花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.262 鳴神山遺跡直線道路遺構と地割
鳴神山遺跡の出土した直線道路遺構は直線地割と対応しています。
鳴神山遺跡直線道路に対応する地割線と地形模様
鳴神山遺跡 直線道路遺構と地割線
畑の大部分で直線道路遺構と未発掘の遺構推定部が直線地割と対応します。
直線道路遺構が地割と対応するということは、道路が使われていたときにその付近の土地が開発されていて土地所有・権利関係が道路を境にして存在していたことを示します。
一言でいえば、道路が作られたときから現在まで土地所有・権利関係の境界が伝わってきているということです。
なお、樹林地部は線形模様が確認できます。これが地割に対応している可能性は濃厚ですが確認できません。また、畑地の部分で直線道路遺構と地割が無関係になっている部分もあります。
次に、鳴神山遺跡の西隣に位置の台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
昭和60年撮影空中写真
直線道路の存在が推定される線形と地割が対応する部分がありません。
この部分は道路が作られ利用されていた時期にまだ未開発の原野で、土地所有・権利関係がうまれていなかったものと推定します。
道路が廃棄された後の中・近世のある時期に初めて開発され、その時土地所有・権利関係が生まれ、それは当然道路線形とは無関係だったのです。
次に、鳴神山遺跡の東隣に位置する台地の直線道路延伸部について道路と地割の関係を見てみます。
昭和60年撮影空中写真に見える直線道路延伸部の線形模様
直線道路延伸部の線形模様と現代幹線道路線形一致の様子
東隣台地は千葉ニュータウン開発前は樹林地が多く、地割線が見える場所は少なく、直線道路が推定される場所にそれと対応する地割線を見つけることができません。
しかし、千葉ニュータウンの幹線道路が直線道路延伸部の線形模様とほぼ完全に一致する部分があります。
樹林であるため地割線は確認できないのですが、実際は線形模様に対応する地割が存在し、その直線状の地割を土地買収の手がかりにして千葉ニュータウン開発が行われたと考えます。
千葉ニュータウン幹線道路線形が結果的に古代直線道路線形と一致したのだと思います。
そうではなく、単なる偶然の一致であるという考えもありうるかもしれませんが、偶然の一致とすると、それがあまりにも強烈であり、とても首肯できるものではありません。
千葉ニュータウン開発前の地割図が存在すれば、答えは出ると思います。
東隣の台地は樹林下に直線道路に対応した地割が隠されていると考えますので、この部分では直線道路が使われていたころ、既に開発されていて、土地所有・権利関係がすでに発生していたと考えます。
結論として、8世紀頃、鳴神山遺跡の西隣の台地は未開発地、鳴神山遺跡は開発地、鳴神山遺跡の東隣の台地は開発地であったということが判りました。
0 件のコメント:
コメントを投稿