみるとこのグラフのようになります。
GISを使うと竪穴住居を年代別に分布図として捉えることができますから、全ての出土物情報もこのレベルで把握分析できます。
なお、8世紀の間だけ遺跡を2分するような線形で直線道路が存在し、9世紀になると直線道路は埋め立てられてしまいます。
掘立柱建物は出土物がほとんどないので年代が不明であり、図では一律にその分布を表示しています。

参考に竪穴住居からの遺物出土状況について私が理解したことを話します。
竪穴住居は深いもので1m程の穴になっていますが、その中に同じ墨書文字の土器破片が多数存在していたり、刀子・鉄鏃・紡錘車・鎌等が出土します。また火をもやした跡(焼土)も出土します。この状況から同じ墨書文字を共有する集団がこの穴の前で墨書土器を壊してその破片を穴に投げ込んだ祭祀を行ったと考えます。その祭祀では武器や道具も投げ込んだと考えます。
縄文時代西根遺跡ではダイナミックな土器破壊を伴う祭祀が浮き彫りになりましたが、そうした「土器破壊を伴う祭祀」という縄文時代風習が奈良時代にも続いていたことは興味深いことです。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月15日水曜日

7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)

2 7~10世紀下総国の出来事

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡を理解する背景知識が必要であると考え、7世紀から10世紀までの下総国の主な出来事を年表にまとめてみました。
646年大化の改新、663年白村江の敗北を経て国家の進出方向が東北に向かい、そのために鹿島神宮が重要な出撃拠点となったことを学習しました。
そして、8世紀前半から中頃にかけて下総国を東北進出巨大兵站基地にするために律令国家が開発ノウハウとパワーを投下したことを学習しました。
国府・国分寺の建設、東海道駅路の建設、馬牧・牛牧の建設、域内道路・舟運路・開発集落の建設が総合的にかつ有機的連携的に建設された様子は現代大規模開発と比べても見劣りしない構想力・企画力と巨大な建設パワーを感じることができ驚きます。
8世紀初頭に下総国兵站基地総合開発が始まったときから鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡がスタートします。

蝦夷戦争の時代下総国から膨大な物資や資材が東北へ向かったことを学習しました。兵站基地として下総国はその役割を大いに果たしたことを学習しました。

9世紀初頭蝦夷戦争が終結すると下総国開発集落は一斉に大発展します。鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡も例外ではありません。
私は、戦争終結により国営開発集落が地元氏族に構成員ごと無償で払い下げられたような印象を持ちます。

その後開発集落は9世紀中ごろをピークに衰退傾向が顕著になり、9世紀末から10世紀初めにはほとんどの開発集落が衰滅してしまいます。

8世紀前半から中頃、下総国総合開発が歴史的画期であったことをこのように文字でまとめました。
鹿島神宮(地理的位置は常陸国)に記紀神話が適用されて東北出撃基地としてイデオロギー的にも整備され、それと連動して兵站基地インフラが総合整備されました。

東海道駅路網のうち武蔵国から市川(国府所在)を経て東京湾沿いに千葉方面に向かう本路を建設し、それを軸にそこから準幹線道路・舟運路を整備し、さらにその交通ネットワークに牧を貼り付けるという構想は現代地域開発の思考と変わりありません。国土計画思考の原点が8世紀にあることがわかります。

この図は墨書土器の分布を表したものですが、墨書土器風習は開発集落における労務管理、教化活動の一環であったと考えられますから、開発集落の活発さを表現しているとも言えます。
神様に言葉を口から発して祈願しても、その瞬間に言葉は消えてしまいますが、祈願の内容が消えないで記録されるという「文字」を始めて知った人々の感動はとても大きなものであったと考えます。

下総国が国家的観点による兵站基地であったことが、「東北移民大作戦」に下総国が含まれていないことからも判ります。
下総国の地名が東北に無いことは下総国からの移民が少なかったからだと考えます。
下総国は兵站基地を建設し、そこで多量の食糧や物資・資材を生産することが求められ、多くの人員を必要としていたと考えます。俘囚や全国の浮浪人等を受け入れる場であり、人材を外に出す(移民を出す)場ではなかったと考えます。

年表作成に役立った図書です。「日本の神々11」は「こういうことが知りたかったんだ」と思わずつぶやいてしまった、私にとって有用な図書です。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月14日火曜日

発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)

「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」という表題で次の順番で話をします。

1 発掘調査報告書GIS学習の概略
2 7~10世紀下総国の出来事
3 戸神・船尾開発集落の生業
4 鳴神山遺跡直線道路
5 鳴神山遺跡が典型古代牧遺跡であること
6 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説
7 古代開発集落が滅びた理由

