鳴神山遺跡集落と直線道路の関係を考察するために、竪穴住居の年代別分布図を基礎資料として作成しています。
この記事では年代差分情報を作成しましたので、それを紹介しながら竪穴住居の分布変遷の概要を見てみます。
なお、作成した情報は「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)掲載「主な古墳時代後期から奈良・平安時代竪穴住居年代」(サンプリングした183竪穴住居対象調査)から作成しています。
1 8世紀第1四半期の竪穴住居
7世紀の竪穴住居が8世紀以降集落の始源となったとは発掘調査報告書では考えていませんから、8世紀第1四半期の竪穴住居は新たな地域開発でうまれたもので、住民は全て外部からこの地にやってきたと考えることができます。
最初に開発地に居住した人々がどこからやってきたのか、興味があります。
直線道路遺構は8世紀末から9世紀初頭頃廃棄埋め立てられたと考えられていますが、いつ頃開設されたのかはわかっていません。
当面自分の見立てとして鳴神山遺跡が最初に開発された8世紀第1四半期にはすでに直線道路は開通していたと仮説しておきます。
直線道路遺構が竪穴住居を切って作られている場所がないからそのように見立てておきます。
竪穴住居の分布を見ると、感覚的な把握ですが、道路遺構南の2グループの掘立柱建物群(年代不明)の南側と直線道路周辺と遺跡北の掘立柱建物群(年代不明)の南の3か所に分かれているように把握できます。
その3つの竪穴住居分布域が意味をもつものであるか、今後出土物から検討します。
2 8世紀第2四半期の竪穴住居
8世紀第1四半期から第2四半期にかけて主に直線道路遺構南側で竪穴住居が増加します。
増加した竪穴住居が掘立柱建物群の近くですから、この頃掘立柱建物群が作られ始まったのかもしれません。
直線道路南側の2つの掘立柱建物群が直線道路と関係するのかしないのか、興味が生まれます。
3 8世紀第3四半期の竪穴住居
8世紀第2四半期から第3四半期にかけて竪穴住居が急激に増加します。
直線道路の南側だけだなく北側でも竪穴住居が増加します。
8世紀第2四半期から減少する竪穴住居は直線道路南側に限られ、その分布の様子から、建て替えのような印象を受けます。
鳴神山遺跡の開発は直線道路の南側が先行し、北側は遅れて進んだことがわかります。
4 8世紀第4四半期の竪穴住居
8世紀第3四半期から第4四半期にかけて、減少する竪穴住居が増加する竪穴住居を上回り、全体として竪穴住居数が若干減少します。
開発の足どりが停滞したような印象を受けます。
5 9世紀第1四半期の竪穴住居
8世紀第4四半期から9世紀第1四半期にかけて減少する竪穴住居が増えますが、それ以上に増加する竪穴住居が増え、全体として竪穴住居が増加します。
新陳代謝を伴いながら開発が強く進んだ様子を感じます。
また、直線道路沿いに竪穴住居が密集して分布するようになります。
直線道路が蝦夷戦争のための専用牛馬搬送施設であると考えますので、その直線道路の意義が最高潮に高まり、牛馬搬送支援に従事する人々の竪穴住居が増えたと空想します。
そのような空想が的を得ているか、間違っているか、出土遺物から検討してみます。
蝦夷戦争が最高潮に達した9世紀初頭に、戦争収束の動きが始まり、急速に戦時体制が解かれ、それに対応して直線道路が不用となったと考えます。
直線道路は陸奥国向け牛馬搬送専用道路であったので、不用となると同時に無用の長物どころか、地域分断という害悪施設となり、直ちに埋め立てられたのだと考えます。
直線道路が地域経済に関わるような機能(一般道路機能)を持っていたならば、直ちに埋め立てられることはなかったのではないかと考えます。
6 9世紀第2四半期の竪穴住居
竪穴住居が増加し、そのピークとなります。特に直線道路北側で竪穴住居が増加します。
この時期に鳴神山遺跡の開発ピークになる理由として、蝦夷戦争に物資や兵員を動員するための兵站基地であった集落が、急に物資や兵員を陸奥国に送らないで済むようになり、生産したものを自ら処分できるようになったことと、それまでに蓄積したインフラや人員・技術を使えたことによると考えます。
直線道路北側で竪穴住居が増加する理由の一つには直線道路を埋め立てて、地域分断となる障害物を除去できたことがあると考えます。
直線道路北側の開発は牧施設ではないかと想像します。本当に牧施設であるのか、出土物から確かめられるか検討します。
ちなみに、直線道路南側の開発は麻栽培-紡績であると考えています。
7 9世紀第3四半期の竪穴住居
減少する竪穴住居が急増して、増加する竪穴住居を上回り、集落は衰退局面になります。
竪穴住居の分布は全体として北側にその重心を移動しているように見えます。
律令国家が国策として、おそらく直営で構築した兵站基地が、戦争終結とともに民に払い下げられ、その物的、人的、技術的蓄積を浪費してしまい、結局成長路線に乗せられないで、衰退していったという印象を受けます。
もともとの地元勢力に地域開発能力が備わっていたわけではなく、律令国家が全国から優秀な官人を動員して、英知と財力・人員・技術を結集して開発した兵站基地ですから、国家が手を引いたら、一時その蓄積を食い尽くせば、零落することは必然だったのだと考えます。
律令国家が東京湾から香取の海まで牛馬搬送専用道路を作るには、高度な構想力・計画力が必要であり、膨大な財力・人力・時間を投入したのですが、蝦夷戦争後、地元勢力は一夜にしてそれを埋め立てしまいました。
地元勢力が、遺産としての直線道路を活用して地域開発を発展させるなどということは、夢のまた夢だったということです。
8 9世紀第4四半期の竪穴住居
集落はつるべ落としで、著しく衰退します。
9 10世紀第1四半期の竪穴住居
開発前の7世紀の状況に戻りました。
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