花見川河川争奪を知る32 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説7
2011年10月31日記事「4期地形の把握とわかったこと」の続きです。
次の図は地形分類図(1949年時点)を現代のDMデータにオーバーレイしたものです。
弁天橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ア
アの平坦面は勝田川の河岸段丘で、oryzasan氏のコメントの付図では千葉第Ⅰ段丘と千葉第Ⅱ段丘に区分されています。
八千代市の歴史資料編自然Ⅱでは上位段丘をTP段丘面(東京軽石層を含む武蔵野ローム層以上を乗せる)、下位段丘をAT段丘面(姶良Tn火山灰を含む立川ローム層上部をのせる)としています。
空中写真を実体視するかぎり二つの地形面に区分できるような段差や斜面はみつからないで、標高10mから16mまでの、だらだらした緩勾配の平坦面になっています。
もしこのアの平坦面がoryzasan氏のいうように2つに区分できると、柏井付近の段丘面対比に好都合になるような気がしています。
イ
イの細長い平坦面と背後の小崖は現在埋め立てられて観察できません。
1949年空中写真では明瞭に観察でき、アの平坦面に連続しています。
その様子は過去の地形図で、埋立が進んでいますが、現在と比べればある程度はっきりとその存在を確認できます。
この細長い平坦面と崖の存在は、勝田川の千葉段丘を作った河川に支流が流入していたことを示しています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料1です。
ウ
ウの緩斜面の存在は盛土によってその下部が隠されていますが、谷地形の存在を暗示します。
谷地形の存在を想定して初めてこのような緩斜面の説明が可能になると思います。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料2です。
エ
エの急斜面は谷壁を示します。
この谷壁が流入支谷のものであるのか、本川の谷壁の一部であるのかは今後検討する必要があります。
DMデータから谷壁の最低点の標高が17.1mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料3です。
柏井橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
オ
オの急斜面と背後の緩斜面は流入支谷を示します。
下部は盛土によって隠されていますが、DMデータから谷壁の最低点の標高が18.41mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
この支谷の方向が北を向いており、本川も北を向いて流れていたことを暗示します。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料4です。
カ
カの河岸段丘(標高14m~16m)はその分布形状から前谷津の水流で形成されたことは確実です。
そして、北方向に流れた水流で形成されたことを強く示唆します。
谷全体の等高線も南にではなく、北方向に向かっていることが示されています。
段丘の北側は盛土で隠されています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料5です。
キ
キの河岸段丘(標高14m~18m)はその分布形状から花見川の本流筋で形成されたことは間違いありません。
その分布形状をよく見ると、前谷津の谷壁によって切られているように見えます。段丘形成後、その地点で流れを南転させるる前谷津の水流によって切られたという印象を受けます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料6です。
柏井橋~花島付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ク
クの段丘は標高が16m~20であり、それ以外の段丘より一段上にあります。
カやキの段丘と対比される高さの段丘と小崖で接しているところもあります。
河岸段丘には2面あることが暗示されます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料7です。
ケ
ケの緩斜面は小崖で境されながら低位の段丘や高位の段丘に接しています。
河成の浸食斜面のように捉えることができます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料8です。
コ
コの河岸段丘(標高12m~16m)存在をカやキの河岸段丘存在と一連のものとして(連続するものとして)捉えることが自然です。
コの河岸段丘はカやキの河岸段丘の上流にあたる部分として捉えることになります。
その場合高度が逆転しますから、地殻運動の影響を考慮しなければ説明できません。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料9です。
以上のア~コに示した9つの材料から、特にイとカの材料を中核理由として、花島付近から、前谷津・後谷津を合流して北流し、勝田川に合流する古柏井川の存在は確実であるといえます。
時代を知ることにも手が届きつつあると思います。
河川争奪存在の原理的証明は、地形的情報を集めた結果、完了したと思います。
その規模や形状の復元はさらに作業を進めれば詳らかになります。
わかりやすい平面図や断面図で表現する必要があると思います。
地形面の対比は、堆積物を観察し火山灰をキーとすれば、正確にできると思います。
そうなれば、時間の概念も導入できて、編年ができると思います。
勝田川の河岸段丘である千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘に、柏井付近の高位段丘と低位段丘が対比されるような結果になれば、美しいのですが。
