2018年8月12日日曜日

六通貝塚 竪穴住居時期別分布の概観

六通貝塚竪穴住居の時期別分布図を作成して六通貝塚の様子を概観してみました。

1 時期別竪穴住居数

六通貝塚土器分類別竪穴住居数
土器分類が次の資料のように時期に対応していますからこのグラフは時期別竪穴住居数を表現します。

参考 六通貝塚集落盛衰イメージ

ア 時期別竪穴住居グラフ(土器分類別竪穴住居グラフ)は集落消長の様子を表現していると考える
発掘調査報告書では貝塚本体の発掘は行っていないので発掘情報は本当の六通貝塚の様子とは違う可能性があると述べています。しかし縁辺とはいえ貝層本体の西、北、東をふくめて多数箇所の発掘を行っているのですから出土土器分類の傾向は集落消長と無関係であることはあり得ません。大局的には六通貝塚の消長を捉えていると考えます。

イ 時期不詳竪穴住居が多いことの意義
出土土器分類から土器群を特定できた竪穴住居が19軒、土器群不詳の竪穴住居が21軒となります。21軒の竪穴住居からは出土土器が少ないか全くないために土器群を特定できません。この情報は大変重要な情報であると考えます。大膳野南貝塚でも漆喰貝層有竪穴住居からの出土物は多く時期特定ができるものが多いのとは反対に漆喰貝層無竪穴住居からの出土物は極めてすくなく時期特定ができないものが多くなっています。土器群不詳竪穴住居が全竪穴住居の半数以上であることから、六通貝塚においても大膳野南貝塚と同じように竪穴住居覆土層に貝層や遺物を残す上位階層住民と、貝層や遺物をほとんど残さない下位階層住民が半々のような割合で共住していた可能性があります。土器不詳竪穴住居が半数以上にのぼることは今後詳しく検討する価値のある情報です。

2 時期別竪穴住居分布(土器分類別竪穴住居分布)
時期別竪穴住居分布(土器分類別竪穴住居分布)をみてみると次のような特徴を捉えることができます。

1群(中期後葉)
1群期(加曽利EⅢ式期頃)には既に住居がありこのころ集落が開始しました。集落の始祖家族の住居ですからその全てがほぼ確実に貝塚下に存在していると考えられます。

2群(後期初頭)
2群期(称名寺式期頃)には拠点的集落が形成されていたと考えられます。住居数が急増した様子は15竪穴住居が貝層から離れた場所に存在していることからも捉えられます。

3群(後期前葉)…竪穴住居なし
3群期(堀之内式期頃)には土器数が急減し竪穴住居は検出されません。集落が縮小しました。(仮説…漁業に特化した近隣出先集落に人材が移動して、六通貝塚は管理機能中心になった。近隣出先集落建設による生業活動が成功する。)

4群(後期中葉)
4群期(加曽利B式期頃)には土器数が急増するが竪穴住居検出数は1にとどまります。3群期とくらべると集落の勢いが回復したと捉えられます。(仮説…海岸線後退による漁業環境劣化により近隣出先集落から人材が戻った。)

5群(後期後葉)
5群期(安行1式期頃)も集落の勢いは保持している。竪穴住居は3軒検出されている。
19、20竪穴住居が貝塚から離れた台地縁から検出されていて、拠点集落として発展している様子を窺うことができます。台地縁立地の19、20竪穴住居にどのような「機能」があったのか今後検討します。

6群(晩期前半)
6群期(安行2式期、前浦式期頃)になると土器数が急増し、竪穴住居検出数7軒となり集落のピークになる。(仮説…六通貝塚に人材を集中して行う生業活動が成功する。)
12、13、14、16竪穴住居が比較的密集していることから、この場所がこの時期(ピーク期)の集落中心の一つであったかもしれません。今後検討します。

7群(晩期後半)
7群期(晩期後半)になると土器数は急減し、竪穴住居検出数も1軒となり集落凋落を表現します。(仮説…拠点集落の終焉。)6群の9竪穴住居の傍に7群の10竪穴住居が位置していて、貝塚の中央というポイントが集落にとって特別重要な場所であったのかもしれません。今後検討します。

縄文時代時期不詳
時期不詳竪穴住居が貝塚の西と北・東に分布しています。この分布と6群(晩期前半、ピーク期)の貝塚南の竪穴住居密集とを関連づけて考察する価値があると予察します。集落内上位階層住民と下位階層住民の竪穴住居分布の様相がことなり、その結果がこれらの分布図に垣間見えている可能性があります。今後検討します。

参考

六通貝塚 全竪穴住居

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