2020年6月14日日曜日

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 19

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている石剣3本の観察記録3Dモデルを作成して、その3Dモデルを見ながら派生する思考を楽しみました。

1 縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
 3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 53 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 石剣について
石剣と分類される石器器種の意識的観察は初めてです。石棒の流行が静まってから石剣の流行が始まるので石棒が変容したもの(石棒から交代したもの)のようです。形状等の分類はともあれ、石剣の意義(利用)についての歯切れのよい説明には専門書からはありつけませんでした。
石剣が刃部をイメージして扁平につくられていることが正しいとするならば、大陸の青銅器刀子のイメージを投影してつくられているという説は重要な説だと思います。
縄文晩期に大陸刀剣の姿イメージが縄文人に影響を与えていたとすれば、縄文人本来が持っていなかった対人武器へのあこがれとか、武器使用による富獲得の願望とかが芽生えていた可能性があります。
縄文人男性が思想的に弥生文化を受け入れる端緒がつくられた状況を石剣登場が物語っているのかもしれません。

イ 石剣入手のために用意した交換財
石剣の製造元は秩父や群馬などの石剣製造専門集団で、その集団作成石剣が流通ルートを通して加曽利貝塚村が入手したものと考えられます。その際加曽利貝塚村はどのような交換財をどれくらい提供したのか興味がわきます。詳細はわかるはずはありませんが、それを思考しておけば、いつかその思考の確からしさを少しづつ向上させることができるにちがありません。
1)石剣1本つくるのに素材石材の入手・粗割→削り→磨き完成までに2週間×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば製造元に支払う経費)
2)石剣1本が秩父や群馬から東京湾岸まで流通ルートをたどって運搬される労力に2日×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば運搬者に支払う経費)(実際の運搬時間は10日ほどかかって、同時に石剣5本を運搬できると仮定)
3)1)と2)から石剣1本を入手するための交換財は加曽利貝塚住人が16日間労働して得られる財ということになります。
もし干貝や干物などの海産物を用意してそれで石剣1本を入手しようとしたら、その量が16日間労働に対応する量であるとするならば、どれほどになるでしょうか。今即座にイメージできませんが、人が荷物で普通に担ぐ量(20kg)くらいかもしれません。
石剣3本が気前よく焼かれて埋置(財としては放棄)されたのですから、晩期加曽利貝塚村のゆたかさの一端が垣間見えるようです。

ウ ゆたかさ指標としての石製祭具率
加曽利貝塚付近では石は取れないので石製品はほとんどすべて「輸入」したことになります。石製品のうち祭具(石剣など)は食糧生産にかかわらないので、その多寡は「村のゆたかさ」指標になる可能性があります。海産物や堅果類や獣肉などの食糧、あるいは漆製品など付加価値の高い物、さらには「嫁」まで含めて交換財になるものが豊富であれば石製祭具を多数用意できます。
石製品における石製祭具率を時系列的に調べれば、村の豊かさの時間的変化を、空間的に調べれば周辺村の経済力分布が判るに違いありません。

エ 石剣の被熱と3本一緒に出土した理由
展示パネルに次の説明と写真が掲載されています。

展示説明
企画展展示パネルから引用

85号竪穴住居跡(晩期)石剣の出土状況
企画展展示パネルから引用

説明から石剣の被熱は建物を燃やした時の被熱ではないようです。
石剣出土状況写真をよく見ると、石剣は床直面ではなく、覆土層の中から出土しているようです。ということはこの竪穴の建屋が取り払われてから時間が経過して、ある程度覆土が積もってから、この場で石剣を焼く行為のある祭祀が行われたか、あるいは別の場で焼かれた石剣がこの場に持ち込まれたかどちらかだと想像します。
石棒や石剣が祭祀で使われるとき、1回の祭祀の最後に被熱するような状況を想定してみます。つまり多数回の祭祀で石棒や石剣は何回も被熱するという状況です。そして最後は割れて道具としての寿命が尽きるという状況を想定をしてみます。
このような状況を想定すると、出土した石剣はまだ道具として機能しているモノになります。
3本も一緒にあるのですから、この竪穴住居祉が祭具保管場所だった可能性もあり得ると考えます。
廃竪穴住居の建屋を取り壊して穴になった部分に柱なしの簡単な屋根をかけて作った保管庫であれば、そこに風で泥がたまり、その泥の上に祭具が置かれた可能性があります。
さらに空想すれば、建屋のある廃竪穴住居を保管庫として利用しても、人のすまない竪穴住居ですから風で内部に泥が沢山溜まります。その床面に置いた(あるいは台等の上に置いた)石剣は何度も出し入れしている間に泥の上に位置することになります。集落が消滅するとき、この保管庫がそのまま放置されれば、建屋や台の木材は全て消えて、石剣だけが覆土中から出土することになります。

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