2015年2月13日金曜日

上ノ台遺跡報告書を閲覧し、鍛冶遺跡があることに気がつく

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1 上ノ台遺跡発掘調査報告書の閲覧
上ノ台遺跡は花見川・浜田川流域唯一の前方後円墳が所在する東鉄砲塚古墳群と関わりがあるのではないかと考えている古墳時代をメインとする集落遺跡です。

花見川・浜田川流域をミニ国家に擬せば、その首都にあたる遺跡だと想定しています。

この遺跡の発掘調査報告書を図書館で帯出してきました。

図書館の検索では、この遺跡の発掘調査報告書が全部で13冊ヒットしました。

とりあえず重要度が高いと考えた10冊を帯出しました。(館外帯出は10冊までしかできません。)

図書館から帯出した上ノ台遺跡発掘調査報告書

昨日まで製鉄・鍛冶遺跡や水運とハタ地名(秦氏の活動)との関係について検討してきています。
古墳時代に秦氏の水運ネットワークができていて、地域社会の中で大きな役割を果たしていたという考え(想定)が、自分の思考のなかで有力になってきています。

ですから、上ノ台遺跡発掘調査報告書を読みながら、どうしてもその考え(鍛冶、水運、秦氏の関連)との関連を絶えず考えながら報告書記述を読むことになります。

恐らく、漫然と発掘調査報告書を読むより、このような問題意識投影型閲覧のほうが報告書から得られる情報やヒントの質が高まり、量が増えると思います。

自分の問題意識を投影して10冊の報告書を閲覧してみると、いろいろな思考(感想)がうまれましたので、順不同にメモするつもりですが、まず気がついたこととして、鍛冶遺物出土について書きます。

2 上ノ台遺跡からの鍛冶遺物出土
上ノ台遺跡が鍛冶遺跡でもあるという事実をはじめて知りました。

上ノ台遺跡で検出された鍛冶遺物
「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)より引用、追記

「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)では「上ノ台遺跡出土の鉄滓・羽口先端溶着スラグの調査」という特別研究を12頁にわたって掲載しています。

この中で、鉄鉱石系素材の使用可能性、6~7世紀においては80~100軒に1軒程度の鍛冶工房で鉄器の鍛冶加工がなされたと推定が書かれています。

上ノ台遺跡に鍛冶工房があったことがわかったので、2015.02.07記事「花見川-平戸川筋の古墳時代鍛冶遺跡分布」掲載図を改訂して再掲します。


花見川-平戸川付近の古墳時代鍛冶遺跡分布図

【感想1】
上ノ台遺跡の鍛冶遺跡と杉葉見遺跡の時期的な対応や特性の比較が気になります。

杉葉見遺跡は「古墳時代中期」で上ノ台遺跡は「6世紀主体」ですから、杉葉見遺跡の方が早く出現しているようです。

杉葉見遺跡はハタ集落や妙見信仰と深くかかわるにも関わらず、立地場所が集落や信仰拠点から離れた場所に設置された特設工房です。

恐らく「杉食み(スギハミ)」の名称のとおり木材(木炭)を多量に消費することを念頭に、木材を多量に伐採できる場所の近くに計画的に建設された工房です。

畑集落で使う鉄器を賄うための工房ではなく、近在に鉄器を供給する産業としての工房だと考えます。

背後には原材料や鉄製品という重量物運搬に適した秦氏ブランドの水運ネットワークが控えていたと考えます。

一方上ノ台遺跡は80~100軒の集落の鉄器を賄うための、集落内につくられた工房です。文字通り街の鍛冶屋です。

出土物の量もそうですが、実体としても鍛冶の生産性は杉葉見遺跡のより小さかったと考えます。使っている鉄器の補修やリサイクルなどが主な業務だったかもしれません。

【感想2】
ふさの国文化財ナビゲーションの情報や千葉県内の製鉄・鍛冶遺跡一覧表(丸井敬司「房総地方の妙見信仰と製鉄・鍛冶について」(2005、千葉市立郷土博物館紀要第11号掲載)に上ノ台遺跡の鍛冶遺跡情報が出てきません。

その理由の想像がつきました。

上ノ台遺跡発掘調査報告書は10数冊になります。それを全部閲覧することは、読む手間もさることながら、報告書が30~40年前に出版されたことを考えると、揃えること自体がまずもって困難を伴います。

従って、勢い既存の要約情報を活用することになります。

しかし、情報量が膨大な遺跡の要約情報にたまたま鍛冶遺跡存在情報が欠落することは有り得ることです。

一旦そういう要約情報ができてしまうと、千葉県なり千葉市なりの製鉄・鍛冶遺跡検討が行われる度に、いつも上ノ台遺跡の情報が欠落します。

下記の【参考 上ノ台遺跡の概要】に示したように「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」の上ノ台遺跡紹介にも鍛冶遺跡情報は欠落しています。

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【参考 上ノ台遺跡の概要】
「千葉県の歴史 資料編 考古2(弥生・古墳時代)」によれば、上ノ台遺跡の概要は次の通りです。

遺跡は1972年に発見され、A~D地区に分かれる。1973年~1980年にかけて発掘された。

A・B地区では古墳時代中期から後期の竪穴住居跡12軒を検出し、うち滑石製模造品工房跡は3軒である。C・D地区からは縄文時代の土坑21基、C地区から縄文時代早期末の炉穴13基が確認された。またD地区からは古墳時代中期から後期の竪穴住居跡357軒が検出され、うち23軒は拡張住居で、3軒が滑石製模造品工房跡である。同時期の掘立柱建物跡は5棟、柱穴群4基、小竪穴遺構5基、道路状遺構3基、墓壙3基などである。

出土物は土師器が主体で須恵器も70軒130点が出土。

土錘が156軒から球形624個、管形20個出土。集落内で製作。魚骨出土量わずか。貝は59軒から出土。ハマグリとシオフキが多い。

紡錘車は16点、内滑石製7点。

鉄製品は38軒から刀子5、鉄斧1、鏃7、摘鎌1、釘5、釣針1などが出土する。銅製品3点。

玉類は管玉2、ガラス玉1、勾玉1点である。

カマドの灰像資料として稲の葉や籾痕、ヨシの棹、ツルヨシ類似が出土。

集落は5世紀後半に出現し、6世紀代が主体で、7世紀に減少し後半には消滅する。

土錘や貝出土から海とのかかわりは深いが、ほかの漁労具がないなどから漁業集落とは断定できない。

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