2011年4月17日日曜日

旧軍の悪2

            大正6年時点の軍事施設のプロット

北高津川流域紀行5 旧軍の悪2
 上図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)から読み取れる軍事施設、軍事軌道、演習場等の名称を現代の地図にプロットしたものです。

 図の右下に騎兵第13~16連隊営(現在の船橋市の東邦大学、日本大学、習志野市泉町2~3丁目)がありますが、大正年間のころはまだ生きた馬を使った騎兵連隊でした。昭和に入り戦争が激しくなり、この場所の東端(騎兵第16連隊営址)に陸軍習志野学校が入りました。

 「習志野学校は昭和8年(1933)8月に開校したが、これは毒ガスの知識普及・調査研究する機関であった。対ソ戦への準備のための化学戦の教育は、そのまま習志野学校の発展につながっていった。戦争中も演習が活発に行われた。実毒演習は、射撃場の北側の平坦な松林を中心に訓練が行われた」(「八千代市の歴史 通史編 下」八千代市発行)

 現在の陸上自衛隊習志野演習場付近が実毒演習が行われた場所になります。

 私は、敗戦時に実毒演習地に多量の毒ガスが埋設されたことにより、その土地の開発が不能であり、従って演習場として残存したのではないだろうかと、想像しています。今後情報を集めて、そうした想像の適否を検証していきたいと思っています。

 私の父は日露戦争勝利の年であり、ロシア革命の年である明治38年(1905年)に生まれ、大正14年(1925年)に新兵として騎兵連隊に入隊しました。生前によく連隊内での馬の世話の話しを事細かく聞きました。ただし、その場所が習志野であったことは、平成元年に私が千葉市花見川区に転居する際、父が大久保とか実籾の地名を知っていて初めて気がつきました。
大正年間の頃は、まだ生きた馬が実戦の最前線で活躍していたのです。
 その後、騎兵から戦車や毒ガスの時代になり、習志野の騎兵連隊のあった場所が習志野学校になったことは、このブログ活動(花見川流域散歩)で初めて意識しました。
 毒ガスという私の生活に全く関わりのないものと思っていたものが、花見川流域散歩で私にリンクしてしまいました。今後、毒ガスの情報を折に触れて情報収集していきたいと思います。


【お知らせ】
 このブログの記事の名称としてこれまで「北高津川流域紀行4 旧軍の悪」のように、どの場所の記事かわかるように「北高津川流域紀行」という地理的情報を含む表記にしてきました。しかし、他のサイトなどで記事を紹介していただくときに、全体に冗長な印象になりますので、記事の名称から原則として地理的情報を削り、記事本文の最初に地理的情報を含む表題を掲載することにしました。

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