2011年1月28日金曜日

花見川上流紀行 10河川争奪の見立て

河川争奪前の水系想像
河川争奪後の水系
 もともと花見川団地付近を源流とする水系(柏井の谷津)、花島公園の谷津を源流とする水系、柏井浄水場付近を源流とする水系の3つが柏井橋付近で合流して印旛沼方向に流れる水系があったと考えます。この河川を仮に古柏井川と呼ぶことにします。一方、東京湾方向に流れていた古花見川の最上流部の頭部侵食力が旺盛になり(おそらく海面低下や低温化に起因)、花島公園の谷津はおろか、二つの支流をも争奪し、さらに横戸台南端(「高台」と呼ばれる場所)付近まで古柏井川谷底を奪ったのだと思います。結果として、古柏井川は流域面積のほとんどを取られ、そこに流れる水の量と較べると著しく大きな空堀みたいな広い谷が下流の一部に残ったのだと思います。
 後世になり、人々が印旛沼干拓を課題とした時、願ってもいない大きな空堀みたいな谷があり、それは「高台」で突然花見川によって下からちょん切られている光景をみて、堀割普請の意欲が大いに湧いたのだと思います。
 堀割普請で難渋した化灯土も、こうした地形発達を想定すると、その成因や分布が合理的に説明できそうです。
 河川争奪箇所だったから堀割普請が行われたという仮説については、現場をくまなく散歩してみたり、情報を集めて分析し、今後検証していきたいと思います。

3 件のコメント:

  1. 花見川上流部の河川争奪に関する文章を読ませていただきました。「古柏井川」の流域を「古花見川」の頭部侵食で奪った結果が現在の花見川の水系であるとのことですが、僕は違う見方をしています。
     この地域には関東ローム層の下部に「常総粘土層」という火山灰層が分布しますが、この地層は「古東京湾」と呼ばれる海が退いた後に生じた湿地に堆積したものです。花見川流域でのこの地層の層相分布を見ると、下流の天戸-長作地域には同時期の陸成の火山灰層(下末吉ローム層)が分布しますが、上流の花島-横戸では湿地堆積の層相を示し、天戸-長作地域の陸化・離水の時期が早かったことを示しています。もちろん現在では花島-横戸地域の方が高いのですが、古東京湾の海退直後は逆だったことになり、その後花島-横戸地域の隆起が始まって現在の分水嶺が形成されたのではないかと思います。柏井の谷津を作った川は、この海退直後の地面の傾きに従って、印旛沼に向かう流路を形成した後、分水嶺地域の隆起の開始によって行く手を阻まれて東へ曲がり、更に南へと流れて、現在の花見川の流路を作ったのではないでしょうか。このような最初の離水域を示す、陸成の下末吉ローム層の分布域は、分水嶺地域の東京湾側に平行に、松戸付近まで追跡することが出来、隆起軸の内陸側への移動を示しています。
     詳細は下記
    http://homepage.nifty.com/sayamanaturalhistory/geology/shicchinojidai/shimosueyoshi/page-rikukatochikakuhendou.html

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  2. oryzasanコメントありがとうございます。
    貴重な情報ありがとうございます。oryzasanのホームページも閲覧させていただきました。
    層序の詳しいことは当方は調べたことがないので、なんともいえないのですが、感覚的にはoryzasanのおっしゃっていることと、当方で考えていることと、ほとんど同じことではないかと思います。
    この記事が深いところにあるので、新しい記事を作り、oryzasanの考えを紹介させていただき、議論を深めたいと思います。
    なお、oryzasanのコメントにあるurlがリンク切れとなっていました。
    oryzasanのホームページを当方ブログよりリンクさせていただきますので、ご了解ください。
    今後もよろしくお願いします。

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  3. oryzasanを「オリザサン」と読んで、サンを尊称のさんと勘違いして、上記コメントのoryzasanの後に「さん」をつけそびれました。お許しください。

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