ラベル 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2020年6月24日水曜日

昭和39年調査出土 安行3b式土器

縄文土器学習 412

加曽利貝塚博物館企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている縄文晩期安行3b式土器(昭和39年調査出土)の観察記録3Dモデルをつくりました。

1 縄文晩期安行3b式土器(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文晩期安行3b式土器(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
旧Ⅴトレンチ昭和39年調査出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 74 images
口径8.0㎝、胴部径10.7㎝、高さ7.3㎝(3Dモデルから計測)

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 メモ
この土器に関する詳しい情報は知らないのですが、完形で出土しているようです。
大きさや形状から祭祀におけるお供えの食べ物を入れる祭具としての容器であると想像します。例えばお墓の前に置かれていたものであり、壊したり持ち出すことは許されなかったものと想像します。

2020年6月22日月曜日

もっこふんどし着装縄文後・晩期土偶

縄文土器学習 410

加曽利貝塚博物館企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている黒色土から出土した縄文後・晩期土偶を観察記録3Dモデルをつくって子細に観察しました。

1 縄文後・晩期土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文後・晩期土偶(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
黒色土出土
撮影場所:加曽利貝塚博物館 企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」
撮影月日:2020.06.17
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 46 images
足-頂部6.3㎝、両手間4.3㎝(3Dモデルから計測)

展示の様子

説明パネル
企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」説明パネル引用

動画

2 観察と感想
ア 下半身縦線の既往学習事例
土偶の陰部付近縦線状表現が気になりました。
以前上黒岩岩陰遺跡の学習をしたとき、次の石偶について学習しました。
2020.04.23記事「産小屋としての上黒岩岩陰遺跡

上黒岩岩陰遺跡出土石偶の学習
国立歴史民俗博物館研究報告第154集(2009)から引用・メモ追記

石偶下半身縦線についてそれが腰ミノではなく陰毛であり、女性性(端的に言えば女性器)の象徴であることを旧石器時代最終期ユーラシア大陸全体のビーナス像比較検討で知りました。
縦線が陰毛であるかどうか、この土偶を一瞥して気になったのです。

イ 観察結果
縦線が体部前だけでなく体部後ろにもあることと縦線上部が横線で区切られ、その横線が腰に連続していることが観察できます。この観察から説明パネルにあるように、「パンツや腰ミノのようなものをはいている」と観察できました。
より具体的には1枚のヒモ付布状織物を股間に当てて、ヒモを腰に回して縛っているようです。
「もっこふんどし」あるいは「前垂れのない越中ふんどし」と同じような構造の衣類のようです。
縦線と見た線はよく見ると織物構成ヒモ成分を表現しているのではなく、布状織物がよれてできるシワを表現しているようです。
この土偶はもっこふんどし着装土偶と呼ぶことができます。

ウ もっこふんどし着装の意義
土偶は多用な女性祈願で使われた道具であると考えますが、原義が女性使命(妊娠・出産・育児)全うの祈願具であることは間違いないと考えます。従って妊娠に必要な交合器官であり、出産産道となる女性器表現、妊娠の進行と出産を暗示する膨らんだ腹、乳児が餓死しないで育つことができる母乳の源となる大きな乳房の表現が必須であると考えます。
しかし、縄文文化が発展し、衛生面等からの要請により陰部被覆布状織物の高性能製品が発明され、常時陰部を布状織物で覆う習慣が定着したのだと想像します。
その製品例がもっこふんどしであり、もっこふんどし(のような製品)普及により土偶から女性器表現が消えたのだと思います。

……………………………………………………………………

土偶に対する興味から離れますが、女性がもっこふんどし等で陰部(生殖器)を常時覆う習慣が生まれると、男を含めて性意識が変化したと想像します。女性陰部(生殖器)の意味が変わったと想像します。女性陰部(生殖器)に対する隠し事的興味、タブーを伴う興味が生まれ、強化されたと空想します。

2020年6月17日水曜日

縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 21

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている磨製石斧3点の観察記録3Dモデルを作成しました。3Dモデルを見ながらなぜこのような大きな磨製石斧が3点も同じ場所から出土したのか、出土場所や出土意義について興味が生まれました。

1 縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル

縄文後晩期磨製石斧3点(千葉市加曽利貝塚) 観察記録3Dモデル
黒色土出土
企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」大型竪穴住居跡の調査コーナー展示
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 46 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 黒色土について
次の模式図にあるとおり黒色土は縄文後・晩期の堆積土であると考えられています。
この黒色堆積土から磨製石斧が出土しました。