柏井、花島付近に河岸段丘が発達する理由は、そこが河川争奪の現場だからです。近隣の東京湾側V字谷に類似するような河岸段丘はありません。
2011年11月3日木曜日
2011年11月2日水曜日
oryzasan氏のコメント(2011.10.25)の感想
花見川河川争奪を知る31 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説6
2011年10月26記事「oryzasan氏のコメント(2011.10.25)」の感想を述べます。
oryzasan氏からコメントをいただいてからだいぶ時間がたってしまい、申し訳ございません。
コメント記事も画面の奥深くに移ってしまいましたので、再度引用させていただき、文章毎に私の感想を述べさせていただきます。
……………………………………………………………………
Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。
次の点です。 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。
盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。
僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。
各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
……………………………………………………………………
横戸団地より南(鉄道連隊鉄橋跡より南)の東岸ではoryzasan氏のおっしゃる通りの地層になっているものと推察できます。
江戸時代の堀割普請でも地山を削って掘っています。さらに戦後の工事でもその斜面の表面を削っています。
見かけ上台地の上にしか盛土がないよう見える部分が多いと思います。
しかし、西岸には古柏井川由来と思われる谷壁残片があり、詳細に調べると違うと思います。「対岸も同様」と片づけるのは早計だと思います。
横戸団地より北(鉄道連隊鉄橋跡より北)(断面A-Bも含まれます)では東岸の盛土背後に勝田川河岸段丘から連続する平坦面とその背後の崖が1949年撮影空中写真で確認できます。
したがって、盛土は古柏井川の谷底面上にあるものだと考えます。
もしこの部分の盛土が薄く(2-3m)地山の上ならば、私の地形解釈を変える必要があります。
これまで存在しないと連絡を受けていた戦後の詳細な工事資料(平面図、断面図等)について、水資源機構千葉用水総合管理所より倉庫の中で見つかったとの連絡を受けました。
昨日訪問し、その膨大な資料を確認させていただきました。
この資料を活用することにより戦後工事の実態がよくわかるようになります。つまり、現在の地形と堀割普請によりできた地形の関係が判りますので、自分としては現場観察の基礎をしっかり確保できることになると思っています。
今後この発見資料を検討させていただく予定になっています。
……………………………………………………………………
問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
……………………………………………………………………
私の感触では千葉段丘が南西に出っ張る部分(?部分)が古柏井川の谷底そのもので、その谷の谷壁の残片が西岸に幾つか残っており、さらに、北柏井の集落を乗せる前谷津の河岸段丘、さらに花島の谷津の河岸段丘へ連続すると、捉えて(空想して)います。
大胆すぎる想定ですが、このような想定の下で入手できる情報を組み立てられるか、検討作業しています。
作業がまとまったところから記事にしますので、oryzasan氏からのご指摘、ご批判、ご指導よろしくお願い申し上げます。
2011年10月26記事「oryzasan氏のコメント(2011.10.25)」の感想を述べます。
oryzasan氏からコメントをいただいてからだいぶ時間がたってしまい、申し訳ございません。
コメント記事も画面の奥深くに移ってしまいましたので、再度引用させていただき、文章毎に私の感想を述べさせていただきます。
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Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。
次の点です。 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。
盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。
僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。
各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
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横戸団地より南(鉄道連隊鉄橋跡より南)の東岸ではoryzasan氏のおっしゃる通りの地層になっているものと推察できます。
江戸時代の堀割普請でも地山を削って掘っています。さらに戦後の工事でもその斜面の表面を削っています。
見かけ上台地の上にしか盛土がないよう見える部分が多いと思います。
しかし、西岸には古柏井川由来と思われる谷壁残片があり、詳細に調べると違うと思います。「対岸も同様」と片づけるのは早計だと思います。
横戸団地より北(鉄道連隊鉄橋跡より北)(断面A-Bも含まれます)では東岸の盛土背後に勝田川河岸段丘から連続する平坦面とその背後の崖が1949年撮影空中写真で確認できます。
したがって、盛土は古柏井川の谷底面上にあるものだと考えます。
もしこの部分の盛土が薄く(2-3m)地山の上ならば、私の地形解釈を変える必要があります。
これまで存在しないと連絡を受けていた戦後の詳細な工事資料(平面図、断面図等)について、水資源機構千葉用水総合管理所より倉庫の中で見つかったとの連絡を受けました。
