花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.265 学習 蝦夷戦争時代区分の萱田遺跡群との対応
2016.01.09記事「学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分」で下総国からみた蝦夷戦争時代区分を鳴神山遺跡竪穴住居消長に当てはめてみました。
その結果により鳴神山遺跡竪穴住居消長の意味を生き生きと捉えることができました。
早速同じことを昨年検討した萱田遺跡群に当てはめてみました。萱田遺跡群は鳴神山遺跡と同様に軍事兵站基地と考えてきています。
萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分
下総国からみて蝦夷戦争の動員が激化したのは774年頃から805年頃と考えますから発掘調査報告書の時期区分のうち2期(8世紀後半)と3期(9世紀初頭)を蝦夷戦争時代に対応させました。
この図を見ると、蝦夷戦争準備時代・蝦夷戦争時代に竪穴住居が存在していたのは白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡であり、かつ各遺跡の全ゾーンではありません。
権現後遺跡は動員解除・戦後時代に新たに開発されたと考えることができます。
これまで萱田遺跡群の検討では遺跡全体を蝦夷戦争の軍事兵站・輸送基地と見立てて検討してきましたが、そのようなイメージを大幅に修正しなければならないようです。
萱田遺跡群全体を見ると、8世紀に入り新たに開発が始まり、蝦夷戦争準備時代に竪穴住居数が増大し、蝦夷戦争時代には竪穴住居数が減少し、動員解除・戦後時代になると新たに開発されるゾーンが生まれ竪穴住居が増加します。そして4b期(9世紀前半)をピークにその後減少に転じ、10世紀初頭までにはほとんど消滅します。
そのパターンは鳴神山遺跡と軌を一にしています。
参考 鳴神山遺跡竪穴住居の消長と蝦夷戦争時代区分
鳴神山遺跡検討後周辺遺跡の検討を行い、その後再度萱田遺跡群詳細検討にチャレンジして、萱田遺跡群の認識を深める予定です。
白幡前遺跡の周溝を張り巡らせた古代寺院が9世紀前半には破壊されていた理由とか、同じく白幡前遺跡に馬と人が一緒に捨てられた土坑が出土していて争いの跡があるなどの発掘事象の意味が、時代背景を考えると判ってくるような気がしていますので、萱田遺跡群詳細再検討が楽しみです。
2016年1月11日月曜日
2016年1月10日日曜日
地名「犢橋(コテハシ)」の語源 深考
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.264 地名「犢橋(コテハシ)」の語源 深考
前後記事と関係しませんが、地名「犢橋(コテハシ)」の語源について深考します。
2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」である程度説得力のある犢橋の語源の説明ができたと、これまで考えていました。
参考までに再掲します。
……………………………………………………………………
再掲 「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.75 地名「犢橋(コテハシ)」の語源
上ノ台遺跡の牛骨出土情報に端を発し、延喜式記載浮島牛牧と関連付けて、上ノ台遺跡のメイン生業として牛牧を想定しました。
さらにその情報に基づいて、その場所の地名「幕張(マクハリ)」の語源は「牧懇(マキハリ)」であるとする考察を行いました。
そうした経緯の中で、前から気になっていた難読地名「犢橋(コテハシ)」の語源が、「幕張(マクハリ)」と同じように古代の牛牧に関連するものであるとする思考が、自然に、スッと生れましたので、記録しておきます。
次に「参考図 近世犢橋村境界と関連地物」を掲載しておきます。
参考図 近世犢橋村境界と関連地物
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)、水系は現代水系
「犢橋(コテハシ)」の語源は「特牛(コトイ)階(ハシ)」であると考えました。
特牛(コトイ)とは次の様に説明されています。
ことい【特牛】 コトヒ
(コト(殊)オヒ(負)の約かという)「こといのうし」「こというし」の略。夫木和歌抄(33)「やまと—のかけずまひする」
『広辞苑 第六版』 岩波書店
ことい‐うし ことひ‥【特牛】
〖名〗 (古く「こというじ」とも) 強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。こって。こってい。こってうし。こっていうし。こっとい。ことい。こといのうし。
※俳諧・玉海集(1656)一「たかやすは象とや見まし特うし〈良利〉」
※万葉(8C後)一六・三八三八「わぎもこが額に生ふる双六の事負乃牛(ことひノうし)の鞍の上の瘡(かさ)」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
以上の説明から、「コテ」とは、ことおい→ことい→こって→こてと音が変化してきたことばで、強健な牡牛の意味であることがわかりました。
古代では、牛は兵器に準じるような軍事的重要性があり、もっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために兵部省が官牧で繁殖につとめていました。(2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照)
コテ(特牛)とはその軍需品(現代風にいえば軍用トラック)としての駄用牛そのものだと思います。
階(ハシ)とは次のように説明されています。
はし【階・梯】
〖名〗
① (階) 庭から屋内に上る通路として設ける階段。きざはし。きだはし。あがりだん。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※古今著聞集(1254)五「式部はしのかたをみいだしてゐたりけるに」
② (梯) はしご。かけはし。
※書紀(720)垂仁八七年二月(熱田本訓)「神庫(ほくら)高しと雖も我能く神庫の為に梯(ハシ)を造(たて)る」
※大鏡(12C前)二「もののすすけてみゆるところの有ければ、はしにのぼりてみるに」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
つまりあがり階段のことです。
コテハシ=「特牛(コトイ)階(ハシ)」とは、浮島牛牧で生産した軍需品としての強健な駄用牡牛を戦地(陸奥国)方面に運ぶために、花見川谷底から台地面にあがる(のぼる)場所を意味したのだと考えます。
花見川谷底は犢橋付近から急に狭くなり、そこは化灯土が堆積する低湿地です。その場所を牛が歩くことが困難であったのだと思います。
そのため犢橋付近で牛を台地に引き上げた場所があり、その場所を「特牛(コテ)階(ハシ)」と呼んで、その場所の地名が生れたのだと考えます。
牛を台地に引き上げる場所に地名が生まれる程ですから、長期にわたり継続的に牛がこの場所を通過したのだと思います。
また、地名に残るのですから、牛を台地の上にのぼらせることが一苦労だったのだと思います。牛輸送(といっても牛を歩かせて移動させる)の難所の一つが犢橋だったのだと思います。
牛は犢橋で台地にのぼり、そこから高津まで歩き、高津で船に載せられたのか、あるいは台地上を北東に向かって歩いたのか、その行程は今後の検討課題とします。
なお、「犢」という漢字の読みは「トク」であり「コテ」とは読みません。またその意味は「子牛」であり「強健な牡牛」ではありません。しかし、漢字は牛偏であり、牛に関する言葉です。
コテハシが浮島牛牧で生産した強健な牡牛を台地に引き上げる場所という語源にも関わらず、「犢橋」という漢字が当てられた経緯を次のように想像します。
1 「特牛(コトイ)階(ハシ)」が転じてコテハシという地名が生まれる。音としての地名であり、漢字が充てられていなかった。【古代、牛牧が存在していた時代】
牛牧の時代が終わっても、コテハシという音の地名は伝世するが、その正確な意味は忘れられる。
2 土地開発等のために、コテハシという地名に当て字を充てる必要が生じる。【中近世】
その際、この場所が牛に関わる土地であるというかすかな伝承が社会に伝わっていた。
当て字を考えた人々は、コテは焼きごてのコテであり、焼きごてで牛に印を押す場合、それは必ず子牛であるから、コテからイメージする牛とは子牛のことであると考えた。
子牛は、漢字で書けば「犢」であるから、「犢」の読み「トク」とは異なるが、強引にその漢字を充てた。
また、小手(小さい手)という漢字からも子牛をイメージできる。
ハシは「子牛が花見川を渡る」というイメージから「橋」を充てた。
結果として、当て字「犢橋」が生れた。
前後記事と関係しませんが、地名「犢橋(コテハシ)」の語源について深考します。
2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」である程度説得力のある犢橋の語源の説明ができたと、これまで考えていました。
参考までに再掲します。
……………………………………………………………………
再掲 「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.75 地名「犢橋(コテハシ)」の語源
上ノ台遺跡の牛骨出土情報に端を発し、延喜式記載浮島牛牧と関連付けて、上ノ台遺跡のメイン生業として牛牧を想定しました。
さらにその情報に基づいて、その場所の地名「幕張(マクハリ)」の語源は「牧懇(マキハリ)」であるとする考察を行いました。
そうした経緯の中で、前から気になっていた難読地名「犢橋(コテハシ)」の語源が、「幕張(マクハリ)」と同じように古代の牛牧に関連するものであるとする思考が、自然に、スッと生れましたので、記録しておきます。
