2016年2月14日日曜日

鳴神山遺跡 墨書土器率

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.289 鳴神山遺跡 墨書土器率


鳴神山遺跡の墨書土器数を年代別にカウントすると次のようになります。

鳴神山遺跡竪穴住居 墨書土器出土数
183竪穴住居サンプル調査

蝦夷戦争準備時代から蝦夷戦争時代にかけて墨書土器数が増えますが、動員解除・戦後時代に入ると飛躍的に増大し、9世紀第4四半期には8世紀後半と同じような値にまで凋落します。

これを墨書土器率(墨書土器数/全土器数×100)で年代別に整理すると次のようになります。

鳴神山遺跡竪穴住居 墨書土器出土率(墨書土器数/全土器数×100)
183竪穴住居サンプル調査

墨書土器率が8世紀第4四半期と9世紀第1四半期で非連続的に増加していることがよくわかります。

鳴神山遺跡の集落の最初期から始まった墨書土器風習は8世紀第4四半期まで徐々に強まったことが判りますが、蝦夷戦争が終わり、律令国家が開発から手を引くと(蝦夷戦争動員の締め付けを止めると)、一気に墨書土器風習が広まります。

過去の萱田遺跡群白幡前遺跡の検討では、蝦夷戦争のために官人が兵站基地内で労務管理の一環として墨書土器風習を広めたと考察してきました。

しかし、鳴神山遺跡では律令国家が導入した墨書土器風習が、律令国家が手を引くと同時に大発展した様子を観察できます。

萱田遺跡群でも鳴神山遺跡と同じように蝦夷戦争後に墨書土器風習が大発展したのかどうか再検討する予定です。

2016.05.13記事「鳴神山遺跡 土器器種別割合 2」で次のグラフを掲げ、蝦夷戦争後(9世紀)に土器平均出土数(竪穴住居1軒当たり出土数)が急増している理由の最大のものとして墨書土器風習の増大をあげましたが、その説明は墨書土器率グラフを作成することによって証明されたものと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居 坏類・甕類の割合と土器平均出土数

なお、墨書土器率は9世紀第1四半期に急増しますが、土器平均出土数は遅れて9世紀第2四半期に急増します。

このグラフの特徴から、墨書土器風習拡大が先行して生じ、その需要に追いつくような形で土器生産が伸びて結果として土器平均出土数が急増したことを知ることができます。


墨書土器風習は庶民が文字を初めて使い、その威力(魔力…文字で祈願することによってその祈願が実現する魔力)を実感した1回限りの歴史的出来事であったと理解します。

律令国家は官人が率先して墨書土器風習を広め、それを受け継いだ在地勢力指導者が人々の労働意欲や忠誠心を強めるために墨書土器風習を積極的に活用したことを理解しました。

墨書土器風習は打ち欠きという土器破壊行動を伴いますから、土器消費量も増え、経済の活性化にも寄与したと考えます。


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