2015年1月7日水曜日

古代花見川船越の廃絶

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.38 古代花見川船越の廃絶

柏井町と横戸町の直線状境界線にかつて馬防土手がありました。
その馬防土手は古代直線道路の跡につくられたものであると考えました。
その古代直線道路は杵隈(かしわい、船着場)と高津(直轄港湾)を結ぶ船越であったというのが、このブログの見立てです。

この花見川と平戸川(現在の新川)を結ぶ船越は奈良時代に機能していたと考えますが、その後諸般の状況から使われなくなり、交通施設としては廃絶してしまったものと考えます。

廃絶しただけでなく、その存在と利用の全ての記憶が社会から消えてしまったと考えます。

次の図は中世香取社の影響範囲を描いた図です。

中世香取社と浦・海夫・関

花見川と平戸川付近には香取社の影響が全く表現されていません。つまり、この付近には通過交通がなく、従って利が伴う運輸活動がないため、香取社の影響(寄進や徴税)が無かったと考えます。

つまり、この図から、中世には花見川-平戸川船越は機能していないことを読み取ることができると思います。

恐らく、中世には花見川-平戸川船越の存在と利用は、すでに人々の記憶から消去されていたと考えます。

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