次に「参考図 近世犢橋村境界と関連地物」を掲載しておきます。
参考図 近世犢橋村境界と関連地物
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)、水系は現代水系
「犢橋(コテハシ)」の語源は「特牛(コトイ)階(ハシ)」であると考えました。
特牛(コトイ)とは次の様に説明されています。
ことい【特牛】 コトヒ
(コト(殊)オヒ(負)の約かという)「こといのうし」「こというし」の略。夫木和歌抄(33)「やまと—のかけずまひする」
『広辞苑 第六版』 岩波書店
ことい‐うし ことひ‥【特牛】
〖名〗 (古く「こというじ」とも) 強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。こって。こってい。こってうし。こっていうし。こっとい。ことい。こといのうし。
※俳諧・玉海集(1656)一「たかやすは象とや見まし特うし〈良利〉」
※万葉(8C後)一六・三八三八「わぎもこが額に生ふる双六の事負乃牛(ことひノうし)の鞍の上の瘡(かさ)」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
以上の説明から、「コテ」とは、ことおい→ことい→こって→こてと音が変化してきたことばで、強健な牡牛の意味であることがわかりました。
古代では、牛は兵器に準じるような軍事的重要性があり、もっぱら駄用として、主として戦時の物資輸送に備えるために兵部省が官牧で繁殖につとめていました。(2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照)
コテ(特牛)とはその軍需品(現代風にいえば軍用トラック)としての駄用牛そのものだと思います。
階(ハシ)とは次のように説明されています。
はし【階・梯】
〖名〗
① (階) 庭から屋内に上る通路として設ける階段。きざはし。きだはし。あがりだん。〔十巻本和名抄(934頃)〕
※古今著聞集(1254)五「式部はしのかたをみいだしてゐたりけるに」
② (梯) はしご。かけはし。
※書紀(720)垂仁八七年二月(熱田本訓)「神庫(ほくら)高しと雖も我能く神庫の為に梯(ハシ)を造(たて)る」
※大鏡(12C前)二「もののすすけてみゆるところの有ければ、はしにのぼりてみるに」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
つまりあがり階段のことです。
コテハシ=「特牛(コトイ)階(ハシ)」とは、浮島牛牧で生産した軍需品としての強健な駄用牡牛を戦地(陸奥国)方面に運ぶために、花見川谷底から台地面にあがる(のぼる)場所を意味したのだと考えます。
花見川谷底は犢橋付近から急に狭くなり、そこは化灯土が堆積する低湿地です。その場所を牛が歩くことが困難であったのだと思います。
そのため犢橋付近で牛を台地に引き上げた場所があり、その場所を「特牛(コテ)階(ハシ)」と呼んで、その場所の地名が生れたのだと考えます。
牛を台地に引き上げる場所に地名が生まれる程ですから、長期にわたり継続的に牛がこの場所を通過したのだと思います。
また、地名に残るのですから、牛を台地の上にのぼらせることが一苦労だったのだと思います。牛輸送(といっても牛を歩かせて移動させる)の難所の一つが犢橋だったのだと思います。
牛は犢橋で台地にのぼり、そこから高津まで歩き、高津で船に載せられたのか、あるいは台地上を北東に向かって歩いたのか、その行程は今後の検討課題とします。
なお、「犢」という漢字の読みは「トク」であり「コテ」とは読みません。またその意味は「子牛」であり「強健な牡牛」ではありません。しかし、漢字は牛偏であり、牛に関する言葉です。
コテハシが浮島牛牧で生産した強健な牡牛を台地に引き上げる場所という語源にも関わらず、「犢橋」という漢字が当てられた経緯を次のように想像します。
1 「特牛(コトイ)階(ハシ)」が転じてコテハシという地名が生まれる。音としての地名であり、漢字が充てられていなかった。【古代、牛牧が存在していた時代】
牛牧の時代が終わっても、コテハシという音の地名は伝世するが、その正確な意味は忘れられる。
2 土地開発等のために、コテハシという地名に当て字を充てる必要が生じる。【中近世】
その際、この場所が牛に関わる土地であるというかすかな伝承が社会に伝わっていた。
当て字を考えた人々は、コテは焼きごてのコテであり、焼きごてで牛に印を押す場合、それは必ず子牛であるから、コテからイメージする牛とは子牛のことであると考えた。
子牛は、漢字で書けば「犢」であるから、「犢」の読み「トク」とは異なるが、強引にその漢字を充てた。
また、小手(小さい手)という漢字からも子牛をイメージできる。
ハシは「子牛が花見川を渡る」というイメージから「橋」を充てた。
結果として、当て字「犢橋」が生れた。
……………………………………………………………………
さて、2015.12.30記事「鳴神山遺跡直線道路検討メモ」で鳴神山遺跡直線道路が大結馬牧・高津馬牧・浮島牛牧の牛馬搬送用専用道路である可能性を検討しました。
この検討で、結果として、浮島牛牧の牛(特牛…軍用駄用牛)の陸奥国方面への搬送ルートのイメージがある程度明瞭になりました。
その結果は次のようにイメージしています。
蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
直線道路始点のイメージ(牛馬搬送)
2015.02.27記事で考えた、浮島牛牧の特牛を花見川低地から犢橋村で台地に上げ、船越経由で陸奥国方面へ搬送する必然性は全くないことが判明しました。
浮島牛牧の特牛は牛牧から直接台地の上にあげ、そのまま高津馬牧経由で陸路香取の海方面へ向かえばよいのです。
したがって、難読地名「犢橋」の語源については別の考えを構築する必要があります。
新たな考えは次の図に示したようにまとめることができました。
自分の感想は以前の仮説より、より確からしさが増したと感じます。
地名「犢橋(コテハシ)」の語源 深考
東海道水運支路が通っていた時代(奈良時代)、特牛(コトイ)が船越陸路の駄用として使われていたと考えます。
陸路と異なり、水運では多量の物資を運搬することができます。
しかし、東京湾から香取の海に抜ける場合、どうしても船越(短区間陸路)を越さなければなりません。
その船越で活躍したのが特牛(コトイ)であったと考えます。
特牛があたかも水運路と水運路の間の陸路に橋を架けたような運搬ルートイメージを当時の人が持って、船越を「コテハシ(特牛橋)」と呼んだのだと思います。
後世に特牛(コトイ)の管理に関係した村を「コテハシ」と呼び、その当て字を「犢橋」としたのだとおもいます。
犢橋の橋は花見川と平戸川(新川)を結ぶ橋(橋梁)の意味であると考えます。
当て字「犢」が子牛を意味するのに、強引に「コテ」と読ませた理由は2015.02.27記事で書いた通りです。
なお、コトイ、コッテ、コテという言葉が中近世にはこの地方では使われていなかったことがわかります。
コトイ、コッテ、コテという言葉は主に西日本で使われる用語ですから、奈良時代の浮島牛牧や下総台地で特牛を扱っていた集団は西日本から来訪した外来集団で、その集団は去り(あるいは滅亡し)、中近世のこの土地の人々とは接点が無かったと想像します。
2016年1月9日土曜日
学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.263 学習 蝦夷戦争の経緯と時代区分
蝦夷戦争の経緯を「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から抜き書きして、それに基づいて、下総国にとっての時代区分をしてみました。
その結果を次に示します。
蝦夷戦争の経緯(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)抜き書き)と時代区分
下総国から見た時代区分は次の3つに設定することができると考えました。
1 蝦夷戦争準備時代
蝦夷征夷と陸奥国移住が積極的に行われていた、古墳時代から8世紀第3四半期までの時代です。
2 蝦夷戦争時代
蝦夷戦争による動員が激化した時代で、774年から805年までの期間です。8世紀第4四半期がほぼその期間に対応しますが、9世紀第1四半期にもかかっています。
3 動員解除・戦後時代
下総国から見て、蝦夷戦争動員が解除され、戦後となった時代です。805年以降です。
この時代区分を2016.01.06記事「鳴神山遺跡竪穴住居消長」で作成したグラフに当てはめみました。
●鳴神山遺跡竪穴住居の消長
鳴神山遺跡竪穴住居の消長と時代区分
鳴神山遺跡では蝦夷戦争準備時代の8世紀第1四半期から集落が形成され、8世紀第3四半期まで竪穴住居軒数が増大します。
蝦夷戦争兵站基地として律令国家が建設していった様子が表現されていると考えます。
蝦夷戦争時代(8世紀第4四半期)には竪穴住居軒数が若干減少します。この現象は蝦夷戦争の物資・人員動員が激しさを増し、集落が疲弊したためであると考えます。
動員解除・戦後時代では9世紀第1四半期と第2四半期で竪穴住居が増加・急増します。戦争動員解除により兵站基地が民間払い下げのような状況となり、経済発展したものと考えます。
その後経済発展を継続できない要因が生まれて竪穴住居は減少・急減して10世紀第1四半期には集落として消滅状況になります。
●鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合
鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合と時代区分
蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代では竪穴住居の南北割合に大きな変動がみられません。
ところが動員解除・戦後時代になると9世紀第1四半期~第3四半期の期間直線道路北の部分の竪穴住居割合が増大します。集落開発が特に直線道路北で進んだことが判ります。その後、9世紀第4四半期になると直線道路北の割合が減少します。
動員解除・戦後時代の集落成長期と衰退期ともに直線道路北側が大きな役割を果たしているように見ることができます。
●鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況
鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況と時代区分
A:蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の差分を見ると、その差は小さいものです。
蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化はなかったと推察できます。
B:蝦夷戦争時代と動員解除・戦後時代の差分を見ると、その差は増分・減分ともに大きなものとなっています。
蝦夷戦争時代が終わり、多くの竪穴住居が廃棄され、一方それ以上に多い竪穴住居が新設されたことを示しています。
鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化があったと推察されます。
兵站基地として戦争に直結する活動をしていた多くの人々が集落から去り、一方それ以上に多くの人々が経済活動のために集落に流入したことを示していると考えます。
鳴神山遺跡が軍事基地として機能していた状況から、民間に払い下げられたような状況になり、戦争動員の圧力から解放されて、経済が急成長した状況があったと考えます。
9世紀第2四半期をピークに9世紀第3四半期以降、鳴神山遺跡は衰退・凋落します。衰退・凋落はそれまで存在していなかった新たな要因が発生し、その要因に集落が対応できなかったからだと考えます。
(新たな要因として権力の空白…治安の悪化をその主なものとして仮説・イメージしています。)
以上の学習で鳴神山遺跡を蝦夷戦争との関連で大きく3つの時代に区分できることが判りました。
この時代区分に基づいて、遺物分布図を作成し直して、鳴神山遺跡の特性(機能・役割)変化をより詳細に検討することにします。
つづく
蝦夷戦争の経緯を「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から抜き書きして、それに基づいて、下総国にとっての時代区分をしてみました。
その結果を次に示します。
蝦夷戦争の経緯(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)抜き書き)と時代区分
下総国から見た時代区分は次の3つに設定することができると考えました。
1 蝦夷戦争準備時代
蝦夷征夷と陸奥国移住が積極的に行われていた、古墳時代から8世紀第3四半期までの時代です。
2 蝦夷戦争時代
蝦夷戦争による動員が激化した時代で、774年から805年までの期間です。8世紀第4四半期がほぼその期間に対応しますが、9世紀第1四半期にもかかっています。
3 動員解除・戦後時代
下総国から見て、蝦夷戦争動員が解除され、戦後となった時代です。805年以降です。
この時代区分を2016.01.06記事「鳴神山遺跡竪穴住居消長」で作成したグラフに当てはめみました。
●鳴神山遺跡竪穴住居の消長
鳴神山遺跡竪穴住居の消長と時代区分
鳴神山遺跡では蝦夷戦争準備時代の8世紀第1四半期から集落が形成され、8世紀第3四半期まで竪穴住居軒数が増大します。
蝦夷戦争兵站基地として律令国家が建設していった様子が表現されていると考えます。
蝦夷戦争時代(8世紀第4四半期)には竪穴住居軒数が若干減少します。この現象は蝦夷戦争の物資・人員動員が激しさを増し、集落が疲弊したためであると考えます。
動員解除・戦後時代では9世紀第1四半期と第2四半期で竪穴住居が増加・急増します。戦争動員解除により兵站基地が民間払い下げのような状況となり、経済発展したものと考えます。
その後経済発展を継続できない要因が生まれて竪穴住居は減少・急減して10世紀第1四半期には集落として消滅状況になります。
●鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合
鳴神山遺跡竪穴住居の直線道路南北の割合と時代区分
蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代では竪穴住居の南北割合に大きな変動がみられません。
ところが動員解除・戦後時代になると9世紀第1四半期~第3四半期の期間直線道路北の部分の竪穴住居割合が増大します。集落開発が特に直線道路北で進んだことが判ります。その後、9世紀第4四半期になると直線道路北の割合が減少します。
動員解除・戦後時代の集落成長期と衰退期ともに直線道路北側が大きな役割を果たしているように見ることができます。
●鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況
鳴神山遺跡竪穴住居年代差分の状況と時代区分
A:蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の差分を見ると、その差は小さいものです。
蝦夷戦争準備時代と蝦夷戦争時代の鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化はなかったと推察できます。
B:蝦夷戦争時代と動員解除・戦後時代の差分を見ると、その差は増分・減分ともに大きなものとなっています。
蝦夷戦争時代が終わり、多くの竪穴住居が廃棄され、一方それ以上に多い竪穴住居が新設されたことを示しています。
鳴神山遺跡の特性(機能・役割)に大きな変化があったと推察されます。
兵站基地として戦争に直結する活動をしていた多くの人々が集落から去り、一方それ以上に多くの人々が経済活動のために集落に流入したことを示していると考えます。
鳴神山遺跡が軍事基地として機能していた状況から、民間に払い下げられたような状況になり、戦争動員の圧力から解放されて、経済が急成長した状況があったと考えます。
9世紀第2四半期をピークに9世紀第3四半期以降、鳴神山遺跡は衰退・凋落します。衰退・凋落はそれまで存在していなかった新たな要因が発生し、その要因に集落が対応できなかったからだと考えます。
(新たな要因として権力の空白…治安の悪化をその主なものとして仮説・イメージしています。)
以上の学習で鳴神山遺跡を蝦夷戦争との関連で大きく3つの時代に区分できることが判りました。
この時代区分に基づいて、遺物分布図を作成し直して、鳴神山遺跡の特性(機能・役割)変化をより詳細に検討することにします。
つづく
2016年1月8日金曜日
鳴神山遺跡直線道路遺構と地割
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.262 鳴神山遺跡直線道路遺構と地割
鳴神山遺跡の出土した直線道路遺構は直線地割と対応しています。
鳴神山遺跡直線道路に対応する地割線と地形模様
鳴神山遺跡 直線道路遺構と地割線
畑の大部分で直線道路遺構と未発掘の遺構推定部が直線地割と対応します。
直線道路遺構が地割と対応するということは、道路が使われていたときにその付近の土地が開発されていて土地所有・権利関係が道路を境にして存在していたことを示します。
一言でいえば、道路が作られたときから現在まで土地所有・権利関係の境界が伝わってきているということです。
なお、樹林地部は線形模様が確認できます。これが地割に対応している可能性は濃厚ですが確認できません。また、畑地の部分で直線道路遺構と地割が無関係になっている部分もあります。
次に、鳴神山遺跡の西隣に位置の台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
昭和60年撮影空中写真
直線道路の存在が推定される線形と地割が対応する部分がありません。
この部分は道路が作られ利用されていた時期にまだ未開発の原野で、土地所有・権利関係がうまれていなかったものと推定します。
道路が廃棄された後の中・近世のある時期に初めて開発され、その時土地所有・権利関係が生まれ、それは当然道路線形とは無関係だったのです。
次に、鳴神山遺跡の東隣に位置する台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
直線道路延伸部の線形模様と現代幹線道路線形一致の様子
東隣台地は千葉ニュータウン開発前は樹林地が多く、地割線が見える場所は少なく、直線道路が推定される場所にそれと対応する地割線を見つけることができません。
しかし、千葉ニュータウンの幹線道路が直線道路延伸部の線形模様とほぼ完全に一致する部分があります。
樹林であるため地割線は確認できないのですが、実際は線形模様に対応する地割が存在し、その直線状の地割を土地買収の手がかりにして千葉ニュータウン開発が行われたと考えます。
千葉ニュータウン幹線道路線形が結果的に古代直線道路線形と一致したのだと思います。
そうではなく、単なる偶然の一致であるという考えもありうるかもしれませんが、偶然の一致とすると、それがあまりにも強烈であり、とても首肯できるものではありません。
千葉ニュータウン開発前の地割図が存在すれば、答えは出ると思います。
東隣の台地は樹林下に直線道路に対応した地割が隠されていると考えますので、この部分では直線道路が使われていたころ、既に開発されていて、土地所有・権利関係がすでに発生していたと考えます。