昨日訪問し、その膨大な資料を確認させていただきました。
この資料を活用することにより戦後工事の実態がよくわかるようになります。つまり、現在の地形と堀割普請によりできた地形の関係が判りますので、自分としては現場観察の基礎をしっかり確保できることになると思っています。
今後この発見資料を検討させていただく予定になっています。
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問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
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私の感触では千葉段丘が南西に出っ張る部分(?部分)が古柏井川の谷底そのもので、その谷の谷壁の残片が西岸に幾つか残っており、さらに、北柏井の集落を乗せる前谷津の河岸段丘、さらに花島の谷津の河岸段丘へ連続すると、捉えて(空想して)います。
大胆すぎる想定ですが、このような想定の下で入手できる情報を組み立てられるか、検討作業しています。
作業がまとまったところから記事にしますので、oryzasan氏からのご指摘、ご批判、ご指導よろしくお願い申し上げます。
2011年11月1日火曜日
絵図注記文字の解読を教えていただく
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、絵図注記文字の私の解読が間違っていたことを教えていただきましたので、報告します。
2011年10月15日記事「絵図から読み取れる興味深い情報」で「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)の次の部分(赤囲い文章)を、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と解釈して、自分の考えを述べました。
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)部分
木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号より引用、赤線書き込み
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と読むことが正しいと教えていただきました。
「コノ」はカタカナ、間はくずし字であり、くずし字資料を見せていただきました。 丁寧な説明をしていただき、納得できました。
おかげさまで自分の間違いを訂正できました。
専門的見識を持って対応していただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
自分の考え(堀割普請前に台地に無能谷があった)をこの注記文字に投影したいという感情が強すぎた結果、「コノ」(カタカナ)を「ここ」(ひらがな)とよみ、間(くずし字)を「より」と読んでしまいました。
2011年10月15日記事「絵図から読み取れる興味深い情報」で「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)の次の部分(赤囲い文章)を、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と解釈して、自分の考えを述べました。
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)部分
木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号より引用、赤線書き込み
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と読むことが正しいと教えていただきました。
「コノ」はカタカナ、間はくずし字であり、くずし字資料を見せていただきました。 丁寧な説明をしていただき、納得できました。
おかげさまで自分の間違いを訂正できました。
専門的見識を持って対応していただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
自分の考え(堀割普請前に台地に無能谷があった)をこの注記文字に投影したいという感情が強すぎた結果、「コノ」(カタカナ)を「ここ」(ひらがな)とよみ、間(くずし字)を「より」と読んでしまいました。
2011年10月31日月曜日
4期地形の把握とわかったこと
花見川河川争奪を知る30 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説5
2-3 4期地形の把握とわかったこと
5期(印旛沼総合開発以降現代まで)における地形改変の把握結果を前記事までに報告しました。
この作業により4期地形の復元把握は1949年撮影米軍空中写真によれば確実にできることが判りました。
大正6年測量の旧版1万分の1地形図や明治前期測量の迅速2万図も有力な資料となりますので、補助資料として使うこととしました。
次に示すのは米軍撮影空中写真を実体視して作成した地形分類図です。以前の記事に掲載した図を少し訂正してあります。
地形分類図
この図から、古柏井川復元に関連すると思われる事項で、わかったことを列挙します。
A
A地点東岸で盛土の背後に埋め残されたと考えられる細長い平坦面とその背後の崖が確認できました。
残念ながら現在は埋め立てられて観察できませんが、DMデータをみると、凹地に台状に盛土した様子が表現されています。この平坦面は勝田川の河岸段丘に連続することが確認できます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(A、B地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)
B
B地点の断面図をDMデータから作成しました。
B地点断面図
(左が東岸、右が西岸)
