2018年8月25日土曜日

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 1

大膳野南貝塚学習成果を近隣遺跡に投影して比較学習するにあたり、まずこの付近の縄文集落消長の様子を予察的に学習し、問題意識を深めたいと思います。
有吉南貝塚の発掘調査報告書(平成20年)に掲載されている近隣遺跡情報から縄文遺跡だけをピックアップして時期別に並べて眺めてみました。

1 縄文時代全期

縄文時代遺跡の分布
黒点線は「千葉東南部地区」(開発区域)、5000年前、3500年前は別資料から転記した過去海岸線、〇は私家版データベースから転記した時期別遺跡(この図では縄文全期)であり開発区域内でいえば〇は調査歴のある顕著な遺跡ではなく土器片などが地表で見つかったことがある包蔵場所を表現していると考えられます。

縄文時代遺跡が地形からみてある特定の場所に分布しているように見えます。台地縁とそこから延びる細尾根に分布し、それも5000年前海岸線に近い部分にはありません。縄文遺跡と地形との関係は重要な検討課題であるとの興味を得ることができます。旧石器時代遺跡との比較に興味が湧きます。[問題意識1 縄文時代遺跡と旧石器時代遺跡分布の比較]

2 縄文時代早期

縄文時代早期遺跡の分布
正確には「早期炉穴群」が存在する遺跡です。
広々とした台地面ではなく台地の縁とそこから延びる細尾根で5000年前海岸線には近くない場所に分布しているように観察できます。
ただし、縄文時代早期の海岸線は谷津深く侵入していたので早期遺跡は海との関わりを意識して立地していた可能性があります。縄文海進最盛期頃(6500年前)の海岸線情報が小金沢貝塚発掘調査報告書に掲載されているのであらためて検討することにします。[問題意識2 早期遺跡と海岸線との関係]
炉穴があるのですからそこでキャンプして炊事をしています。キャンプするのに都合がよい理由としてその周辺で主食の堅果類採集がしやすいことがあるのではないだろうかと想定します。堅果類以外にも細尾根の複雑な地形には多様な環境が存在していろいろな食糧資源や生活資源が存在していた可能性があります。[問題意識3 細尾根は食糧資源が豊富であったか]
また細尾根の地形では泉のある小谷底が多くあり、真水の入手が容易だった可能性があります。[問題意識4 細尾根は真水の入手が容易であったか]
同時にこれらの場所に陥し穴が存在していて、その場所でキャンプをしていない季節や年には狩猟場であったと考えます。大膳野南貝塚では炉穴と陥し穴の双方が見つかっているので、同じような状況がこれらの早期遺跡に共通していた可能性が濃厚であると考えます。[問題意識5 細尾根は狩場としての意義があったか、動物が細尾根まで移動してきたか]

3 縄文時代前期

縄文時代前期遺跡の分布
大膳野南貝塚に縄文時代前期の拠点集落が存在していたという情報は大膳野南貝塚発掘調査報告書からのものです。

前期集落が台地縁と細尾根の間の空間に存在していることは多くのことを物語ると考えます。この位置は海から遠く、標高も50mあり明らかに漁労のために建設した拠点ではなく、狩猟と堅果類採集のために建設した拠点であると考えることができます。大膳野南貝塚前期集落から出土する貝は少なく、漁労は生業において主要なものではありませんでした。[問題意識6 各地に通じる台地平面と細尾根の間に位置する場所が拠点集落を建設する要件であった][問題意識7 大膳野南貝塚前期集落立地は狩猟と堅果類採集を主な生業とする集団に対応していて、漁労のことはほとんど考えられていない]

4 縄文時代中期

縄文時代中期遺跡の分布
この付近では有吉北貝塚、有吉南貝塚と草刈遺跡(未表示)が中期の拠点集落です。[問題意識8 草刈遺跡の情報の追加]
有吉北貝塚、有吉南貝塚と海岸との位置関係、地形的関係を知る必要があります。[問題意識9 有吉北貝塚、有吉南貝塚と海岸(漁労の場)との関係、生業からみた集落立地要件の整理…狩猟場、堅果類採集場はどこか]
拠点集落以外の中期遺跡(中期住居出土遺跡)と拠点集落との関係を考察する必要があります。[問題意識10 有吉北貝塚、有吉南貝塚と同期隣接遺跡群の関係はどのようなものか]

