2015年3月26日木曜日

花見川河口古代拠点集落の特異性

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.97 花見川河口古代拠点集落の特異性

検見川台地上に展開する直道遺跡や居寒台遺跡から想定できる花見川河口古代拠点集落について、発掘調査報告書を詳細に検討すればするほど興味がつきません。しかし、他の遺跡についても検討したいので、とりあえずその特異性についてこれまでの検討を一旦まとめて、区切りをつけることにします。

1 花見川河口古代拠点集落の空間的展開イメージ
検見川台地上拠点集落の奈良・平安時代の空間的展開を示すと次のような図になります。

検見川台地の奈良・平安時代竪穴住居址検出数の分布(直道遺跡は仮定)

これまでに発掘された遺跡の情報から、検見川台地上拠点集落の展開をこのようにイメージできました。

2 遺構からみた特性
上記空間的展開図の根拠表を次に示します。

仮定を設けて直道遺跡の住居址の時代区分をした場合の検見川台地古代住居址時代別内訳

検出された遺構だけを問題にすると、奈良・平安時代では竪穴住居址40に対して掘立柱建物址は43棟になります。
双方とも建替えを含んだものです。

掘立柱建物址が主として奈良時代以降に建設されたものであると考えると、一般竪穴住居址数より掘立柱建物址数の方が多く、遺構面からめてきわめて特徴的な遺跡となっています。

掘立柱建物址が多いことから、この拠点集落が単なる一般人の居住を目的としたものではなく、特定の目的を帯びた特殊な集落であることを物語っていると考えます。

掘立柱建物址の中にはかなり細長いものがあり、馬骨が別の場所から出土していることから厩舎ではないかと想像しました。

3 遺物からみた特性
直道遺跡を例にとると、官人の服飾品である銙帯2点、武器である鉄鏃多数、鍛冶の存在を物語る鉄滓や多数の鉄製品(刀子、釣針、紡錘車、鎌、鍬、釘等)、馬骨歯等が出土しています。

直道遺跡出土鉄鏃の例
「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)から引用

これらの出土遺物から、この集落には官人が存在し、武器を備え、武器や他の鉄製品の供給メンテナンスも行い、馬も使っていたことがわかります。

出土物から見て、この集落は律令国家の重大目的であった蝦夷戦争の成功的遂行を達成するための兵站最前線にかかわる現場であったと想定しました。

花見川河口古代拠点集落は蝦夷戦争の兵站基地の一つであったと考えます。

4 周辺地物・交通からみた特性
花見川河口古代拠点集落の周辺にはつぎのような地物が存在し、武蔵野国と常陸国を結ぶ東海道(陸路)と東海道水運支路(仮説)が交差する交通の要衝であったことがわかります。

花見川河口古代拠点集落周辺の地物と交通特性
基図は迅速図(明治15年測量)

花見川河口古代拠点集落は交通の要衝の管理運営を担う律令国家の現場事務所機能を有していた、一種の軍事基地であったと考えます。

また浮島牛牧の経営を行い、古代にあっては重要な軍事輸送手段である特牛(こて)を生産出荷していた重要な兵站機能を有していたと考えます。

5 地名からみた特性
検見川台地上の拠点集落の一部に玄蕃所(治部省所管、俘囚収容所と考える、遺構は未発見)があり、そこで俘囚の検見(尋問等)が行われたと考えます。

小字「玄蕃所」、大字「検見川」の地名はこうした古代律令国家の活動を今に伝える文化遺産です。

また、浮島牛牧の場所が牧懇(マキハリ、牧場開墾地、懇[ハリ]…開墾すること)と呼ばれていたことが、現在まで伝わり、音の変化はありますが、幕張(マクハリ)として人々に使われていると考えます。

地名「幕張」もまた、古代律令国家の活動を今に伝える文化遺産です。

律令国家の活動を伝承する地名
基図は迅速図(明治15年測量)

花見川河口古代拠点集落の様子は発掘遺構・遺物からだけでなく、伝承情報(地名)からも浮き彫りにすることができます。

6 花見川河口古代拠点集落の特異性
以上で示したように、花見川河口古代拠点集落は律令国家にとって戦略的重要性を有する兵站基地であり、同時に兵站業務に関わる集団の居住地であったと考えます。

一般住民が居住するような集落ではなかったと考えます。

なお、「千葉市直道遺跡」(1995、財団法人千葉市文化財調査協会)ではそのまとめ(第4章 まとめと考察)でつぎのように記述しています。

「直道遺跡では1次・2次にわたる本調査の結果、竪穴住居跡22軒、掘立柱建物跡20棟が検出された。竪穴住居と掘立柱建物によって構成される一般にみられる古代集落跡であることが明らかとなった。」

このブログで検討考察してきたことからすると、違和感をおぼえる記述です。

竪穴住居址と掘立柱建物址が一緒に出土すればそれは「一般にみられる古代集落跡」であるという定義なら、私の違和感は場違いです。

しかし、竪穴住居跡と掘立柱建物跡の数が拮抗していることや、銙帯・鉄鏃、馬骨等が出土したことなど、遺跡の情報を吟味すると、私はどうしても「一般にみられる古代集落跡」であるという結論を首肯できません。

2 件のコメント:

  1. 習志野市に住む者です。二年ほど前思い立って花見川を河口より印旛沼入り口辺りまで歩いてみました。まさかこんな身近な川が、これほどまで変化に富んだ景観を見せてくれるとは予想外でしたのでとてもこの川に興味を抱きました。先日久しぶりに柏井辺りまで散歩に出かけましたところ、道端にカラフルな御幣オバケのような物(梵天)を見つけ、これは何かと調べていましたらこちらのブログにたどり着きました。
    とても興味深く拝見させて頂いております。

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  2. コメントありがとうございます。

    最近、梵天(ぼんでん)のカラフルな色使いと香取神宮の多色の吹き流しの色使いが同じであることに気がつきました。

    また、武蔵野線の船橋法典駅の「法典」は「梵天(ぼんでん)」のことだと考えています。

    梵天も調べれば恐らく例が沢山あって面白いのではないかと考えています。

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