花見川流域の自然・歴史を知るための図書紹介 23
花見川流域にはかつて近衛師団管轄演習場として下志津演習場と習志野演習場の2箇所の陸軍演習場がありました。それぞれの演習場には特殊演習場(毒ガス演習場)がありました。
陸軍演習場および特殊演習場の存在を地域のマイナス材料と捉え、話題として忌避することも一つの地域理解のあり方です。
しかし、このブログでは隠されてきた事実を知ることは地域理解の基礎であると考えます。
特殊演習場を含め、2つの陸軍演習場が存在したという事実を地域のマイナス材料として捉えるのではなく、一つの歴史遺産として捉えるべきだと考えます。
こうした考えから、特殊演習場で行われていた活動を知るうえで参考となる図書として「陸軍習志野学校」を紹介します。
1 「陸軍習志野学校」の諸元、内容、目次
【諸元】
書名:陸軍習志野学校
編輯兼発行者:陸軍習志野学校史編纂委員会会長衣笠駿雄
発行所:陸軍習志野学校史編纂委員会
発行日:昭和62年1月16日
体裁:A4判、581頁
【内容】
化学戦関係の要員養成を行う陸軍習志野学校の学校史。
【主要目次】
第1編 旧陸軍における化学戦研究の胎動(大正4年~昭和8年)
第2編 陸軍習志野学校のあゆみ(昭和8年~同20年)
第3編 習志野等の想い出と変遷
第4編 化学兵器及び化学戦の現況と将来
附録 追撃隊略記
「陸軍習志野学校」
この図書は古書店より入手しました。
2 この図書の特徴
陸軍習志野学校は「瓦斯防護に関する教育、調査研究を行ふ所とす。学生は各兵科(憲兵隊を除く)将校を以て之に充つ。なお幹部候補生の教育を行ふ。」(昭和18年版陸海軍軍事年鑑、財団法人軍人会館図書部編)とされており、旧軍の化学戦研究教育の中枢機関でした。
この学校史から、花見川流域にあった2つの特殊演習場(習志野特殊演習場、下志津特殊演習場)の様子と、そこで行われていた活動(訓練)の様子を詳しく知ることが出来ます。
研究者がまとめた図書ではなく、実際に教育した人あるいは訓練を受けた人が執筆したものですから活動と現場の仔細な様子を窺い知ることができます。
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海老川(Ebigawa) 乱歩(Ranpo) です。
返信削除最近紹介してくださる書籍は、たいへん興味深いものですね。
既にお持ちでしたらごめんなさい。
このような書籍もあります。
「ドイツ兵士の見たニッポン」 習志野俘虜収容所 1915-1920 (丸善ブックス)
何年か前に小生は、たしか津田沼にある書店の丸善で、
この書籍の出版記念展示会を見てきました。
展示されていた写真の殆どは、この書籍の中に掲載されている写真でした。
ドイツ兵士が作ったとされる「ボトルシップ」も2つほど現存し、
たしか習志野市で保管されています。
(展示会でボトルシップを見たか忘れてしまいました)
習志野霊園では、捕虜のお墓があるようです。
「ドイツの捕虜が待ちわびた帰国の途につき、
故郷の人々から白い目で見られ、辛い日々を送った」と
書かれていたのが印象的でした。
本当なら喜んで迎えられるはずなのに。
恐らく小生が想像するに、「ドイツより下等国のアジアの日本の捕虜なんかになりやがって」と
ドイツの人々が思っていたのだと推定しています。
展示会の資料によると収容所は、千葉県道262号幕張八千代線と京成電鉄本線が
交差する踏切の近くでした。
今となっては想像もできませんが、国土地理院の空中写真で調べたところ、
米軍の撮影した写真で、踏切付近から習志野高校付近にかけて、
兵舎のような建物が確認できたので納得出来ました。
最近踏切近くの公園に、収容所の記念碑ができたようです。
(タウン誌に書いてありました)
海老川乱歩さん
返信削除コメントありがとうございます。
習志野には日露戦争のロシア人捕虜、第一次世界大戦のドイツ人捕虜が収容され、関係する話が沢山あり、興味がつきません。
習志野市の資料をみたら、海老川乱歩さんのおっしゃるボトルシップの写真が表紙に出ていました。小学校の先生が生徒を連れて捕虜収容所を見学に行ったら、ドイツ人捕虜からプレゼントされたと書いてありました。
軍郷としての習志野や千葉についてもっと調べたいと思っています。