2014年5月18日日曜日

地殻変動による利根川平野出口の閉塞

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る その7

このブログでは、古平戸川の利根川平野出口は、もともと手賀沼付近にあったのですが、河川争奪により河道が真逆に変化し、印旛沼の方に流れるようになったことを説明しています。

古平戸川の利根川出口が失われた様子(現在そのような地形が見当たらない様子)の説明を、2014.05.17記事「古平戸川の利根川平野出口付近の地形」でしました。地殻変動により出口が失われ、その後の侵蝕ですっかり地形の様子が変わってしまったのです。

その地形変化の様子をこの記事で補足します。

1 下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃
下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子を平面図と断面図で示します。想像図といっていいものです。

下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子(平面図)

下総下位面(氾濫原)が最初に出来た頃の様子(断面図)
(断面図は前記事の同じ図を少しもっともらしく変更しまた。)
氾濫原には凹凸がほとんど無かったと考えます。
極めて浅い谷である澪筋を通って水が流れていたと考えます。深い谷は無かった時代です。

2 地殻変動が生じた頃
地殻変動が生じた頃の様子を平面図と断面図で示します。

地殻変動が生じた頃の地形の様子(平面図)

地殻変動が生じた頃の地形の様子(断面図)
平面図に主な地殻変動としての隆起軸、沈降軸、断層を描きこみました。

古平戸川の利根川平野出口を塞ぐように隆起軸が生じました。
断面図でみると、現在の地形では3m程の壁が出来ています。

地殻変動スピードがどれくらいであったかという検討はまだしていませんが、地殻変動が始まってから古平戸川の水は利根川平野に流れにくくなり、ついには全く流れなくなったというプロセスを踏んだと思います。
水が流れにくくなった期間と水が全く流れなくなり、ダムができるような期間は川のアクティブさが失われたことになります。

一方地殻変動によるダムアップのような影響を受けなかった川は本来のアクティブさを保持しています。

私は地殻変動が生じた頃、アクティブな河川は下方浸食を行い谷底をつくったと考えています。
一方古平戸川は非アクティブな河川となり、下方浸食能力を失い、深い谷とその谷底をつくる機会を失ったと考えます。

3 河川争奪が生じた頃
河川争奪が生じた頃の様子を平面図と断面図で示します。

河川争奪が生じた頃の地形の様子(平面図)

河川争奪が生じた頃の地形の様子(断面図)

地殻変動で利根川平野への出口を失い、古平戸川は下方浸食能力を失ってしまいました。

一方、鹿島川は下方浸食を進めたため、古平戸川の河床高度は相対的に高くなり(つまり侵蝕能力が劣るようになり)、最後には鹿島川が古平戸川を争奪をしたのだと思います。

このような思考が成り立つ証拠として、鹿島川流域の下総下位面は1面であるのに、古平戸川流域の下総下位面は上下2面あることが挙げられます。

つまり、鹿島川流域の下総下位面は昔の谷底平野ですから1面なのですが、古平戸川流域の下総下位面はアクティブさを失った時代の氾濫原の面と、それを刻む谷底状の面の2面に分かれるのです。下位の谷底状の面は鹿島川流域の下総下位面と連続します。(詳細は後日記事にします。)

海老川乱歩さんの質問に答える中で、それが自分の思考を整理する強制力となりました。
結果として、あいまいであった印旛沼筋河川争奪の成因がだんだん明らかになってきたという印象を持ち始めています。

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