模式図
展示パネルから引用

イ 磨製石斧の出土場所
磨製石斧の正確な出土場所は展示パネルに表示はありません。しかし令和元年度発掘調査域という極限された範囲から出土しています。その調査範囲には大型住居と85号竪穴住居があり、それらの竪穴住居を覆う黒色土から磨製石斧は出土しています。
次の写真の黒色部分が黒色土であるならば、黒色土が地表面であった頃の微地形は大型竪穴住居の形をなぞるような浅い窪地であった可能性があります。

大型住居の発掘の様子

85号竪穴住居や大型竪穴住居が浅い窪地で存在していて、その場所が以前の竪穴住居・大型竪穴住居であることが意識されていた場所であると想定することができます。

ウ 磨製石斧出土の意義
磨製石斧3点の他に多数の遺物が出土していて、それらの出土意義は基本的に同じで、この場所が晩期集落の野外祭祀の場所であったためであると考えます。
樹木を伐採したり木材を加工するための道具としての磨製石斧が出土したと考えるよりも、野外祭祀で祭具として使われた磨製石斧がその場所にいわば展示され、その場に残存したと考えることの方が合理的であると考えます。
たとえば、動物送りが野外祭祀として行われ、最後に動物を殺して送るときに磨製石斧が使われ、その磨製石斧が動物の頭部とともにイナウに展示されるというような状況を考えることができるかもしれません。
血を吸った磨製石斧を本来の実用道具として使うことはなかったのかもしれません。
(さらに、その思考は発展させたくない種類のものですが、縄文晩期社会自壊の一端として磨製石斧が対人制裁武具として使われた可能性もあり得ると思います。増える罪人の公開処刑でつかった磨製石斧を遺体とともに展示するということも思考から排除できません。)

2020年6月15日月曜日

縄文晩期 熱を受けた磨製石斧2点(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 20

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている「熱を受けた磨製石斧」2点の観察記録3Dモデルを作成して、その3Dモデルを見ながら派生する思考を楽しみました。

1 縄文晩期 熱を受けた磨製石斧(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル

縄文晩期 熱を受けた磨製石斧2点(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 41 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 磨製石斧の被熱について 説明パネルによる思考
企画展説明パネルでは石斧2点と石剣3点の被熱について「住居が使われなくった際に、何らかの祭祀行為が行われた結果かもしれません。」と書いてあります。この記述からは、例えば次のような想定ができるかもしれません。
住居の住人が集落の有力者で磨製石斧や石剣を所持(管理)していた。その集落有力者が亡くなりその住居が取り壊されたので、所持していた磨製石斧や石剣を焼いて埋め、故人の弔いとした。故人とともに貴重な磨製石斧や石剣を一緒にあの世に「送った」ということです。
このように考えると、磨製石斧は故人とともに送るために被熱したのであり、それ自身は本来的に実用具であり祭具ではなかったと考えます。

イ 磨製石斧の被熱について 石剣や磨製石斧がまだ祭具としてアクティブであるとする思考
石剣も磨製石斧も祭具として使われていたと考えます。
祭具の具体的使い方はわかりませんが、炉の回りで炉の火を軸に祭祀が展開され、その際石剣(あるいは磨製石斧)が火の近くに置かれて祭祀が進行したと想定します。したがって祭祀が行われるたびに石剣(あるいは磨製石斧)が徐々に被熱し劣化していったものと想定します。(つまり石剣なり磨製石斧なりが最後にその機能を剥奪されるときの焼き(お焚き上げ)ではなく、祭祀ごとに火の近くに置かれるという状況を想定します。)
このように想定すると、出土した磨製石斧と石剣はまだ祭祀道具として生きている状態であり、出土した状況は祭具の保管であると考えることができます。
磨製石斧が樹木の伐採や木材の加工のための実用具ではなく、対人戦闘武器として意識される状況が晩期に生まれていれば、石剣と磨製石斧が祭具として一緒に使われた状況を考えることが可能になるかもしれません。

2020年6月14日日曜日

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 19

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている石剣3本の観察記録3Dモデルを作成して、その3Dモデルを見ながら派生する思考を楽しみました。