結論として、8世紀頃、鳴神山遺跡の西隣の台地は未開発地、鳴神山遺跡は開発地、鳴神山遺跡の東隣の台地は開発地であったということが判りました。
鳴神山遺跡の出土した直線道路遺構は直線地割と対応しています。
鳴神山遺跡直線道路に対応する地割線と地形模様
鳴神山遺跡 直線道路遺構と地割線
畑の大部分で直線道路遺構と未発掘の遺構推定部が直線地割と対応します。
直線道路遺構が地割と対応するということは、道路が使われていたときにその付近の土地が開発されていて土地所有・権利関係が道路を境にして存在していたことを示します。
一言でいえば、道路が作られたときから現在まで土地所有・権利関係の境界が伝わってきているということです。
なお、樹林地部は線形模様が確認できます。これが地割に対応している可能性は濃厚ですが確認できません。また、畑地の部分で直線道路遺構と地割が無関係になっている部分もあります。
次に、鳴神山遺跡の西隣に位置の台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
昭和60年撮影空中写真
直線道路の存在が推定される線形と地割が対応する部分がありません。
この部分は道路が作られ利用されていた時期にまだ未開発の原野で、土地所有・権利関係がうまれていなかったものと推定します。
道路が廃棄された後の中・近世のある時期に初めて開発され、その時土地所有・権利関係が生まれ、それは当然道路線形とは無関係だったのです。
次に、鳴神山遺跡の東隣に位置する台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
直線道路延伸部の線形模様と現代幹線道路線形一致の様子
東隣台地は千葉ニュータウン開発前は樹林地が多く、地割線が見える場所は少なく、直線道路が推定される場所にそれと対応する地割線を見つけることができません。
しかし、千葉ニュータウンの幹線道路が直線道路延伸部の線形模様とほぼ完全に一致する部分があります。
樹林であるため地割線は確認できないのですが、実際は線形模様に対応する地割が存在し、その直線状の地割を土地買収の手がかりにして千葉ニュータウン開発が行われたと考えます。
千葉ニュータウン幹線道路線形が結果的に古代直線道路線形と一致したのだと思います。
そうではなく、単なる偶然の一致であるという考えもありうるかもしれませんが、偶然の一致とすると、それがあまりにも強烈であり、とても首肯できるものではありません。
千葉ニュータウン開発前の地割図が存在すれば、答えは出ると思います。
東隣の台地は樹林下に直線道路に対応した地割が隠されていると考えますので、この部分では直線道路が使われていたころ、既に開発されていて、土地所有・権利関係がすでに発生していたと考えます。
結論として、8世紀頃、鳴神山遺跡の西隣の台地は未開発地、鳴神山遺跡は開発地、鳴神山遺跡の東隣の台地は開発地であったということが判りました。
2016年1月7日木曜日
大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.261 大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説
空想的直観的に気が付いた仮説をそのまま頭脳の中で温めておいても、何も生まれませんが、ひとたび記事に書くと、その仮説を調べざるを得なくなり、その仮説が100%生きることは少ないにしても、何らかの新知見を得ることができます。
ブログ記事を書いていて、この点は強く実感しているところです。
ブログ記事は大げさに言えば全世界に向かって公表してしまったものですから、仮説がどの程度正しいか、どの程度間違っているか、その後私自身に生じる感想は正直に記事にせざるを得ません。仮説の真偽を検証する責任が生まれます。
つまり、ブログ記事に書くことによって、仮説検証行動が活動の仕組みの中で担保されることになります。
さて、新年の気分がまだ残っていて、気持ちがいつもより大きくなっていますので、最近気になっている超仮説を記事にしてしまいます。
この超仮説の中の何割かが正しければ大いにうれしいことになりますし、間違っていることが判った事項があれば、それはそれで大いに自分の学習が進展します。
大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説
超仮説の骨子
1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。
2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。
3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。
4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。
5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。
1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。
「大」集団が各地で馬牧を開設し、それらを連結して運用したので、その全体を大結(おおゆい)馬牧と呼んだと考えます。
各地馬牧の連結は馬(軍馬)を陸奥国へ搬送するための専用道路で行い、その道路の一部が鳴神山遺跡で出土した直線道路M004であると考えます。
大結馬牧を構成する馬牧は船橋市夏見付近を本拠地とし、鳴神山遺跡を含め他にもいくつかの馬牧が存在していたと考えます。
超仮説 大結馬牧のイメージ
参考
意富比(おほひ)神社の「おほひ」は「おほゆひ」(大結)の短縮された口語形を表現したものであると考えます。
「おほひ」神社すなわち、「おほゆひ」(大結)神社と考えます。
多数馬牧を連結して総合運用する牧集団「大」の本拠地が東京湾岸の船橋市に存在していたと考えます。
2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。
船橋市夏見の古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土しています。(墨書土器データベースで確認)
鳴神山遺跡から多量の墨書土器文字「大」が出土しています。

船橋市夏見で「大」と墨書した集団と鳴神山遺跡で「大」と墨書した集団は同族の馬牧集団であったと考えます。
3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。
鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面ともつながっていたと考えられることは、1の思考を支持します。

参考 蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。
墨書文字「大」は後世人からみると大結馬牧をイメージできてしまう言葉であるかもしれませんが、言葉の本質は大国主神の意味であると考えます。
大国主神を信奉する集団が馬牧を多数連結して運営したので、その名称が大結馬牧になったのです。
大結馬牧の構成員はあくまで大国主神に祈願する意味で「大」を墨書したと考えます。
大結馬牧の名称から「大」を採って、「大」と墨書した可能性はゼロだと考えます。

参考 鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。
鳴神山遺跡での「大」集団の活動は小字「大野」として定着し、現代まで文字情報として伝わってきています。

空想的直観的に気が付いた仮説をそのまま頭脳の中で温めておいても、何も生まれませんが、ひとたび記事に書くと、その仮説を調べざるを得なくなり、その仮説が100%生きることは少ないにしても、何らかの新知見を得ることができます。
ブログ記事を書いていて、この点は強く実感しているところです。
ブログ記事は大げさに言えば全世界に向かって公表してしまったものですから、仮説がどの程度正しいか、どの程度間違っているか、その後私自身に生じる感想は正直に記事にせざるを得ません。仮説の真偽を検証する責任が生まれます。
つまり、ブログ記事に書くことによって、仮説検証行動が活動の仕組みの中で担保されることになります。
さて、新年の気分がまだ残っていて、気持ちがいつもより大きくなっていますので、最近気になっている超仮説を記事にしてしまいます。
この超仮説の中の何割かが正しければ大いにうれしいことになりますし、間違っていることが判った事項があれば、それはそれで大いに自分の学習が進展します。
大結馬牧と鳴神山遺跡に関する超仮説
超仮説の骨子
1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。
2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。
3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。
4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。
5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。
1 大結馬牧は「大」をスローガンとする牧集団が各地で開設した馬牧群の総称である。
大結馬牧は本拠地船橋市夏見付近の他、いくつかの馬牧から構成され、その構成馬牧の一つが鳴神山遺跡であった。
「大」集団が各地で馬牧を開設し、それらを連結して運用したので、その全体を大結(おおゆい)馬牧と呼んだと考えます。
各地馬牧の連結は馬(軍馬)を陸奥国へ搬送するための専用道路で行い、その道路の一部が鳴神山遺跡で出土した直線道路M004であると考えます。