この断面図に示される西岸背後の窪地は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)にも迅速図(明治15年測量)にも出てくるもので、谷の斜面の一部(自然地形)であることは確実です。
注目すべきは、その斜面の最も低い場所が17m以下であることです。
つまり盛土をはがせば、この付近に17m以下の高さの何らかの谷が存在していたことを証明しています。
C
C地点の西岸には盛土に出口を塞がれた、北方向に向かう、明瞭な流入支谷が確認できます。
最も低い場所の高さは18.4mです。
盛土前に、これより低い場所に、この流入支谷が合流する本川谷津があったことが証明されます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(C、D地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)
C地点地形断面図
(左が東岸、右が西岸)
この流入支谷は迅速図に次のように描かれています。
迅速図
D
D地点の地形断面を次に示します。
D地点地形断面
(左が東岸、右が西岸)
北柏井の集落の乗る平坦面の平面形状は、前谷津(東から流入する谷津)が北に向かって流れて形成されたことを強く示唆します。
後谷津(西から流入する谷津)の合流部北側の平坦面(盛土がされていて緩斜面になっている)も同じく北に後谷津が流れたことによって形成されたことを示唆しています。
なお、A、B、C、Dの谷断片や平坦面と背後の崖は、空中写真実体視で、いずれも意外なほど「新鮮」な感じであり、古柏井川の時代を考える際のヒントになるような気がしています。
柏井から南にも平坦面(河岸段丘)が分布します。それらを含めて、平坦面の対比を今後検討したいとおもいます。
確かな対比のためには、oryzasan氏や団体研究グループが専門とするような火山灰をキーとする現場検証が必須だと思います。
2-3 4期地形の把握とわかったこと
5期(印旛沼総合開発以降現代まで)における地形改変の把握結果を前記事までに報告しました。
この作業により4期地形の復元把握は1949年撮影米軍空中写真によれば確実にできることが判りました。
大正6年測量の旧版1万分の1地形図や明治前期測量の迅速2万図も有力な資料となりますので、補助資料として使うこととしました。
次に示すのは米軍撮影空中写真を実体視して作成した地形分類図です。以前の記事に掲載した図を少し訂正してあります。
地形分類図
この図から、古柏井川復元に関連すると思われる事項で、わかったことを列挙します。
A
A地点東岸で盛土の背後に埋め残されたと考えられる細長い平坦面とその背後の崖が確認できました。
残念ながら現在は埋め立てられて観察できませんが、DMデータをみると、凹地に台状に盛土した様子が表現されています。この平坦面は勝田川の河岸段丘に連続することが確認できます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(A、B地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)
B
B地点の断面図をDMデータから作成しました。
B地点断面図
(左が東岸、右が西岸)
この断面図に示される西岸背後の窪地は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)にも迅速図(明治15年測量)にも出てくるもので、谷の斜面の一部(自然地形)であることは確実です。
注目すべきは、その斜面の最も低い場所が17m以下であることです。
つまり盛土をはがせば、この付近に17m以下の高さの何らかの谷が存在していたことを証明しています。
C
C地点の西岸には盛土に出口を塞がれた、北方向に向かう、明瞭な流入支谷が確認できます。
最も低い場所の高さは18.4mです。
盛土前に、これより低い場所に、この流入支谷が合流する本川谷津があったことが証明されます。
DMデータと地形分類図のオーバーレイ(C、D地点付近)
(ただし、空中写真はオルソ化していません)
C地点地形断面図
(左が東岸、右が西岸)
この流入支谷は迅速図に次のように描かれています。
迅速図
D
D地点の地形断面を次に示します。
D地点地形断面
(左が東岸、右が西岸)
北柏井の集落の乗る平坦面の平面形状は、前谷津(東から流入する谷津)が北に向かって流れて形成されたことを強く示唆します。
後谷津(西から流入する谷津)の合流部北側の平坦面(盛土がされていて緩斜面になっている)も同じく北に後谷津が流れたことによって形成されたことを示唆しています。
なお、A、B、C、Dの谷断片や平坦面と背後の崖は、空中写真実体視で、いずれも意外なほど「新鮮」な感じであり、古柏井川の時代を考える際のヒントになるような気がしています。
柏井から南にも平坦面(河岸段丘)が分布します。それらを含めて、平坦面の対比を今後検討したいとおもいます。
確かな対比のためには、oryzasan氏や団体研究グループが専門とするような火山灰をキーとする現場検証が必須だと思います。
2011年10月30日日曜日
5期地形改変の把握(補足)
花見川河川争奪を知る29 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説4
前記事で戦後の工事で、堀割区間の河床を3~5m掘削したことと一部で実施した比較的規模の大きな斜面掘削・盛土の把握を報告しました。
このうち、河床の掘削にともない、堀割区間のほぼ全線にわたって、斜面脚部において定規断面をつくるために掘削あるいは盛土していることを示すと考えられる資料が見つかりましたので、掲載します。
次の図は、1960年(昭和35年)測量の千葉都市図で、河床掘削と斜面掘削・盛土工事の後の様子を表現しています。
この図でケバで示された部分が定規断面をつくるための斜面整形部分です。
地図表現をみるとあたかも台地を全て掘削した跡のような強い印象を受けますが、工事の実態は一部区間以外は天保期の堀割普請斜面の表面を少しだけ整形したものです。