1 縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
 3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 53 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 石剣について
石剣と分類される石器器種の意識的観察は初めてです。石棒の流行が静まってから石剣の流行が始まるので石棒が変容したもの(石棒から交代したもの)のようです。形状等の分類はともあれ、石剣の意義(利用)についての歯切れのよい説明には専門書からはありつけませんでした。
石剣が刃部をイメージして扁平につくられていることが正しいとするならば、大陸の青銅器刀子のイメージを投影してつくられているという説は重要な説だと思います。
縄文晩期に大陸刀剣の姿イメージが縄文人に影響を与えていたとすれば、縄文人本来が持っていなかった対人武器へのあこがれとか、武器使用による富獲得の願望とかが芽生えていた可能性があります。
縄文人男性が思想的に弥生文化を受け入れる端緒がつくられた状況を石剣登場が物語っているのかもしれません。

イ 石剣入手のために用意した交換財
石剣の製造元は秩父や群馬などの石剣製造専門集団で、その集団作成石剣が流通ルートを通して加曽利貝塚村が入手したものと考えられます。その際加曽利貝塚村はどのような交換財をどれくらい提供したのか興味がわきます。詳細はわかるはずはありませんが、それを思考しておけば、いつかその思考の確からしさを少しづつ向上させることができるにちがありません。
1)石剣1本つくるのに素材石材の入手・粗割→削り→磨き完成までに2週間×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば製造元に支払う経費)
2)石剣1本が秩父や群馬から東京湾岸まで流通ルートをたどって運搬される労力に2日×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば運搬者に支払う経費)(実際の運搬時間は10日ほどかかって、同時に石剣5本を運搬できると仮定)
3)1)と2)から石剣1本を入手するための交換財は加曽利貝塚住人が16日間労働して得られる財ということになります。
もし干貝や干物などの海産物を用意してそれで石剣1本を入手しようとしたら、その量が16日間労働に対応する量であるとするならば、どれほどになるでしょうか。今即座にイメージできませんが、人が荷物で普通に担ぐ量(20kg)くらいかもしれません。
石剣3本が気前よく焼かれて埋置(財としては放棄)されたのですから、晩期加曽利貝塚村のゆたかさの一端が垣間見えるようです。

ウ ゆたかさ指標としての石製祭具率
加曽利貝塚付近では石は取れないので石製品はほとんどすべて「輸入」したことになります。石製品のうち祭具(石剣など)は食糧生産にかかわらないので、その多寡は「村のゆたかさ」指標になる可能性があります。海産物や堅果類や獣肉などの食糧、あるいは漆製品など付加価値の高い物、さらには「嫁」まで含めて交換財になるものが豊富であれば石製祭具を多数用意できます。
石製品における石製祭具率を時系列的に調べれば、村の豊かさの時間的変化を、空間的に調べれば周辺村の経済力分布が判るに違いありません。

エ 石剣の被熱と3本一緒に出土した理由
展示パネルに次の説明と写真が掲載されています。

展示説明
企画展展示パネルから引用

85号竪穴住居跡(晩期)石剣の出土状況
企画展展示パネルから引用

説明から石剣の被熱は建物を燃やした時の被熱ではないようです。
石剣出土状況写真をよく見ると、石剣は床直面ではなく、覆土層の中から出土しているようです。ということはこの竪穴の建屋が取り払われてから時間が経過して、ある程度覆土が積もってから、この場で石剣を焼く行為のある祭祀が行われたか、あるいは別の場で焼かれた石剣がこの場に持ち込まれたかどちらかだと想像します。
石棒や石剣が祭祀で使われるとき、1回の祭祀の最後に被熱するような状況を想定してみます。つまり多数回の祭祀で石棒や石剣は何回も被熱するという状況です。そして最後は割れて道具としての寿命が尽きるという状況を想定をしてみます。
このような状況を想定すると、出土した石剣はまだ道具として機能しているモノになります。
3本も一緒にあるのですから、この竪穴住居祉が祭具保管場所だった可能性もあり得ると考えます。
廃竪穴住居の建屋を取り壊して穴になった部分に柱なしの簡単な屋根をかけて作った保管庫であれば、そこに風で泥がたまり、その泥の上に祭具が置かれた可能性があります。
さらに空想すれば、建屋のある廃竪穴住居を保管庫として利用しても、人のすまない竪穴住居ですから風で内部に泥が沢山溜まります。その床面に置いた(あるいは台等の上に置いた)石剣は何度も出し入れしている間に泥の上に位置することになります。集落が消滅するとき、この保管庫がそのまま放置されれば、建屋や台の木材は全て消えて、石剣だけが覆土中から出土することになります。