大結馬牧を構成する馬牧は船橋市夏見付近を本拠地とし、鳴神山遺跡を含め他にもいくつかの馬牧が存在していたと考えます。
超仮説 大結馬牧のイメージ

参考
意富比(おほひ)神社の「おほひ」は「おほゆひ」(大結)の短縮された口語形を表現したものであると考えます。
「おほひ」神社すなわち、「おほゆひ」(大結)神社と考えます。
多数馬牧を連結して総合運用する牧集団「大」の本拠地が東京湾岸の船橋市に存在していたと考えます。
2 船橋市夏見古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土し、鳴神山遺跡からも多量の墨書土器文字「大」が出土していることが1の傍証である。
船橋市夏見の古代遺跡から墨書土器文字「大」が出土しています。(墨書土器データベースで確認)
鳴神山遺跡から多量の墨書土器文字「大」が出土しています。

船橋市夏見で「大」と墨書した集団と鳴神山遺跡で「大」と墨書した集団は同族の馬牧集団であったと考えます。
3 鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面につながっていると考えられることも1を示唆する。
鳴神山遺跡中央部を貫通する直線道路が船橋市夏見方面ともつながっていたと考えられることは、1の思考を支持します。

参考 蝦夷戦争時代の陸奥国への牛馬搬送イメージ
4 「大」は大国主神(大国玉神)の大に由来すると考える。
墨書文字「大」は後世人からみると大結馬牧をイメージできてしまう言葉であるかもしれませんが、言葉の本質は大国主神の意味であると考えます。
大国主神を信奉する集団が馬牧を多数連結して運営したので、その名称が大結馬牧になったのです。
大結馬牧の構成員はあくまで大国主神に祈願する意味で「大」を墨書したと考えます。
大結馬牧の名称から「大」を採って、「大」と墨書した可能性はゼロだと考えます。

参考 鳴神山遺跡出土墨書土器で出現する大国主神と大物主神
5 大結馬牧のスローガン「大」は鳴神山遺跡では地名として定着した。
鳴神山遺跡での「大」集団の活動は小字「大野」として定着し、現代まで文字情報として伝わってきています。

2016年1月6日水曜日
鳴神山遺跡竪穴住居消長
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.260 鳴神山遺跡竪穴住居消長
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しました(*)が、その軒数をカウントしてみました。
*2016.01.05記事「鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その2」
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
鳴神山遺跡竪穴住居の消長を直線道路の南側と北側に分けてグラフ化しました。
鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期まで、8世紀第4四半期を除き竪穴住居軒数は増大し、その後9世紀第2四半期に急増してピークを迎えます。9世紀第3四半期には急減に転じ、9世紀第4四半期には8世紀第1四半期より少なくなります。直線道路北側の軒数もほぼ同じパターンでその数を増減させます。
直線道路北側と南側の割合を詳しく見ると次のようになります。
鳴神山遺跡 竪穴住居の直線道路南北の割合
8世紀第1四半期から8世紀第4四半期まで直線道路北側の割合はほぼ同じような値となっていますが、9世紀第1四半期、9世紀第2四半期と直線道路北側の割合が増加します。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの状況はおそらく直線道路が蝦夷戦争のために活用されていた時期とその意義が失われた最後の時期に対応していると考えます。
9世紀第2四半期の竪穴住居軒数のピークは蝦夷戦争後であり、戦争動員が存在しなかったと考えられる時期であり、直線道路はすでに廃棄埋め立てられています。
鳴神山遺跡集落は8世紀第1四半期から9世紀第2四半期まで、一貫して直線道路北側の方向にその発展域を持っていたと考えます。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの間は、鳴神山遺跡は直線道路が果たしていたであろう機能(東京湾岸の馬牧・牛牧の牛馬の香取の海への搬送)と何らかの連動した状況下にあったと考えます。
少なくとも、鳴神山遺跡集落が直線道路機能の維持管理に無関係であったことはあり得ないと考えます。
鳴神山遺跡集落の直線道路北側に馬牧が存在していて、直線道路機能と連動していたのではないだろうかと考えます(空想します)が、その証拠はいまのところつかんでいません。
2 鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
鳴神山遺跡竪穴住居の年代差分の状況をグラフ化すると次のようになります。
鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて増加分竪穴住居も減少分竪穴住居もその数が増えます。
つまり、この期間に竪穴住居の建て替え(住み替え)[新築と廃棄]が活発であったことがはっきりします。人口流入と流出が活発だったと考えます。鳴神山遺跡集落社会の様相が大きく変化したのだと考えます。
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期の差分データは、蝦夷戦争が大詰めを迎えて直線道路の意義が最高潮に高まった状況と、その後戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となり廃棄された状況の双方を反映していると考えます。
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しました(*)が、その軒数をカウントしてみました。
*2016.01.05記事「鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その2」
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
鳴神山遺跡竪穴住居の消長を直線道路の南側と北側に分けてグラフ化しました。
鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期まで、8世紀第4四半期を除き竪穴住居軒数は増大し、その後9世紀第2四半期に急増してピークを迎えます。9世紀第3四半期には急減に転じ、9世紀第4四半期には8世紀第1四半期より少なくなります。直線道路北側の軒数もほぼ同じパターンでその数を増減させます。
直線道路北側と南側の割合を詳しく見ると次のようになります。
鳴神山遺跡 竪穴住居の直線道路南北の割合
8世紀第1四半期から8世紀第4四半期まで直線道路北側の割合はほぼ同じような値となっていますが、9世紀第1四半期、9世紀第2四半期と直線道路北側の割合が増加します。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの状況はおそらく直線道路が蝦夷戦争のために活用されていた時期とその意義が失われた最後の時期に対応していると考えます。
9世紀第2四半期の竪穴住居軒数のピークは蝦夷戦争後であり、戦争動員が存在しなかったと考えられる時期であり、直線道路はすでに廃棄埋め立てられています。
鳴神山遺跡集落は8世紀第1四半期から9世紀第2四半期まで、一貫して直線道路北側の方向にその発展域を持っていたと考えます。
8世紀第1四半期から9世紀第1四半期までの間は、鳴神山遺跡は直線道路が果たしていたであろう機能(東京湾岸の馬牧・牛牧の牛馬の香取の海への搬送)と何らかの連動した状況下にあったと考えます。
少なくとも、鳴神山遺跡集落が直線道路機能の維持管理に無関係であったことはあり得ないと考えます。
鳴神山遺跡集落の直線道路北側に馬牧が存在していて、直線道路機能と連動していたのではないだろうかと考えます(空想します)が、その証拠はいまのところつかんでいません。
2 鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
鳴神山遺跡竪穴住居の年代差分の状況をグラフ化すると次のようになります。
鳴神山遺跡竪穴住居 年代差分の状況
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて増加分竪穴住居も減少分竪穴住居もその数が増えます。
つまり、この期間に竪穴住居の建て替え(住み替え)[新築と廃棄]が活発であったことがはっきりします。人口流入と流出が活発だったと考えます。鳴神山遺跡集落社会の様相が大きく変化したのだと考えます。
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期の差分データは、蝦夷戦争が大詰めを迎えて直線道路の意義が最高潮に高まった状況と、その後戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となり廃棄された状況の双方を反映していると考えます。
2016年1月5日火曜日
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その2
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.259 鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その2
