2013年5月9日木曜日

花見川地峡と印旛沼筋の「戸(と、ど)」地名


花見川地峡の自然史と船越の記憶 1

花見川地峡」の各論として、「花見川地峡の自然史と船越の記憶」と銘打った、新しいシリーズ記事の連載を始めることとします。(現在すでにスタートしている連載「花見川流域の小崖地形」と並行して記事連載します。)
新しい連載では次のような事柄を明らかにしたいと思っています。

1 私が明らかにしたい事柄
このシリーズ記事で、次のような仮説の証明に取り組みたいと思っています。
【仮説】「印旛沼堀割普請の前に、花見川地峡が東京湾と香取の海を結ぶ重要な交通路であり、古代において地峡は船越であった。」
印旛沼堀割普請以降の花見川地峡の歴史は資料も豊富であり、不明な点は少ないと思います。
しかし、印旛沼堀割普請が行われる以前の花見川地峡と人との関わりに関する歴史記述には、私はこの数年間意識的に調べてきて、接しませんでした。
印旛沼堀割普請前の花見川地峡の情報は社会から失われているのですが、次のような項目を検討することにより、失われた情報を復元し、上記仮説の証明に取り組みたいとおもいます。

2 仮説証明のために検討する項目
その1 地名の検討
次の地図は花見川地峡と印旛沼筋の現在の町丁目レベルの「戸(と、ど)」のつく地名分布をしめしたものです。

花見川地峡と印旛沼筋の「戸(と、ど)」のつく地名(町丁目レベル)
小字レベルでは「戸(と、ど)」のつく地名は多数あります。

戸(と、ど)がつく地名は、江戸、松戸、亀戸、青砥(戸)などのようにみなと(湊)の存在から発出したものだと言われています。

この分布図から、「(舟に関わる)戸のつく地名」が花見川地峡と印旛沼筋を結んでいる、というヒントを得て、地名を軸にして東京湾-花見川地峡-印旛沼筋(香取の海)の交通連続性(連絡性)について検討します。

地名のみならず、民俗(神社、祭り等)の情報についても役立つものがあれば、検討に取り込みたいとおもいます。

その2 縄文海進クライマックスにおける海面分布の検討
縄文海進における海面分布が花見川地峡では「異常」であるのですが、それに歴史関係者が(のみならず地学関係者も)気がつきませんでした。そのため、花見川地峡の地名の意味の的確な解釈説明が出来てきませんでした。

社会・自然双方の専門家が縄文海進における海面分布異常に気がつかなかった主な理由は次の2点です。
①花見川地峡は特殊なタイプの河川争奪現象(河道逆行争奪)が発生している場所であり、その現象の存在に気がついた人はほとんどいなかったこと。
②河川争奪現象の現場が印旛沼堀割普請の現場に重なり、人工改変が進み、過去の自然の様子が判りにくくなってしまったこと。(正確に言えば、人工改変された花見川谷津を自然科学的な視点から調べようという気力を備えた人が誰もいなかったこと。)

そこで、縄文海進における海面分布の花見川地峡における姿を正確に調べて、だれにでもわかるように表現したいと思います。「異常」と言えるほど、地峡奥深くまで花見川谷津に海が入り込んでいました。

次の記事以降地名について具体的な検討にはいります。
シナリオのほとんどない検討ですが、地名を手がかりに花見川地峡の特徴を少しでも明らかにしたいと思います。
なお、全国の船越についてブログ「ジオパークを学ぶ」で並行して検討しています。

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