1 発掘調査報告書GIS学習の概略

鳴神山遺跡を例にするとこのような発掘調査報告書を学習対象としています。
いずれも分厚い図書です。
図書館でコピーしてそれを家に持ち帰り、学習作業にとりかかります。

どの古代集落遺跡でも発掘調査報告書情報の8割程度が竪穴住居とそこからの出土物記載であるような印象を受けています。
発掘調査報告書の情報は遺構番号、文章記述、出土物一覧表、遺構・出土物図面などから構成されています。

学習に使う主なソフトはExcelとQGISです。Excelは表計算ソフト、QGISは世界で使われているフリーソフトのGIS(地理情報システム)です。QGISは高機能で絶えずバージョンアップされていて、高価な市販ソフトに見劣りするところはないと言われています。

実際の学習は発掘調査報告書の様々な項目の情報を遺構別に読み取り、Excelに入力することから始めます。
読み取る項目は種類別土器数、刀子・鉄鏃・紡錘車・・・などの出土物種類別数、墨書文字別数などなど。
Excel表の縦方向に竪穴住居番号が数百、横方向に項目が数百ならびますから巨大なExcel表をつくることになります。
次に竪穴住居の位置情報(緯度、経度)をしらべ、Excel表に追記します。
Excelで位置情報を含む遺構・遺物リストが出来上がりました。
この情報ができると、それをGISソフトにプロットすることができます。
単に分布図をつくるだけでなく、項目の重ね合わせや相互関係の分析、結果のグラフ分布図作成など高度な分析作業を極めて短時間にできるようになります。
GISソフトを使うことにより手作業では事実上不可能であると考えられるような手間のかかる作業が瞬時にできるようになります。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月13日月曜日

印西船穂郷の謎 講演レジメ

2017年11月12日に印西地域史研究会で講演させていただきましたので、そのレジメを参考までに掲載します。

講演題目は「奈良・平安期に開発した印西の船穂郷(戸神・船尾)の謎 ~大結馬牧の姿が見えてきた~」です。

これまで3年程前からこのブログで学習してきた鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡の2つの遺跡の奈良・平安時代を対象に話をさせていただきました。

主な内容は次の通りです。
1 発掘調査報告書GIS学習の概略
2 7~10世紀下総国の出来事
3 戸神・船尾開発集落の生業
4 鳴神山遺跡直線道路
5 鳴神山遺跡が典型古代牧遺跡であること
6 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説
7 古代開発集落が滅びた理由

専門家から見れば眉唾の話題ばかりかもしれませんが考古歴史学習の楽しさは聴衆の皆様に伝えることができたのではないかと思います。

印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

講演で使ったパワーポイントに基づいて講演内容をブログ連載記事にする予定です。
講演レジメに使った画像の1枚
鳴神山遺跡四半期別竪穴住居の分布

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2017年9月24日に同じく印西地域史研究会で西根遺跡縄文時代をメインにした講演をさせていただきましたが、そのレジメも再掲します。

講演題目は「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」です。 

戸神川谷津の秘密講演レジメ(pdf) 982KB

2017年11月11日土曜日

下総台地の古代開発集落一斉衰滅の原因

下総台地の古代開発集落は9世紀第4四半期から10世紀初頭にかけて急速に一斉衰滅します。その原因がなにであるか以前から興味があります。
一方低地の水田耕作をする集落はこの時期に逆に発展しています。

その原因のイメージについてこの2~3年サッパリ判らなかったのですが、最近おぼろげながらたとえ話風に判ってきたような気になりましたので、その感想をメモしておきます。

1 9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況
● 律令国家の統治が弱まる(徴税・治安など)
● 台地上開発集落はほとんど全て衰滅
● 低地集落(水田集落)は逆に発展

2 私のたとえ思考
●ワンマン会社S社で経営中枢部が失踪し、権力空白が生まれる。(下総国の状況)
●S社A部門は内部が混乱し仕事継続ができなくて、組織が崩壊。(台地上開発集落)
●S社B部門は内部の統制が維持され仕事継続して、組織として発展。(低地水田集落)
●同じS社を構成していたA部門とB部門の差はそれぞれの組織特性に基づく対応力の差