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しています。
この記事では年代差分情報を作成しましたので、それを紹介しながら竪穴住居の分布変遷の概要を見てみます。
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 8世紀第1四半期の竪穴住居
7世紀の竪穴住居が8世紀以降集落の始源となったとは発掘調査報告書では考えていませんから、8世紀第1四半期の竪穴住居は新たな地域開発でうまれたもので、住民は全て外部からこの地にやってきたと考えることができます。
最初に開発地に居住した人々がどこからやってきたのか、興味があります。
直線道路遺構は8世紀末から9世紀初頭頃廃棄埋め立てられたと考えられていますが、いつ頃開設されたのかはわかっていません。
当面自分の見立てとして鳴神山遺跡が最初に開発された8世紀第1四半期にはすでに直線道路は開通していたと仮説しておきます。
直線道路遺構が竪穴住居を切って作られている場所がないからそのように見立てておきます。
竪穴住居の分布を見ると、感覚的な把握ですが、道路遺構南の2グループの掘立柱建物群(年代不明)の南側と直線道路周辺と遺跡北の掘立柱建物群(年代不明)の南の3か所に分かれているように把握できます。
その3つの竪穴住居分布域が意味をもつものであるか、今後出土物から検討します。
2 8世紀第2四半期の竪穴住居
8世紀第1四半期から第2四半期にかけて主に直線道路遺構南側で竪穴住居が増加します。
増加した竪穴住居が掘立柱建物群の近くですから、この頃掘立柱建物群が作られ始まったのかもしれません。
直線道路南側の2つの掘立柱建物群が直線道路と関係するのかしないのか、興味が生まれます。
3 8世紀第3四半期の竪穴住居
8世紀第2四半期から第3四半期にかけて竪穴住居が急激に増加します。
直線道路の南側だけだなく北側でも竪穴住居が増加します。
8世紀第2四半期から減少する竪穴住居は直線道路南側に限られ、その分布の様子から、建て替えのような印象を受けます。
鳴神山遺跡の開発は直線道路の南側が先行し、北側は遅れて進んだことがわかります。
4 8世紀第4四半期の竪穴住居
8世紀第3四半期から第4四半期にかけて、減少する竪穴住居が増加する竪穴住居を上回り、全体として竪穴住居数が若干減少します。
開発の足どりが停滞したような印象を受けます。
5 9世紀第1四半期の竪穴住居
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて減少する竪穴住居が増えますが、それ以上に増加する竪穴住居が増え、全体として竪穴住居が増加します。
新陳代謝を伴いながら開発が強く進んだ様子を感じます。
また、直線道路沿いに竪穴住居が密集して分布するようになります。
直線道路が蝦夷戦争のための専用牛馬搬送施設であると考えますので、その直線道路の意義が最高潮に高まり、牛馬搬送支援に従事する人々の竪穴住居が増えたと空想します。
そのような空想が的を得ているか、間違っているか、出土遺物から検討してみます。
蝦夷戦争が最高潮に達した9世紀初頭に、戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となったと考えます。
直線道路は陸奥国向け牛馬搬送専用道路であったので、不用となると同時に無用の長物どころか、地域分断という害悪施設となり、直ちに埋め立てられたのだと考えます。
直線道路が地域経済に関わるような機能(一般道路機能)を持っていたならば、直ちに埋め立てられることはなかったのではないかと考えます。
6 9世紀第2四半期の竪穴住居
竪穴住居が増加し、そのピークとなります。特に直線道路北側で竪穴住居が増加します。
この時期に鳴神山遺跡の開発ピークになる理由として、蝦夷戦争に物資や兵員を動員するための兵站基地であった集落が、急に物資や兵員を陸奥国に送らないで済むようになり、生産したものを自ら処分できるようになったことと、それまでに蓄積したインフラや人員・技術を使えたことによると考えます。
直線道路北側で竪穴住居が増加する理由の一つには直線道路を埋め立てて、地域分断となる障害物を除去できたことがあると考えます。
直線道路北側の開発は牧施設ではないかと想像します。本当に牧施設であるのか、出土物から確かめられるか検討します。
ちなみに、直線道路南側の開発は麻栽培-紡績であると考えています。
7 9世紀第3四半期の竪穴住居
減少する竪穴住居が急増して、増加する竪穴住居を上回り、集落は衰退局面になります。
竪穴住居の分布は全体として北側にその重心を移動しているように見えます。
律令国家が国策として、おそらく直営で構築した兵站基地が、戦争終結とともに民に払い下げられ、その物的、人的、技術的蓄積を浪費してしまい、結局成長路線に乗せられないで、衰退していったという印象を受けます。
もともとの地元勢力に地域開発能力が備わっていたわけではなく、律令国家が全国から優秀な官人を動員して、英知と財力・人員・技術を結集して開発した兵站基地ですから、国家が手を引いたら、一時その蓄積を食い尽くせば、零落することは必然だったのだと考えます。
律令国家が東京湾から香取の海まで牛馬搬送専用道路を作るには、高度な構想力・計画力が必要であり、膨大な財力・人力・時間を投入したのですが、蝦夷戦争後、地元勢力は一夜にしてそれを埋め立てしまいました。
地元勢力が、遺産としての直線道路を活用して地域開発を発展させるなどということは、夢のまた夢だったということです。
8 9世紀第4四半期の竪穴住居
集落はつるべ落としで、著しく衰退します。
9 10世紀第1四半期の竪穴住居
開発前の7世紀の状況に戻りました。
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しています。
この記事では年代差分情報を作成しましたので、それを紹介しながら竪穴住居の分布変遷の概要を見てみます。
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 8世紀第1四半期の竪穴住居
7世紀の竪穴住居が8世紀以降集落の始源となったとは発掘調査報告書では考えていませんから、8世紀第1四半期の竪穴住居は新たな地域開発でうまれたもので、住民は全て外部からこの地にやってきたと考えることができます。
最初に開発地に居住した人々がどこからやってきたのか、興味があります。
直線道路遺構は8世紀末から9世紀初頭頃廃棄埋め立てられたと考えられていますが、いつ頃開設されたのかはわかっていません。
当面自分の見立てとして鳴神山遺跡が最初に開発された8世紀第1四半期にはすでに直線道路は開通していたと仮説しておきます。
直線道路遺構が竪穴住居を切って作られている場所がないからそのように見立てておきます。
竪穴住居の分布を見ると、感覚的な把握ですが、道路遺構南の2グループの掘立柱建物群(年代不明)の南側と直線道路周辺と遺跡北の掘立柱建物群(年代不明)の南の3か所に分かれているように把握できます。
その3つの竪穴住居分布域が意味をもつものであるか、今後出土物から検討します。
2 8世紀第2四半期の竪穴住居
8世紀第1四半期から第2四半期にかけて主に直線道路遺構南側で竪穴住居が増加します。
増加した竪穴住居が掘立柱建物群の近くですから、この頃掘立柱建物群が作られ始まったのかもしれません。
直線道路南側の2つの掘立柱建物群が直線道路と関係するのかしないのか、興味が生まれます。
3 8世紀第3四半期の竪穴住居
8世紀第2四半期から第3四半期にかけて竪穴住居が急激に増加します。
直線道路の南側だけだなく北側でも竪穴住居が増加します。
8世紀第2四半期から減少する竪穴住居は直線道路南側に限られ、その分布の様子から、建て替えのような印象を受けます。
鳴神山遺跡の開発は直線道路の南側が先行し、北側は遅れて進んだことがわかります。
4 8世紀第4四半期の竪穴住居
8世紀第3四半期から第4四半期にかけて、減少する竪穴住居が増加する竪穴住居を上回り、全体として竪穴住居数が若干減少します。
開発の足どりが停滞したような印象を受けます。
5 9世紀第1四半期の竪穴住居
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて減少する竪穴住居が増えますが、それ以上に増加する竪穴住居が増え、全体として竪穴住居が増加します。
新陳代謝を伴いながら開発が強く進んだ様子を感じます。
また、直線道路沿いに竪穴住居が密集して分布するようになります。
直線道路が蝦夷戦争のための専用牛馬搬送施設であると考えますので、その直線道路の意義が最高潮に高まり、牛馬搬送支援に従事する人々の竪穴住居が増えたと空想します。
そのような空想が的を得ているか、間違っているか、出土遺物から検討してみます。
蝦夷戦争が最高潮に達した9世紀初頭に、戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となったと考えます。
直線道路は陸奥国向け牛馬搬送専用道路であったので、不用となると同時に無用の長物どころか、地域分断という害悪施設となり、直ちに埋め立てられたのだと考えます。
直線道路が地域経済に関わるような機能(一般道路機能)を持っていたならば、直ちに埋め立てられることはなかったのではないかと考えます。
6 9世紀第2四半期の竪穴住居
竪穴住居が増加し、そのピークとなります。特に直線道路北側で竪穴住居が増加します。
この時期に鳴神山遺跡の開発ピークになる理由として、蝦夷戦争に物資や兵員を動員するための兵站基地であった集落が、急に物資や兵員を陸奥国に送らないで済むようになり、生産したものを自ら処分できるようになったことと、それまでに蓄積したインフラや人員・技術を使えたことによると考えます。
直線道路北側で竪穴住居が増加する理由の一つには直線道路を埋め立てて、地域分断となる障害物を除去できたことがあると考えます。