ほとんどの区間で、斜面の位置が変化するほどの掘削、盛土は行われていません。
千葉市都市図 「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)440ページ掲載図を引用
前記事で戦後の工事で、堀割区間の河床を3~5m掘削したことと一部で実施した比較的規模の大きな斜面掘削・盛土の把握を報告しました。
このうち、河床の掘削にともない、堀割区間のほぼ全線にわたって、斜面脚部において定規断面をつくるために掘削あるいは盛土していることを示すと考えられる資料が見つかりましたので、掲載します。
次の図は、1960年(昭和35年)測量の千葉都市図で、河床掘削と斜面掘削・盛土工事の後の様子を表現しています。
この図でケバで示された部分が定規断面をつくるための斜面整形部分です。
地図表現をみるとあたかも台地を全て掘削した跡のような強い印象を受けますが、工事の実態は一部区間以外は天保期の堀割普請斜面の表面を少しだけ整形したものです。
ほとんどの区間で、斜面の位置が変化するほどの掘削、盛土は行われていません。
千葉市都市図 「「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)440ページ掲載図を引用
2011年10月29日土曜日
5期地形改変の把握
花見川河川争奪を知る28 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説3
2-2 5期地形改変の把握
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形や古地理を復元することができれば、花見川河川争奪の姿を詳しく知るための基本情報となり、河川争奪成因の有力な検討材料も得られる可能性が高くなります。
2期(河川争奪進行期)や1期(河川争奪前)の古地理復元が可能となります。
このように花見川河川争奪の検討のキーとなるのが3期の地形・古地理復元です。
その3期の地形・古地理復元のためには、正確な4期(堀割普請後~印旛沼総合開発前)の地形把握が前提となります。
そして、4期の地形の正確な把握を行うということは、とりもなおさず5期(印旛沼総合開発後~現在)における地形改変の実態を知ることです。
花見川河川争奪について今後検討を行っていくという実際上の観点からしても、現場に出かけて地形観察する際、その地形が戦後改変された結果であるのか、そうでないのか知っておくことは必須です。
5期の地形改変の把握は次の方法で行いました。
ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較
ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)によれば、印旛沼干拓事業の「第一期計画とし、疏水路掘削工事を主とした計画を昭和25年に作成した」とあります。
したがって、それ以前に開発事業の工事は行われていないことは確実です。
また、「大和田から海岸までの疏水路の掘削は大半農林省において完了し、一部海岸部の掘削を行い国道14号線、京成成田線、京成千葉線等の橋りょう工事を実施して43年3月全開削工事を終わり徳川時代からの東京湾疏流の夢が実現することになった。」と書いてあります。
したがって工事は昭和25年(1950)の間から昭和43年(1968)の間に行われたことが判りました。
次の図が掲載されており、工事前と工事後の谷底の高さを縦断的に知ることができる情報を得ることができます。 堀割区間では谷底を3~5m掘り下げています。弁天橋で3.9m、高台付近で5.4m、柏井橋で3.3mとなっています。
横断図が1断面だけ掲載されており、弁天付近の掘削部です。右岸(東岸)が大きく掘削されています。
掲載された横断図以外の情報がありませんので、それ以外の斜面がどのように地形改変されたかということを知ることはこの資料からはできません。
農林省の工事内容がこの資料に掲載されていないため、現代にその情報が伝わってきていないようです。
工事前と工事後の谷底の高さ(計画縦断図)
イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
GIS上で、旧版1万分の1地形図と千葉市提供DMデータ(*)を重ね合わせたところ、上記アではわからなかった堀割区間の掘削、盛土の概要を知ることができました。
旧版1万分の1地形図とDMデータ重ね合わせ画面の例
堀割斜面における主な掘削箇所と盛土箇所
この作業で掘削個所、盛土個所でないことが判明した堀割斜面は、天保期堀割普請の姿を基本的にそのまま伝える斜面です。
戦後の地形改変の姿が判明した意義は大きなものがあると思います。GISの活用による新旧電子地図情報の重ね合わせで、初めて把握が可能になりました。
*謝意
このブログにおける地形検討(流域界地形検討、堀割普請地形検討等)のために千葉市、佐倉市、四街道市、八千代市、習志野市、船橋市の各都市計画担当課よりDMデータを提供していただきました。ここに謝意を表します。
ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較
1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真のそれぞれを実体視して比較し、イで判明した堀割斜面の掘削、盛土の概要が間違っていないことを確認しました。
この確認作業により、1949年米軍撮影空中写真が4期地形・地理を知ることのできる資料であることを確認しました。(イで判明した地形改変は1949年には実施されていないことを確認しました。)
2-2 5期地形改変の把握
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形や古地理を復元することができれば、花見川河川争奪の姿を詳しく知るための基本情報となり、河川争奪成因の有力な検討材料も得られる可能性が高くなります。
2期(河川争奪進行期)や1期(河川争奪前)の古地理復元が可能となります。
