縄文海進のイメージ図
同じ場所の現在の地図
GISを使って、縄文海進の姿を想像してみた。
「ハナミ」「ハナシマ」「イノハナ」などの地名の起源は、縄文海進の海と対比して台地につけた名前(柳田國男によればアイヌの言葉を話す人が付けた名前)と考えましたから、縄文海進を地図上でイメージしておくことは大切です。
また、堀割普請で苦労した化灯土は縄文海進・海退の産物ですから、その意味でも縄文海進を知らなければなりません。
このブログはアカデミックなものではないので、お気軽に縄文海進の想像をしてみました。
データは国土地理院から無償で提供されている「基盤地図情報数値標高モデル」の5mメッシュ(標高)データ(0.1m単位)です。
条件は縄文海進の最高海面を+5mとし、その後の海退時の沖積層の堆積深、火山降灰堆積深、地盤隆起量、歴史時代以降の盛土深を全部合わせて+1m、+2m、+3m、+4m、+5mの5ケースでカバーできると考えることにしました。もし、これらの条件を先行研究や他所の事例を踏まえて検討するならば、それだけで1年間のブログ記事を書くことが出来ると思いますが、今回は1瞬で済む直感的条件設定にしておきます。
メッシュデータのありかの検索、ダウンロードと解凍、GISソフト起動とメッシュデータ取り込み、表示の調整までの時間は30分くらいで済みました。
作成した海進イメージ図(陰影をつけました)に犢橋貝塚の位置をプロットしてみると、貝塚の位置と犢橋川入江の海の関係から、海の範囲は現在の等高線分布で言うと9mとか10m付近にあったと考えるのが妥当のようです。(現在の高さ9mとか10mまで海の高さがあったのではありません。)つまり、このイメージ図の青系統で塗った部分が全て海だったと考えてよいと思います。
縄文海進のピーク時(6000年前頃)には幕張付近を中心とする広い「古幕張湾」とでも呼べるような湾入部があり、そこから花見川の入江がフィヨルドのように内陸北方向に向かい、長作付近で東に向きを転じ、犢橋川の谷奥まで続く海があったと想像します。犢橋川の谷が海であった時代に犢橋貝塚ができたと想像します。
入り江の本筋(谷の本筋)は、その幅の広さからもともとは犢橋川の谷にあることが良く分かります。天戸付近で北に向かう現在の花見川筋は侵食力旺盛な支流で、古柏井川の上流部を争奪していたので、縄文海進時は奥深くまで海水が進入した狭く深い谷であったと想像します。海退時に、花見川筋の深い谷に生成した堆積物が化灯土であると考えます。
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