直線道路北側の開発は牧施設ではないかと想像します。本当に牧施設であるのか、出土物から確かめられるか検討します。
ちなみに、直線道路南側の開発は麻栽培-紡績であると考えています。
7 9世紀第3四半期の竪穴住居
減少する竪穴住居が急増して、増加する竪穴住居を上回り、集落は衰退局面になります。
竪穴住居の分布は全体として北側にその重心を移動しているように見えます。
律令国家が国策として、おそらく直営で構築した兵站基地が、戦争終結とともに民に払い下げられ、その物的、人的、技術的蓄積を浪費してしまい、結局成長路線に乗せられないで、衰退していったという印象を受けます。
もともとの地元勢力に地域開発能力が備わっていたわけではなく、律令国家が全国から優秀な官人を動員して、英知と財力・人員・技術を結集して開発した兵站基地ですから、国家が手を引いたら、一時その蓄積を食い尽くせば、零落することは必然だったのだと考えます。
律令国家が東京湾から香取の海まで牛馬搬送専用道路を作るには、高度な構想力・計画力が必要であり、膨大な財力・人力・時間を投入したのですが、蝦夷戦争後、地元勢力は一夜にしてそれを埋め立てしまいました。
地元勢力が、遺産としての直線道路を活用して地域開発を発展させるなどということは、夢のまた夢だったということです。
8 9世紀第4四半期の竪穴住居
集落はつるべ落としで、著しく衰退します。
9 10世紀第1四半期の竪穴住居
開発前の7世紀の状況に戻りました。
2016年1月4日月曜日
鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その1
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.258 鳴神山遺跡集落と直線道路の関係 その1
鳴神山遺跡の中央に直線道路が走っているのですが、その古代道路と鳴神山遺跡の集落の関係がどのようなものであるか検討したいと思います。
この記事では検討基礎資料として鳴神山遺跡竪穴住居の年代を図化しましたので紹介します。
鳴神山遺跡のど真ん中を横断する直線道路遺構からは8世紀末から9世紀初頭の遺物が出土しているので、その頃直線道路が廃棄されたと考えられます。
直線道路は廃棄後埋め立てられて、その上に廃棄物が捨てられたと発掘調査報告書には書かれています。
蝦夷戦争が収束に向かうのは9世紀初頭ですから、直線道路の廃棄は蝦夷戦争の収束と期を一にしている(ほぼ同時期である)と考えることができます。
このブログでは直線道路は蝦夷戦争のために牛馬を陸奥国へ搬送する専用道路であったと考えていますが、そうであれば、蝦夷戦争終結と同時に直線道路が無用の長物になり、埋め立て廃棄された意味が納得できます。
台地上に大きな溝があっては地域開発が進みませんから、無用の長物になったとたんに埋め立てたのだと考えます。
8世紀末から9世紀初頭の時期を境にして、鳴神山遺跡集落の在り方が決定的に変化したのではないかと想像します。
そのような状況把握を念頭に鳴神山遺跡竪穴住居分布図を年代別に作成してみました。
1 元データ
平成11年発掘調査報告書に掲載されている次のサンプリング竪穴住居183軒を対象に年代別分布図を作成しました。(注 位置を把握できなかった竪穴住居が2軒あり、実際の図化は181軒です。)
主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代
鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用
このデータを年代別グラフにすると次の様になります。
鳴神山遺跡 主な竪穴住居の年代
8世紀末から9世紀初頭頃に直線道路が廃棄埋め立てられ、9世紀初頭に蝦夷戦争が収束に向かったという時期の後、9世紀第2四半期に鳴神山遺跡竪穴住居数のピークが訪れます。
その竪穴住居数ピーク時期である9世紀第2四半期にはすでに直線道路は埋め立てられています。
直線道路という地域分断施設を除去した後に竪穴住居数ピークがあるという事実は注目すべきであると考えます。
2 竪穴住居年代別分布図
鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 1
鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 2
参考 鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図(2秒間隔アニメ)
8世紀第1四半期~8世紀第4四半期までの期間、つまり直線道路が活用されていた時期に、竪穴住居が道路沿いに密に分布することはありません。
遺構密度だけから見ると、直線道路と鳴神山遺跡集落の間に特別強い関係を見ることができません。
9世紀第1四半期~9世紀第3四半期の期間、つまり直線道路が廃棄され埋め立てられ、地域分断施設が除去された後に、直線道路付近の空間の竪穴住居密度が高まります。
戦争動員がなくなって、また邪魔な施設を除去して、地域開発が最も進んだ時期です。
9世紀第4四半期になると鳴神山遺跡は衰退します。
この竪穴住居年代別分布図を参考にして、出土遺物情報も踏まえて、鳴神山遺跡集落と直線道路の関係をさらに検討してみます。
つづく
……………………………………………………………………
2016.01.05追記 アニメの見苦しさ(文字が動いてしまう)を調整しました。
鳴神山遺跡の中央に直線道路が走っているのですが、その古代道路と鳴神山遺跡の集落の関係がどのようなものであるか検討したいと思います。
この記事では検討基礎資料として鳴神山遺跡竪穴住居の年代を図化しましたので紹介します。
鳴神山遺跡のど真ん中を横断する直線道路遺構からは8世紀末から9世紀初頭の遺物が出土しているので、その頃直線道路が廃棄されたと考えられます。
直線道路は廃棄後埋め立てられて、その上に廃棄物が捨てられたと発掘調査報告書には書かれています。
蝦夷戦争が収束に向かうのは9世紀初頭ですから、直線道路の廃棄は蝦夷戦争の収束と期を一にしている(ほぼ同時期である)と考えることができます。
このブログでは直線道路は蝦夷戦争のために牛馬を陸奥国へ搬送する専用道路であったと考えていますが、そうであれば、蝦夷戦争終結と同時に直線道路が無用の長物になり、埋め立て廃棄された意味が納得できます。
台地上に大きな溝があっては地域開発が進みませんから、無用の長物になったとたんに埋め立てたのだと考えます。
8世紀末から9世紀初頭の時期を境にして、鳴神山遺跡集落の在り方が決定的に変化したのではないかと想像します。
そのような状況把握を念頭に鳴神山遺跡竪穴住居分布図を年代別に作成してみました。
1 元データ
平成11年発掘調査報告書に掲載されている次のサンプリング竪穴住居183軒を対象に年代別分布図を作成しました。(注 位置を把握できなかった竪穴住居が2軒あり、実際の図化は181軒です。)
主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代
鳴神山遺跡の主な竪穴住居の時期資料が「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)から引用
このデータを年代別グラフにすると次の様になります。
鳴神山遺跡 主な竪穴住居の年代
8世紀末から9世紀初頭頃に直線道路が廃棄埋め立てられ、9世紀初頭に蝦夷戦争が収束に向かったという時期の後、9世紀第2四半期に鳴神山遺跡竪穴住居数のピークが訪れます。
その竪穴住居数ピーク時期である9世紀第2四半期にはすでに直線道路は埋め立てられています。
直線道路という地域分断施設を除去した後に竪穴住居数ピークがあるという事実は注目すべきであると考えます。
2 竪穴住居年代別分布図
鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 1
鳴神山遺跡 竪穴住居年代別分布図 2
8世紀第1四半期~8世紀第4四半期までの期間、つまり直線道路が活用されていた時期に、竪穴住居が道路沿いに密に分布することはありません。
遺構密度だけから見ると、直線道路と鳴神山遺跡集落の間に特別強い関係を見ることができません。
9世紀第1四半期~9世紀第3四半期の期間、つまり直線道路が廃棄され埋め立てられ、地域分断施設が除去された後に、直線道路付近の空間の竪穴住居密度が高まります。
戦争動員がなくなって、また邪魔な施設を除去して、地域開発が最も進んだ時期です。
9世紀第4四半期になると鳴神山遺跡は衰退します。
この竪穴住居年代別分布図を参考にして、出土遺物情報も踏まえて、鳴神山遺跡集落と直線道路の関係をさらに検討してみます。
つづく
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2016.01.05追記 アニメの見苦しさ(文字が動いてしまう)を調整しました。
2016年1月3日日曜日
趣味活動における「グッド&ニュー」
1 グッド&ニューの記憶
以前職場で毎朝「グッド&ニュー」という朝礼をしていました。
クッシュボールというカラフルでモジャモジャのひげのある幼児用ボール(障害幼児用に開発された玩具らしい)をお手玉のように両手交互に移動させながら、この24時間に自分に生じたグッド(楽しいこと、うれしいことなど)とニュー(初めて気が付いたり、体験したりしたことなど)を一人一人が簡潔に話します。
話の内容は職場内や仕事にかかわることでもよいですし、個人や家庭生活等で生じたことでもよいとしました。
多くの話題はたわいもない、ささいな出来事になります。
道を歩いていたら10円玉を1つ拾った、運が向くかもしれないと思った。
買い物に行ったら、売り切れていると思った品が残っていて、買えたので、うれしくなった。
