2016年2月13日土曜日

鳴神山遺跡 土器器種別割合 2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.288 鳴神山遺跡 土器器種別割合 2

2016.02.12記事「鳴神山遺跡 土器器種別割合」で坏類と甕類で土器出土数の9割弱になることと、年代を追うに従い、坏類の割合が増し、甕類の割合が減ずることをデータから知りました。

その分析データをわかりやすいグラフにまとめてみました。

鳴神山遺跡竪穴住居 坏類・甕類の割合と土器平均出土数

7世紀のデータは2軒、10世紀のデータは4軒で少なく、極端な値になっている可能性があるのでグラフから省きました。

8世紀第1四半期から9世紀第3四半期にかけての175年間は土器平均出土数が年代毎に増大します。それと連動して、坏類の割合が増大し、甕類の割合が減少します。

大変わかりやすい関係をみることができます。

土器平均出土数の増大は坏類の割合が増えたことで、稼いだことを確認できます。

このグラフから、2016.02.12記事の次の考察の確からしさを確かめることができました。

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坏類の割合が増加し、甕類の割合が減少する要因として、次のような項目を挙げることができます。

●坏類はマイ食器であり個人所有物であり、祭祀毎に打ち欠きで消費したので、墨書土器風習が広まるにつれて消費量が増大したと考えます。

●年代が経つにしたがって土器製造の技術革新が進み土器の価格が低くなり、土器の普及が進み、上記理由による坏類消費増大に拍車をかけたと考えます。

●甕類は飲料水を蓄えたりするなど生活に不可欠であり、生活レベルの高低に関わらず竪穴住居ごとに基本セットが必ず常備されていたと考えます。そして大型であるため予備品を備えることも少なかったと考えます。墨書土器として打ち欠きされることもなかったと考えます。従って、年代に関わらず竪穴住居に常備されていた数の変動は少なかったと考えます。
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次の記事で、墨書土器率について考察します。

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