2011年4月28日木曜日

古柏井川のモデル河川としての芦太川

 芦太川流域紀行2 古柏井川のモデル河川としての芦太川

 以前、花見川の河川争奪について何度か記事(「花見川上流紀行10河川争奪見立て」など)にしました。印旛沼に流れていた平戸川(新川)の支流である古柏井川(私がつけた仮称です)の上流部分を東京湾に流れていた花見川が争奪したという見立てです。白鳥孝治氏によって1998年に先行して記述されていることも報告しました。(「花見川中流紀行17河川争奪に関する先行記述」)
 古柏井川は歴史時代になって、3回の堀割普請で人工的に改造され自然地形は失われました。

 さて、芦太川を歩いていると川(谷)の規模が古柏井川とほぼ同じであることに気がつきました。また隣接していますから地形地質的な条件も近似していると考えられます。このことから、古柏井川の人工改造以前の姿を復元するモデルとして芦太川が使えるのではないかと気がつきました。
 次の図は河川争奪前の古柏井川と古花見川の想像図に芦太川の谷筋線を追記したものです。

            古柏井川と古花見川の想像と芦太川

 この図から、古柏井川と芦太川の河川としての規模が似通っていることがお分かりになると思います。
 水系がこのようになっていたのは、地史的なある年代でのことです。歴史時代には既に河川争奪が行われていて、江戸時代の3回にわたる堀割普請前には、水系は次のようになっていました。

            江戸時代の堀割普請前の水系の姿

 芦太川の谷は次の写真のように浅く広い谷です。

            芦太川の現在谷地形

 おそらくこれに近い地形が古柏井川にあったものと想像します。このような浅い谷があり、現在の柏井橋上流(「高台」付近)で東京湾からの深い谷と接している(浅い谷の谷底が切られている)ので、古人は人工河川(堀割)開削の可能性を発見したものと考えます。

なお、現在の花見川堀割の姿は次のような幅の狭い峡谷状の地形となっています。

            現在の花見川堀割

 現在の花見川堀割部分は芦太川のように谷幅が広い浅い谷ではありません。これは、1人工的に谷底を掘下げたことと、2谷の壁に、掘った土を盛って(捨て土して)人工的に谷幅が狭くなっことと、3盛土により台地縁の標高が高くなったためです。堀割普請の資料が残っているので、大まかな土量計算もできると考えられます。芦太川の地形をモデルにしながら、人工改変前の古柏井川の地形復元が可能になると思います。今後その作業をしていきたいと思っています。

 なお、古柏井川の地形復元ができると、古柏井川が縄文時代や弥生時代において、印旛沼と東京湾の交流通路として果たした役割などについて、考察が進むものと考えられます。
 花見川は堀割普請の時に始めて印旛沼と東京湾をつなぐ役割を持たせられてのではなく、遠く縄文時代から既に印旛沼と東京湾をつなぐ重要な特別通路としての役割を担っていたものであると考えています。

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