仕事で、Excelの○○という操作ができることを知って、うれしかった。
…
深刻な問題点とか、批判を含む話題はこの場ではタブーとしました。
グッド&ニューをしてから、通常の当日の簡易な作業打ち合わせをします。
グッド&ニューは参加者全員が楽しみにしていた活動でした。
習慣化すると、硬い頭をほぐし、思考が少しかもしれませんが前向きになることは確実です。いわるゆるアイスブレイクとして有効なものであったとおもいます。
そのような記憶が、ブログ「花見川流域を歩く 番外編」の意義を考えているとき、ふと浮かび上がりました。
2 趣味活動におけるプラス思考の重要性
ブログ「花見川流域を歩く」では趣味の学習研究活動を展開しています。
趣味活動ですから社会活動や職業活動と違って気楽で、ストレスが少ないことは確実です。自分が楽しいことをすればよのです。
しかし、そうは言っても実際には趣味活動にもストレスや問題・課題が生じます。
●自分が素晴らしいと考える仮説を考えた時、その仮説を裏打ちすべき関連知識の所有量の少なさに気が付いた時。
●確信をもって書いた記事の誤りに気が付いた時。
●情報分析や表現のためのツール(パソコンソフト)習熟が思い通りに進まないこと。
これらのストレスを、そのままマイナス事象として捉えてしまっては、趣味活動が成り立ちません。
これらのストレス(自信喪失感などに通じるマイナス思考)を次のように趣味活動エネルギー(活動充実感などに通じるプラス思考)に転換しなければなりません。
●自分が素晴らしいと考える仮説実証のための知識習得が趣味活動の大切な項目として生まれた。その分野の知識習得が自分にとって必然化した。
●間違いに遭遇したので、それは自分の盲点を発見できたことであるので、学習面で新たな飛躍ができるチャンス到来である。
●パソコンソフト操作習熟が思い通りに進まないけれど、過去30年間のパソコン生活で、1つ1つの技術操作は順次解決してきた。過去の懸案事項は全て解決してきたから、今の技術レベルにいると考えることができる。だから、いま抱える懸案事項は1つ1つ分解して小項目にすれば、必ず自分で解決できる。その小項目の解決に意識とパワーを投入すれば、必ず解決できる。
趣味活動といえども、社会・職業世界と同じく、プラス思考が必要なのです。前向きの姿勢でなければ、活動が成り立たないのです。
3 ブログ「花見川流域を歩く 番外編」のグッド&ニューとしての意義
ブログ「花見川流域を歩く 番外編」は特段グッド&ニューとして設置したものではありませんが、今となって考えると、自分が行う個人レベルのグッド&ニューの装置であることに気が付きました。
趣味活動のテーマに沿って検討した事柄や活動にかかわる様々な事項はブログ「花見川流域を歩く」で記事にしていますが、番外編の方は、自分が気に入ったこと、楽しんだこと、解決したことなどを自由気ままに記事にしています。
自分にとってグッドなこととニューなことを意識して記事に書いたことは、自分の思考をえてしてマイナス方向になりがちな傾向をプラス方向に修正していたと感得できます。
番外編ブログの記事を書くたびに、一種の思考浄化機能が作動していたようです。
記事を書くたびにグッド&ニューをしていたことになります。
番外編ブログの活動により自分の趣味活動が多少なりともプラス思考、前向き姿勢になり、活動エネルギーが充実しているのだと気が付きました。
これからは、より意識して番外編ブログを私的「グッド&ニュー」の場として活用することにします。
花見川風景
以前職場で毎朝「グッド&ニュー」という朝礼をしていました。
クッシュボールというカラフルでモジャモジャのひげのある幼児用ボール(障害幼児用に開発された玩具らしい)をお手玉のように両手交互に移動させながら、この24時間に自分に生じたグッド(楽しいこと、うれしいことなど)とニュー(初めて気が付いたり、体験したりしたことなど)を一人一人が簡潔に話します。
話の内容は職場内や仕事にかかわることでもよいですし、個人や家庭生活等で生じたことでもよいとしました。
多くの話題はたわいもない、ささいな出来事になります。
道を歩いていたら10円玉を1つ拾った、運が向くかもしれないと思った。
買い物に行ったら、売り切れていると思った品が残っていて、買えたので、うれしくなった。
仕事で、Excelの○○という操作ができることを知って、うれしかった。
…
深刻な問題点とか、批判を含む話題はこの場ではタブーとしました。
グッド&ニューをしてから、通常の当日の簡易な作業打ち合わせをします。
グッド&ニューは参加者全員が楽しみにしていた活動でした。
習慣化すると、硬い頭をほぐし、思考が少しかもしれませんが前向きになることは確実です。いわるゆるアイスブレイクとして有効なものであったとおもいます。
そのような記憶が、ブログ「花見川流域を歩く 番外編」の意義を考えているとき、ふと浮かび上がりました。
2 趣味活動におけるプラス思考の重要性
ブログ「花見川流域を歩く」では趣味の学習研究活動を展開しています。
趣味活動ですから社会活動や職業活動と違って気楽で、ストレスが少ないことは確実です。自分が楽しいことをすればよのです。
しかし、そうは言っても実際には趣味活動にもストレスや問題・課題が生じます。
●自分が素晴らしいと考える仮説を考えた時、その仮説を裏打ちすべき関連知識の所有量の少なさに気が付いた時。
●確信をもって書いた記事の誤りに気が付いた時。
●情報分析や表現のためのツール(パソコンソフト)習熟が思い通りに進まないこと。
これらのストレスを、そのままマイナス事象として捉えてしまっては、趣味活動が成り立ちません。
これらのストレス(自信喪失感などに通じるマイナス思考)を次のように趣味活動エネルギー(活動充実感などに通じるプラス思考)に転換しなければなりません。
●自分が素晴らしいと考える仮説実証のための知識習得が趣味活動の大切な項目として生まれた。その分野の知識習得が自分にとって必然化した。
●間違いに遭遇したので、それは自分の盲点を発見できたことであるので、学習面で新たな飛躍ができるチャンス到来である。
●パソコンソフト操作習熟が思い通りに進まないけれど、過去30年間のパソコン生活で、1つ1つの技術操作は順次解決してきた。過去の懸案事項は全て解決してきたから、今の技術レベルにいると考えることができる。だから、いま抱える懸案事項は1つ1つ分解して小項目にすれば、必ず自分で解決できる。その小項目の解決に意識とパワーを投入すれば、必ず解決できる。
趣味活動といえども、社会・職業世界と同じく、プラス思考が必要なのです。前向きの姿勢でなければ、活動が成り立たないのです。
3 ブログ「花見川流域を歩く 番外編」のグッド&ニューとしての意義
ブログ「花見川流域を歩く 番外編」は特段グッド&ニューとして設置したものではありませんが、今となって考えると、自分が行う個人レベルのグッド&ニューの装置であることに気が付きました。
趣味活動のテーマに沿って検討した事柄や活動にかかわる様々な事項はブログ「花見川流域を歩く」で記事にしていますが、番外編の方は、自分が気に入ったこと、楽しんだこと、解決したことなどを自由気ままに記事にしています。
自分にとってグッドなこととニューなことを意識して記事に書いたことは、自分の思考をえてしてマイナス方向になりがちな傾向をプラス方向に修正していたと感得できます。
番外編ブログの記事を書くたびに、一種の思考浄化機能が作動していたようです。
記事を書くたびにグッド&ニューをしていたことになります。
番外編ブログの活動により自分の趣味活動が多少なりともプラス思考、前向き姿勢になり、活動エネルギーが充実しているのだと気が付きました。
これからは、より意識して番外編ブログを私的「グッド&ニュー」の場として活用することにします。
花見川風景
2016年1月1日金曜日
2016年 明けましておめでとうございます
2016年 明けましておめでとうございます。
新しい年を迎え、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
このブログも1月15日が開設5周年という特別の通過日を迎えます。掲載した記事も1600本となっています。
ひとえに皆様にこのブログを閲覧していだだき、いろいろなご協力をいただいたおかげです。
あらためて心から感謝申し上げます。
今年も花見川散歩を原点にして、下総台地の歴史考古・地形・地名などについて、興味を深める活動を貪欲に行い、その実況中継をこのブログで行いたいと思います。
今年もこのブログをよろしくお願い申し上げます。
2016年1月1日の花見川散歩 アートモード写真によるアニメ
最初の写真は南の空に見えた月と土星です。ここで5秒静止します。
次の写真から散歩順に1秒間隔で表示します。
2016年1月1日の花見川散歩 普通写真によるアニメ
新しい年を迎え、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
このブログも1月15日が開設5周年という特別の通過日を迎えます。掲載した記事も1600本となっています。
ひとえに皆様にこのブログを閲覧していだだき、いろいろなご協力をいただいたおかげです。
あらためて心から感謝申し上げます。
今年も花見川散歩を原点にして、下総台地の歴史考古・地形・地名などについて、興味を深める活動を貪欲に行い、その実況中継をこのブログで行いたいと思います。
今年もこのブログをよろしくお願い申し上げます。
2016年1月1日の花見川散歩 アートモード写真によるアニメ
最初の写真は南の空に見えた月と土星です。ここで5秒静止します。
次の写真から散歩順に1秒間隔で表示します。
2016年1月1日の花見川散歩 普通写真によるアニメ
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