3 台地上開発集落崩壊のイメージ
●開発集落の住民はリーダー層を除くと、全て新住民であり、浮浪人や俘囚などが主体であった。
●開発集落の働き手は強制力により隷属的、半奴隷的な労働に従事していた。
●国家権力の空白が生まれた時、リーダー(地元氏族)による開発集落統治が不可能となった。

4 群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体
これまで群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党(*)という事象は台地開発集落を取り巻く社会環境(社会情勢)としてイメージしてきました。
しかし、そのイメージは誤りであり、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体そのものであると判りました。

次の武器は鳴神山遺跡の牧集団(墨書文字「大」「大加」集団)が所持していたものです。

鳴神山遺跡出土鉄鏃、刀子

鳴神山遺跡出土刀子

これらの武器を所持していた牧集団は強い統制下では生産活動に従事して集落発展に寄与したのですが、統制が弱まると地道な生産活動で社会になじむ方向ではなく、略奪や不正活動など社会に従わない方向、社会を破壊する方向に向かったのだと考えます。

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* 僦馬(シュウバ)の党 ウィキペディアから引用
僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安期に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある[1]。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年(昌泰2年)に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている[3]。
1^ 網野、1982
2^ 宮原、2014
3^ 下向井、2001
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2017年11月10日金曜日

大結馬牧船橋説の根拠薄弱性

鳴神山遺跡のGIS学習を深めているなかで、鳴神山遺跡が典型古代牧でありかつ国家的戦略的重要性のある牧・道路セット遺跡であることが浮かび上がりました。
同時に大結馬牧の根拠薄弱性に気が付き、その瞬間に大結馬牧印西説が生まれました。

仮説 大結道路と大結馬牧

この仮説が生まれる前に行っていた学習はあくまでも鳴神山遺跡の学習であり、大結馬牧に興味の焦点はありませんでした。従って次の「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)の情報に基づき考察をしていました。

「千葉県の歴史 通史編 古代 2」(千葉県発行)における大結馬牧の記述

学習過程では、この大結馬牧船橋説に従って、それと鳴神山遺跡との関係を次のように仮説しました。

参考 大結馬牧船橋説を信じていたころの仮説

しかし鳴神山遺跡と大結馬牧の関係を考えたので、大結馬牧について考えざるを得なくなり、その根拠薄弱性の認識に至ってしまったということです。
学習を深めれば深めるほど大結馬牧船橋説の根拠薄弱性が感じられるようになり、最後は船橋説(水海道市付近説も)を到底首肯できることはできないと結論付けるにまで至りました。

この記事では大結馬牧船橋説、水海道市付近説の根拠薄弱性についてメモします。

1 大結馬牧船橋説
1-1 概要
●大結馬牧を意富比(オオヒ)神社と関連づける。音「オオ」が同じ。
●意富比(オオヒ)神社付近に中世の荘園夏見御厨が建設され、その前身が牧であった可能性が濃い。
●延喜式に下総国から伊勢神宮に馬を献上する記載があり、それが大結馬牧からと類推すると、夏見御厨が伊勢神宮内宮領になった説明ができる。(梅田義彦)
●船橋付近から馬骨が出土する。

1-2 大結馬牧船橋説の根拠薄弱性
●大結をオオヒと読む根拠はなく、大結(オオユイ)と意富比(オオヒ)神社の関連は語呂合わせに過ぎない。
●根拠となる馬骨は夏見付近ではなく離れた本郷町方面であり、それ以外の牧を示す情報がないことから、船橋付近が大結馬牧であるとの特定はできない。
●延喜式記載順番に合わない。

2 大結馬牧水海道市付近説
2-1 概要
●大結馬牧を地名大生郷(オオウゴウ)と関連付ける。音「オオ」が同じ。
●牧を示す地名がある。古間木など。

2-2 大結馬牧水海道市付近説の根拠薄弱性
●大結を地名大生郷(オオウゴウ)と関連づけるのは語呂合わせに過ぎない。
●牧の存在を示す地名で大結馬牧の特定はできない。

3 感想
船橋説、水海道市付近説に関して、次のような感想を持っています。
大結馬牧船橋説は船橋に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(夏見御厨)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
大結馬牧水海道市付近説は水海道市付近に大結馬牧が存在したと仮定すると中世の歴史(平将門の乱など)の説明がしやすくなるという観点から生まれたように感じます。
ともに奈良時代の牧特性そのものに関する情報・推定からおのずと生まれた説ではないように感じます。

奈良時代牧そのものに興味の焦点を当て、その専門的情報に基づいて大結馬牧について検討した専門家は過去現在誰もいないので、中世歴史に興味のある人々が大結馬牧を自分好みに「配置」して中世歴史を説明補強した思考が定式化してしまったのだと考えます。