このように花見川河川争奪の検討のキーとなるのが3期の地形・古地理復元です。
その3期の地形・古地理復元のためには、正確な4期(堀割普請後~印旛沼総合開発前)の地形把握が前提となります。
そして、4期の地形の正確な把握を行うということは、とりもなおさず5期(印旛沼総合開発後~現在)における地形改変の実態を知ることです。
花見川河川争奪について今後検討を行っていくという実際上の観点からしても、現場に出かけて地形観察する際、その地形が戦後改変された結果であるのか、そうでないのか知っておくことは必須です。
5期の地形改変の把握は次の方法で行いました。
ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較
ア 「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団)掲載工事記録による把握
「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)によれば、印旛沼干拓事業の「第一期計画とし、疏水路掘削工事を主とした計画を昭和25年に作成した」とあります。
したがって、それ以前に開発事業の工事は行われていないことは確実です。
また、「大和田から海岸までの疏水路の掘削は大半農林省において完了し、一部海岸部の掘削を行い国道14号線、京成成田線、京成千葉線等の橋りょう工事を実施して43年3月全開削工事を終わり徳川時代からの東京湾疏流の夢が実現することになった。」と書いてあります。
したがって工事は昭和25年(1950)の間から昭和43年(1968)の間に行われたことが判りました。
次の図が掲載されており、工事前と工事後の谷底の高さを縦断的に知ることができる情報を得ることができます。 堀割区間では谷底を3~5m掘り下げています。弁天橋で3.9m、高台付近で5.4m、柏井橋で3.3mとなっています。
横断図が1断面だけ掲載されており、弁天付近の掘削部です。右岸(東岸)が大きく掘削されています。
掲載された横断図以外の情報がありませんので、それ以外の斜面がどのように地形改変されたかということを知ることはこの資料からはできません。
農林省の工事内容がこの資料に掲載されていないため、現代にその情報が伝わってきていないようです。
工事前と工事後の谷底の高さ(計画縦断図)
イ 旧版1万分の1地形図とDMデータとの重ね合わせによる把握
GIS上で、旧版1万分の1地形図と千葉市提供DMデータ(*)を重ね合わせたところ、上記アではわからなかった堀割区間の掘削、盛土の概要を知ることができました。
旧版1万分の1地形図とDMデータ重ね合わせ画面の例
堀割斜面における主な掘削箇所と盛土箇所
この作業で掘削個所、盛土個所でないことが判明した堀割斜面は、天保期堀割普請の姿を基本的にそのまま伝える斜面です。
戦後の地形改変の姿が判明した意義は大きなものがあると思います。GISの活用による新旧電子地図情報の重ね合わせで、初めて把握が可能になりました。
*謝意
このブログにおける地形検討(流域界地形検討、堀割普請地形検討等)のために千葉市、佐倉市、四街道市、八千代市、習志野市、船橋市の各都市計画担当課よりDMデータを提供していただきました。ここに謝意を表します。
ウ 1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真の実体視による比較
1949年米軍撮影空中写真と近年撮影空中写真のそれぞれを実体視して比較し、イで判明した堀割斜面の掘削、盛土の概要が間違っていないことを確認しました。
この確認作業により、1949年米軍撮影空中写真が4期地形・地理を知ることのできる資料であることを確認しました。(イで判明した地形改変は1949年には実施されていないことを確認しました。)
古地理復元を記述するための時代区分
花見川河川争奪を知る27 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説2
2 花見川河川争奪に関わる古地理の復元
2-1 古地理復元を記述するための時代区分
ブログ記事記述を行っていく上で、例えば、「堀割普請前の地形復元(河川争奪後の自然地形の復元)」という語句を使うと、とても分かりにくく、わずらわしい感じがします。そこで、次のような時代区分を便宜的に行い、記事を記述することにします。
2 花見川河川争奪に関わる古地理の復元
2-1 古地理復元を記述するための時代区分
ブログ記事記述を行っていく上で、例えば、「堀割普請前の地形復元(河川争奪後の自然地形の復元)」という語句を使うと、とても分かりにくく、わずらわしい感じがします。そこで、次のような時代区分を便宜的に行い、記事を記述することにします。
ねむの木さんからのコメント
ねむの木さんからコメントをいただきました。
……………………………………………………………………
おはようございます。
30年も 前の ことですが 犢橋小学校のPTAのお母さんたちが 「ふるさとこてはしを 知ろう」ということで 地域のお年寄りを 訪ねたり 文献で調べ 広報誌に連載したことがありました。
「犢橋」の地名の由来は いま天戸大橋が架かっている橋の工事が 両岸の地盤が悪く どうしても うまくいかず 人柱の代わりに 生きた子牛を埋め 神様に捧げたそうです。 そこで 「こうしばし」「こてはし」「犢橋」となったとかーー。
子牛のことを「こて」と呼ぶと 聞いたことがありますので 調べてみたいと思っていますがーーー。
いま80代の人たちのころは よく花見川の岸辺で遊び その頃は 清水がたくさん 流れでていた聞いた記憶があります、 なにしろ 難工事で 多くの人が 犠牲になり いまでも その供養塔があるそうですが 見たことは ありません。
橋の名前は 隣村と 折り合いがつかず 船橋側が「 天戸橋」 四街道側には 「犢橋」と表示が あったのですが 昨日 車の中から みたら 「御成街道 天戸大橋」と 真ん中ごろに 表示板が たっていました。
御成街道につきましても 面白いはなしがありますが ご存知ですか?
