古墳時代遺跡である上ノ台遺跡(集落)の生業の検討をしています。
漁業については集落の住民各人が副食用小魚と貝を獲っていたことを出土土錘と貝層分布から想定しました。産業としての漁業(交易品産出)の跡は見られませんでした。
この記事では米・雑穀栽培について検討します。
1 米栽培の痕跡
「千葉・上ノ台遺跡(付篇)」(1981、千葉市教育委員会)には古墳時代住居趾竃の灰像分析結果が掲載されています。
その概要は次の通りです。
・イネに注目すると31軒の住居趾サンプルのうち3つの住居趾からイネモミに相当する灰像が検出され、もっぱらイネモミ相当の灰像だけが見出されたサンプルからは炭化したモミに付着したイネの炭化粒が数点見出された。
・他のサンプルからはイネモミの灰像の他に、イネ、マコモ、サヤヌカグサなどイネ族に特有のイネ細胞の列が見出されているが、イネ以外の植物に由来すると考えられる灰像も多く、ヨシの稈の灰像に類似しているものが最も目立っている。
・別のサンプルからはヨシ、メダケ、ツルヨシなどに由来するイネ細胞が少数見出されている。
・従って、この遺跡の古墳時代後期のかまどの燃料としてはツルヨシやメダケなど野生のイネ科植物の利用が行われていたのではないかと考えられる。
・イネを栽培し、ワラも十分に利用していたとしたら、宮城県の留沼遺跡の灰像からのように、明瞭なイネの葉身、葉鞘、稈の灰像がもっと見出されてもよいように思われる。従って、モミの灰像や炭化粒によってイネを有していた証拠が得られ、イネを食していたことは明白といえるが、燃料として利用したのは、イネワラよりもむしろ、近くに生育していた野生のイネ科植物であったといえよう。
この情報から、上ノ台遺跡ではイネのワラを焚き木としてほとんど利用していなかったことがわかりました。
近くに水田が少なかったのだと思います。
2 水田開発条件の劣悪さ
古墳時代に、充分な谷津田開発ができなかった様子は、次の近世新田開発絵図からも類推できます。
屋敷村絵図 1687(貞享4)年11月作成の写 (国立国会図書館所蔵)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)から引用 追記
屋敷村絵図が表現している範囲
屋敷村絵図は西生田川谷津の源頭部付近において、1687年頃以前から既に開発されていた水田(古田)は谷津の台地斜面沿いの帯状の部分(赤色)であることを示しています。
絵図は貞享年間に開発された新田(肌色)の分布とそれでも残された谷津中央の谷地(紺色)を示しています。
この近世の情報から、古墳時代の谷津田開発は狭小谷津内のさらに極一部しか開田できなかったことを教えられます。
上ノ台遺跡の近くには広い谷津が存在しないから水田耕作は盛んでなかったという一般理解とともに、土地条件の劣悪さから狭小谷津における水田開発がなお一層極めて困難であったことがわかります。(この付近の谷津には化灯土…泥炭が堆積しています。)
このように古墳時代の上ノ台遺跡付近では水田開発はなかなか進まなかったと考えます。
【検討課題】
しかし、だからといって一方的に米の消費が近隣集落と比べて少なかったと考えることは早計だと思います。
上ノ台遺跡(集落)は古墳時代の花見川・浜田川流域圏全体の支配統治拠点ですから、流域圏内の別の小拠点から多少の米上納があったかもしれません。
また、上ノ台遺跡(集落)が主導して流域圏内の各地の谷津に水田開発を進めたことも考えられます。
後日別記事として詳細検討しますが、花見川・犢橋川右岸の支谷津水田開発は幾つかの情報から上ノ台遺跡(集落)と関わりがあるのではないかと考えています。
そのように考えると、上ノ台遺跡(集落)の周辺には水田は少ないが、流域内の別の場所に開発した水田から上ノ台遺跡(集落)に「上がり」が多少はあった可能性もあると思います。
上納や「上がり」の米の量があったのか、その量はどれほどであったのか、将来考えたいと思います。
いずれにしろ、米を必要なだけ食べることは出来なかったと考えますから、上ノ台遺跡(集落)の主食における雑穀の役割は大きかったと想定します。
3 米・雑穀栽培に使ったと考えられる遺物
出土した金属製品(ほとんど鉄製品)のうち、鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土数とその分布を示します。
●上ノ台遺跡出土鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土数
・鉄製鎌…6点
・鉄製摘鎌…8点
鉄製鎌と鉄製摘鎌の出土地点分布図
摘鎌はイネや雑穀の穂摘みに利用されたと考えますが、分布図北西部の住居趾ではない場所から2点出土していて、この付近が雑穀か陸稲の畑になっていた可能性が濃厚です。
上ノ台遺跡付近の台地面は雑穀(や陸稲)、麻(あるいは桑)の畑として利用が進んでいたものと考えます。
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