下総国古代牧そのものを学術的見地から検討した専門家が過去現在存在していないことは、延喜式諸国牧記載順番についての言及がどこにもないことからうかがうことができます。
下総国古代道路については学術的検討が多く、駅家の延喜式記載順番が詳しく検討され、その検討を一つの重要要件として駅路の分析が行われています。

牧に関する地名、馬骨の出土は極端に言えば下総には無数にあります。それらは恐らくすべて牧実在の跡を示します。奈良時代の下総台地は牧だらけであったと(つたない私の遺跡学習体験でも)考えることができます。
古代牧を示す情報を持って、それだけで大結馬牧を特定したことにはなりません。
大結馬牧の特定のためにはそれなりの根拠が必要であり、大結馬牧印西説は特定根拠要件を満たす可能性が極めて濃厚であると考えます。
 

2017年11月9日木曜日

大結馬牧(仮説)のゾーンイメージ

2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で 鳴神山遺跡こそが大結馬牧であるという仮説を立てました。

この仮説が生まれた瞬間の思考はつぎのようなものです。

「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれた瞬間

鳴神山遺跡の牧が国家的重要性があると気が付いたことと、大結馬牧船橋説の根拠薄弱に気が付いたことが重なったためです。
大結馬牧船橋説がしっかりしていればこの仮説がうまれる余地はありません。
大結馬牧船橋説の根拠虚弱性検討は次の記事でおこなうことにして、この記事では鳴神山遺跡が典型古代牧の様相を呈していて、国家的重要性がある様子をメモします。

1 鳴神山遺跡が典型古代牧の様相である様子
古代牧関連遺構は次の6つの施設から構成されるという研究があります。
1 牧場地区(牧本体。草原であり遺構は少ない。土塁・堀・柵列などが牧認定の根拠となる。)
2 繋飼地区(厩舎。駅路・居館・官衙・宮都・寺社などに付設される。)
3 管理地区(官衙的な事務空間(検印・礎石建物・文房具、馬具工房)、検印のための土塁・柵列など)
4 居住地区(牛馬飼育集団の居住集落。牛馬骨や馬具の出土、皮革加工などの痕跡を伴う。)
5 牧田地区(牛馬飼育集団が自営するための田畑。)
6 墳墓・祭祀地区(埋葬牛馬、牛馬殉葬、殺牛馬儀礼。)
(桃崎祐輔(2012):牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-;日韓集落の研究 弥生・古墳時代及び無文土器~三国時代(最終報告書)、日韓集落研究会 による)

この6つの施設区分の考えを鳴神山遺跡に適用すると、次のように具体例が浮かび上がり、その場所を地図に投影することができます。

●牧関連6施設の鳴神山遺跡投影
1 牧場地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布の北側)
2 繋飼地区(直線道路行軍将兵に軍馬を支給した可能性のある総柱掘立柱建物の付近)
3 管理地区(リーダー氏族名のある墨書土器や羽口が出土付近)
4 居住地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布域)
5 牧田地区(養蚕痕跡の濃い地域)
6 祭祀地区(馬骨出土祭祀跡井戸付近)

鳴神山遺跡牧遺構ゾーン区分推定

2 鳴神山遺跡牧が国家的戦略的重要性を帯びている様子
牧と東北進出用行軍道路がセットで建設されていることから、このセットには律令国家東北進出の国家的戦略性が備わっていたと考えます。
2017.11.01記事「鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性」参照

2017年11月7日火曜日

花見川流域ファミリーの記事数3000通過に感謝

ブログ「花見川流域を歩く」とそのファミリーブログのトータル記事数が3000を通過しました。
「花見川流域を歩く」ブログファミリーを多くの方に読んでいただいているおかげここまで到達することができました。
皆様に感謝申し上げます。
今後もよろしくお願い申し上げます。

ブログの開設、記事数、ページビュー数(2017.11.07)
花見川流域を歩く 開設2011.01.15 記事数2132 ページビュー数313940
花見川流域を歩く番外編 開設2015.04.16 記事数449 ページビュー数30024
花見川流域を歩く自然・風景編 開設2016.09.03 記事数273 ページビュー数9396
世界の風景を楽しむ 開設2016.10.05 記事数110 ページビュー数4868
学習幸福否定 開設2016.06.24 終了2017.03.19 記事数71 ページビュー数5609

5ブログの合計 記事数3035 ページビュー数363837

花見川近くの畑の夜明け