遅れましたが 私のことは 竹中機械製作所で 検索なさってみていただけたらーーーと 思います。「切削侍」のなかで「おんな侍」 で書いています、 これからも よろしくお願いいたします。
2011年10月21日9:34
……………………………………………………………………
ねむの木さんごめんなさい。 投稿していただいたコメントが、どうしてかわかりませんが、スパムホルダーに入っていて、しばらくそこを見なかったものですから、掲載がおくれてしまいました。
犢橋の由来はとても興味があります。牛に関係することはいろいろな地名辞典に出ていますが、本当にそうか、私も調べたいと思います。
やはり「こて」の音が最初にあり、漢字は当て字と考えて、その意味を考えてみたいと思います。
それとともに、人柱のかわりに子牛をささげたという点に強く興味を惹かれます。つまり、かつては人柱があったということです。物騒なことになるので情報が地域外に出ないけれど、明治以降まで実際に人柱を立てて土木工事をしたという話を聞きます。
土木の隠れた歴史として興味が湧きます。
御成街道の橋の名前が両岸で違っていたという話も興味がわきます。この付近の明治以降の行政区域の帰属変遷は複雑であり、近隣の地域が競うような「政治」が好きな風土があるような印象をもっています。それは日本全国同じかもしれませんが。
WEB見させていただきました。あらゆる難加工に 情熱でトライする男たちのブログ「切削侍」は人気ブログですね。
今後もコメントよろしくお願い申し上げます。御成街道の話など。
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おはようございます。
30年も 前の ことですが 犢橋小学校のPTAのお母さんたちが 「ふるさとこてはしを 知ろう」ということで 地域のお年寄りを 訪ねたり 文献で調べ 広報誌に連載したことがありました。
「犢橋」の地名の由来は いま天戸大橋が架かっている橋の工事が 両岸の地盤が悪く どうしても うまくいかず 人柱の代わりに 生きた子牛を埋め 神様に捧げたそうです。 そこで 「こうしばし」「こてはし」「犢橋」となったとかーー。
子牛のことを「こて」と呼ぶと 聞いたことがありますので 調べてみたいと思っていますがーーー。
いま80代の人たちのころは よく花見川の岸辺で遊び その頃は 清水がたくさん 流れでていた聞いた記憶があります、 なにしろ 難工事で 多くの人が 犠牲になり いまでも その供養塔があるそうですが 見たことは ありません。
橋の名前は 隣村と 折り合いがつかず 船橋側が「 天戸橋」 四街道側には 「犢橋」と表示が あったのですが 昨日 車の中から みたら 「御成街道 天戸大橋」と 真ん中ごろに 表示板が たっていました。
御成街道につきましても 面白いはなしがありますが ご存知ですか?
遅れましたが 私のことは 竹中機械製作所で 検索なさってみていただけたらーーーと 思います。「切削侍」のなかで「おんな侍」 で書いています、 これからも よろしくお願いいたします。
2011年10月21日9:34
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ねむの木さんごめんなさい。 投稿していただいたコメントが、どうしてかわかりませんが、スパムホルダーに入っていて、しばらくそこを見なかったものですから、掲載がおくれてしまいました。
犢橋の由来はとても興味があります。牛に関係することはいろいろな地名辞典に出ていますが、本当にそうか、私も調べたいと思います。
やはり「こて」の音が最初にあり、漢字は当て字と考えて、その意味を考えてみたいと思います。
それとともに、人柱のかわりに子牛をささげたという点に強く興味を惹かれます。つまり、かつては人柱があったということです。物騒なことになるので情報が地域外に出ないけれど、明治以降まで実際に人柱を立てて土木工事をしたという話を聞きます。
土木の隠れた歴史として興味が湧きます。
御成街道の橋の名前が両岸で違っていたという話も興味がわきます。この付近の明治以降の行政区域の帰属変遷は複雑であり、近隣の地域が競うような「政治」が好きな風土があるような印象をもっています。それは日本全国同じかもしれませんが。
WEB見させていただきました。あらゆる難加工に 情熱でトライする男たちのブログ「切削侍」は人気ブログですね。
今後もコメントよろしくお願い申し上げます。御成街道の話など。
2011年10月28日金曜日
参考 20万分の1地質図幅「千葉」(明治20年)
花島村近傍地質図が掲載されている「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)の親図である20万分の1地質図幅「千葉」(明治20年、農商務省地質調査所、巨智部忠承)原本を産総研第7事業所の地質調査情報センターで閲覧し、コピーさせていただきました。
この原本は個人が使っていたもので、裏表に多数の書き込みがあり、古書店が付けたと思われる購入を促す和紙の付箋(「全部日本人ノ手ニ成レル…」)が残っています。
