2016年2月11日木曜日

鳴神山遺跡と萱田遺跡群の出土土器数比較

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.286 鳴神山遺跡と萱田遺跡群の出土土器数比較

鳴神山遺跡の年代別土器平均出土数(竪穴住居1軒あたり出土土器数)を既に検討しました(*)が、遺跡の竪穴住居1軒あたり出土土器数の相場感を得るために、鳴神山遺跡の全年代の値と萱田遺跡群の値を比較してみました。 *2016.02.08記事「鳴神山遺跡 土器の検討

鳴神山遺跡と萱田遺跡群 竪穴住居1軒あたり出土土器数(鳴神山遺跡は183サンプル調査)

萱田遺跡群の中で最も大きな値を示す権現後遺跡より鳴神山遺跡の方がわずかに大きな値になりました。

権現後遺跡は9世紀代の遺跡であり鳴神山遺跡も9世紀代に大発展した遺跡ですから時代的共通性があり、かつ権現後遺跡からは土器焼成抗が多数見つかっていて萱田遺跡群の土器製造拠点だったことを考えると、鳴神山遺跡は集落として相対的に富裕であり、その結果として土器出土数が多いものととりあえず想像しておきます。

(なお、鳴神山遺跡は183サンプル調査のデータであり、そのサンプル抽出は年代を推定できるような出土物の存在に基づいていますから、土器出土数が大きな数値になる方向にバイアスがかかっている可能性はあります。)

土器平均出土数(竪穴住居1軒あたり出土土器数)の自分なりの相場感が少しできました。

鳴神山遺跡の年代別土器平均出土数のグラフをもう一度みると、鳴神山遺跡の全年代を通して求めた
土器平均出土数14.6という数値が9世紀第2四半期~第4四半期の期間の数値に引っ張られていることがよくわかります。

鳴神山遺跡竪穴住居 土器平均出土数

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メモ 萱田遺跡群の年代別検討について

鳴神山遺跡の検討も最終版となり、残り数編の記事だけとなりました。

鳴神山遺跡の検討では発掘調査報告書に記載されている、年代対照のある竪穴住居(183サンプル調査)を対象に遺構・遺物をGISデータベース化して、年代別に空間分布状況を把握して、遺跡特性の把握を効果的に行うことができました。

鳴神山遺跡検討の前に検討した萱田遺跡群では遺構・遺物のGISデータベース化を行っていません。また、年代別空間分布状況の把握も行っていません。

その替わりに、ゾーン別空間分布状況を把握して検討しています。

例えば、上記「竪穴住居1軒あたり土器出土数」はゾーン別空間分布検討はしていますが、年代別検討は行っていません。

今振り返ってみると、年代別検討を行わないで、つまり年代は捨象して空間分布状況だけで遺跡特性を検討していたことになります。大変片手落ちだったことに気が付きます。

鳴神山遺跡検討では蝦夷戦争時代までとその後の時代では全く文脈の異なる集落発展が想定されています。

恐らく、萱田遺跡群でも同じことがいえるのではないかと想定します。

萱田遺跡群でも蝦夷戦争時代とその後の時代で全く異なる文脈の集落発展があるとすれば、これまでこのブログで検討してきた事柄のかなりの部分を訂正補強する必要が生まれます。

例えば、萱田遺跡群の全てに対して「蝦夷戦争のための軍事兵站・輸送基地としての機能」を投影して思考してきましたが、そのような投影が許される場合と許されない場合があることに、遅まきならが気が付きました。

下図の情報から、白幡前遺跡は蝦夷戦争との関連が強い遺構と蝦夷戦争後の遺構が存在していることや、権現後遺跡はほとんど蝦夷戦争後の遺構で構成されていることが判ります。

萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分

萱田遺跡群に関するこれまでの検討が不十分であることが自覚できましたので、近い将来、萱田遺跡群について発掘調査報告書のうち、遺構年代が記載されているものについては遺構・出土物情報をGISデータベース化して、鳴神山遺跡と同等の再検討を行う予定です。

幸い白幡前遺跡の発掘調査報告書では、ほとんどの竪穴住居について「所属時期」が記載されています。

昨年行った萱田遺跡群検討を大きな意味でのウォーミングアップと位置付けて、本検討を今年に行いたいと考えています。

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