5 縄文時代後晩期

縄文時代後晩期遺跡の分布
・六通貝塚が後期におけるこの付近の母集落で上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、大膳野南貝塚は六通貝塚から派生分家した集団の集落のようです。[問題意識11 六通遺跡はこの付近の母集落か]
・六通貝塚から4つの集落が派生した時期(堀之内式期)には六通貝塚は縮小しています。[問題意識12 六通貝塚集団が4つの派生拠点を建設して、自らの本部機能は縮小したというような計画的・戦略的展開を想定することは如何]
・4つの派生拠点集落は主な生業として漁労を行っていて、その漁場も近接すると考えられることから、この時期(堀之内式期)に特段に漁労に有利な環境が生れた可能性、あるいは漁獲量を飛躍的に増大できる道具・技術の発明、さらには拠点集落が協同して漁労とそれ以外の生業(狩猟・堅果類採集など)を組織的・計画的に行いその分配が合理的であるという最適社会システムの開発が行われたなどの画期が存在したと考えられます。[問題意識13 六通貝塚と4つの派生分家拠点が同時に漁労生計を可能にした画期的出来事は何か…漁労に特段に有利な環境の出現か、道具・技術の発明か、社会システムの発明か]
[問題意識14 各拠点集落の漁場分布(漁業権域図)は]
・4つの派生拠点集落の1つである大膳野南貝塚では階層上下のある2集団が存在していました。このことから後期社会になると奴隷的労働力を利用できるようになり、それが画期となり六通遺跡と派生4分家拠点の同時存在という発展につながった可能性について検討する価値があると考えます。[問題意識15 奴隷的労働力が生れ、社会発展の画期となったか]
・六通貝塚と木戸作貝塚、小金沢貝塚はそれぞれ400m程度しか離れていません。それだけの隣接した場所に別の貝塚が形成されるのですからその3つの集落の間には明瞭な機能の違いが存在したはずです。六通貝塚は管理・本部機能、木戸作貝塚と小金沢貝塚は現業部門機能であり、木戸作貝塚と小金沢貝塚は同じ現業部門でも労働対称・場所・方法などが異なっていたに違いありません。[問題意識16 近接する六通貝塚、木戸貝塚、小金沢貝塚の機能の違い]
・六通貝塚と4つの派生した4拠点の狩猟の場、堅果類採集の場はどのように調整されていたか検討することが大切であると考えます。[問題意識17 六通貝塚と派生4拠点の狩猟の場、堅果類採集の場はどこか]
・加曽利B式期頃になると派生4拠点は衰滅し六通貝塚だけが残り発展し、六通貝塚がピーク期を迎えます。派生4拠点が六通貝塚に吸収されたように観察できます。その要因について分析を深めたいと思います。[問題意識18 六通貝塚が派生4拠点を吸収したのか、それは何故か、その後六通貝塚が発展したのはなぜか]
[問題意識19 六通貝塚は衰滅して最後はどのようになったのか]

・六通貝塚と派生4拠点は中期拠点の有吉北貝塚と有吉南貝塚の立地する細尾根を避けて存在しています。つまり後期集落を形成した集団は中期集落の場所とそれが立地した細尾根を忌避しています。これから中期集落と後期集落の間につぎのような特別の関係が存在していた可能性があります。
1 中期集落集団がなにかの理由で廃絶して、その後に後期集落集団が入植した、入植集団は廃絶集団の集落跡を忌避して集落を立地させた。
2 中期集落集団テリトリーに後期集落集団が侵入して中期集落集団を滅ぼした。後期集落集団は中期集落集団の拠点(有吉北貝塚と有吉南貝塚)を忌避して集落立地場所を選定した。滅ぼされた中期集落集団は後期集落集団の奴隷的階層に編入された。
[問題意識20 六通貝塚を母集落とする集団が有吉北貝塚と有吉南貝塚付近を集落立地場所として忌避している理由は]

5枚の分布図から問題意識を深めることができました。

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参考 
六通貝塚と大膳野南貝塚 竪穴住居住居時期の概略対応




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