書き込みのない原本カラーコピーも見せていただきました。
次の4種の図面があり、明治中期の地質に対する重視がうかがわれました。
千葉図幅地質図(日本語バージョン)
千葉図幅地質図(英語バージョン)
千葉図幅地形図(日本語バージョン)
千葉図幅地形図(英語バージョン)
日本山岳会が所蔵する原本を借用してコピーしたとの説明がありました。
また、千葉図幅地質説明書の原本を閲覧し、「花島村近傍地質図」のページをコピーさせていただきましたが、この原本の裏には大久保書店のラベルが残っていました。神田の地質専門古書店から購入したもののようです。
巨智部忠承が地質調査所長であった時代もあるとのことですが、その地質調査所時代著作物を後の時代に同じ機関が古書店等から収集していることを知り、時代の変遷とはこういうことだと、妙に実感させられました。
花見川河川争奪に関連して、千葉図幅地質図から得られる情報は特に見つけることはできませんでした。
千葉図幅地形図からは、花見川流域に関して、当時の地形観を偲ばせる情報が得られましたので、機会を見つけて紹介します。
この原本は個人が使っていたもので、裏表に多数の書き込みがあり、古書店が付けたと思われる購入を促す和紙の付箋(「全部日本人ノ手ニ成レル…」)が残っています。
書き込みのない原本カラーコピーも見せていただきました。
次の4種の図面があり、明治中期の地質に対する重視がうかがわれました。
千葉図幅地質図(日本語バージョン)
千葉図幅地質図(英語バージョン)
千葉図幅地形図(日本語バージョン)
千葉図幅地形図(英語バージョン)
日本山岳会が所蔵する原本を借用してコピーしたとの説明がありました。
また、千葉図幅地質説明書の原本を閲覧し、「花島村近傍地質図」のページをコピーさせていただきましたが、この原本の裏には大久保書店のラベルが残っていました。神田の地質専門古書店から購入したもののようです。
巨智部忠承が地質調査所長であった時代もあるとのことですが、その地質調査所時代著作物を後の時代に同じ機関が古書店等から収集していることを知り、時代の変遷とはこういうことだと、妙に実感させられました。
花見川河川争奪に関連して、千葉図幅地質図から得られる情報は特に見つけることはできませんでした。
千葉図幅地形図からは、花見川流域に関して、当時の地形観を偲ばせる情報が得られましたので、機会を見つけて紹介します。
巨智部忠承のカラー「花島村近傍地質図」掲載
花見川河川争奪を知る26 巨智部忠承のカラー「花島村近傍地質図」掲載
ページ「断層論文」に、巨智部忠承のカラー図葉「花島村近傍地質図」と関連記述を掲載しましたので報告します。
20万分の1地質図幅「千葉」の説明書「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)に掲載されているものです。
次に、この花島村近傍地質図を拡大して表示します。
安政地震劈裂線、地水滲漏線、断層線が描かれていて、巨智部忠承が現場で見つけた情報と断層に対する考えを具体的に知ることができます。
図中の断層線は記述文章から「平坦地層一部の陥落」(天戸村の崖地に於いて第三紀層及び第四紀層の露出あり。東面に斜下すること凡そ拾度にして層向南北なり。)を示しています。
丙丁断面図の水流の下にf記号が描いてある通り、河道の下に断層本体を想定しているものと読み取れます。
まさに花見川河川争奪発生ポイントそのものにおける情報であり、3つの素材の空間位置が現在でも正確に特定できます。
124年前の情報ではありますが、河川争奪成因検討において何らかの参考になる可能性が濃厚です。
花見川河川争奪成因検討の断層説でこの情報を詳しく検討したいと思います。
ページ「断層論文」に、巨智部忠承のカラー図葉「花島村近傍地質図」と関連記述を掲載しましたので報告します。
20万分の1地質図幅「千葉」の説明書「千葉図幅地質説明書」(明治21年、農商務省地質調査所、巨智部忠承 述)に掲載されているものです。
次に、この花島村近傍地質図を拡大して表示します。
安政地震劈裂線、地水滲漏線、断層線が描かれていて、巨智部忠承が現場で見つけた情報と断層に対する考えを具体的に知ることができます。
図中の断層線は記述文章から「平坦地層一部の陥落」(天戸村の崖地に於いて第三紀層及び第四紀層の露出あり。東面に斜下すること凡そ拾度にして層向南北なり。)を示しています。
丙丁断面図の水流の下にf記号が描いてある通り、河道の下に断層本体を想定しているものと読み取れます。
まさに花見川河川争奪発生ポイントそのものにおける情報であり、3つの素材の空間位置が現在でも正確に特定できます。
124年前の情報ではありますが、河川争奪成因検討において何らかの参考になる可能性が濃厚です。
花見川河川争奪成因検討の断層説でこの情報を詳しく検討したいと思います。
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