2015年3月6日金曜日

上ノ台遺跡検討まとめ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.79 上ノ台遺跡検討まとめ

上ノ台遺跡の発掘調査報告書10冊を千葉市図書館から帯出し、毎日その情報をGISに転記して解析検討してきました。
しかし図書帯出期間(延長を含めて4週間)の制限によりすでに返却してしまい、もっとたくさん検討したいことはあるのですが、キリが無いので一旦検討を締めくくることにします。

ブログの今後の活動は、近隣遺跡発掘調査報告書の閲覧検討に移ります。

この記事では、上ノ台遺跡検討をまとめ、若干の情報を追補します。

1 上ノ台遺跡(集落)の生業
上ノ台遺跡(集落)からはD地区だけで309軒、A・B地区を含めると321軒の住居趾が検出されていて古墳時代集落としては大規模です。従って、広い統治支配域を備える規模の大きな集落の人々の生業がどのようなものであったのか、興味が湧き、調べてみました。

発掘調査報告書の情報を自分なりに検討して次のような生業の様子を知ることができました。

●上ノ台遺跡(集落)生業の種別イメージ
ア 米・雑穀生産
・遺跡から米や藁が検出されている。しかし確かに米を食していたことが証明されるといった程度の検出であり、燃料はイネワラではなく野生のイネ科植物を使っている。
・近世水田開発資料から見ても水田耕作は極めて貧弱であったと考えられる。
・遺跡集落から離れた台地部で摘鎌が検出されていて、台地面での雑穀栽培が想定される。
・米・雑穀栽培は稼げる生業とはとても言えなかったと考えられる。
2015.02.19記事「上ノ台遺跡 米・雑穀栽培」参照

イ 機織
・紡錘車が16軒から16個検出されている。近隣台地で麻(あるいは桑)が栽培されていて、糸だけでなく布が生産されていたものと想定される。
・紡錘車出土住居趾からの金属製品出土が少ないことから、機織は専業的に行われていたと考えられる。
・紡錘車出土住居趾から玉類等の出土が多く、機織に従事した住居(家族)は他より富を持っていたと想定される。
・機織は稼げる生業であった可能性が高い。
2015.02.22記事「上ノ台遺跡 紡錘車出土と機織り」参照

ウ 牧畜
・1軒の住居趾内から牛骨(上顎の歯9乃至10個、下顎の歯4個、脛骨切断品1個)が検出されている。
・この検出はこの遺跡で殺牛・祭神・魚酒が行われたことを示している。
・奈良時代に隣接砂丘が浮島牛牧であったと想定されることから、古墳時代においてもその始源牛牧がすでに存在してたと考えられる。
・牛牧畜が上ノ台遺跡の稼げる生業の筆頭であった可能性がある。
・牛牧畜の現場技術は西日本を経由してやってきた集団が担っていたのではないかと仮想定した。
2015.02.24記事「上ノ台遺跡 軍需品としての牛、殺牛・祭神・魚酒」参照
2015.02.25記事「地名「幕張」の語源」参照
2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源」参照
2015.03.02記事「上ノ台遺跡と牛牧に関する仮想定」参照

エ 狩猟
・住居趾内から鹿骨や鉄鏃が検出されていて狩猟をおこなったことは確認できる。
・重きを置く生業であったとは考えられない。

オ 漁業
・覆土層から貝層が検出された住居趾が55軒にのぼり、廃滅住居趾がゴミ捨て場として利用された跡であると考えられる。
・ハマグリ、シオフキの出現頻度が圧倒的に高く、漁場は近くの東京湾北東岸である可能性が高い。
・貝層の分析から、貝は集落内でおかずとして利用されたもので、交易品等になることは無かったと考えられる。
・魚骨の出土は4住居趾に限定されていることから、魚骨が残るほどの中大型魚はほとんど獲られていなかったと考えられる。
・釣りや個人利用規模の網漁につかうと考えられる土錘が141軒の住居趾から出土していて、多くの住民が自らの食事用に小型魚を獲っていた可能性が高い。
・鉄釣針が2軒の住居趾から出土している。
・このような情報から、住民個人個人が行う活動により貝や小型魚が漁獲され、動動物タンパク源として重要な役割を果たしていたことが考えられるが、専業的漁業活動は低調であったと考えられる。
2015.02.17記事「上ノ台遺跡の生業と漁業活動」参照
2015.02.18記事「上ノ台遺跡 土錘出土地点分布」参照

カ 石製模造品作製
・滑石未製品が多出する住居趾が4軒あり滑石模造品作製工房であると考えられる。周辺に準工房と考えらえる住居趾もある。
・西隣するAB調査区にも3軒の滑石模造品作製工房が見つかっている。
・これらの住居趾は遺跡西側からAB地区の連続する「滑石製品作製工房地帯」を成している。
・こうした事実から、上ノ台遺跡(集落)の統治支配者(つまり花見川・浜田川流域圏の統治支配者)が自ら居住する拠点で工房をつくって滑石模造品を量産させ、統治支配地域の住民に配布して権力基盤を強化したものと想像できる。産業の一種であった。
2015.02.20記事「上ノ台遺跡 滑石模造品工房」参照
2015.02.21記事「上ノ台遺跡 玉類等出土住居趾の意義」参照

キ 鍛冶
・鍛冶関連遺物が4軒の住居趾から検出されている。
・上ノ台遺跡(集落)内で使う鉄製品を作製していたと考える。
2015.02.13記事「上ノ台遺跡報告書を閲覧し、鍛冶遺跡があることに気がつく」参照
2015.02.23記事「上ノ台遺跡 鍛冶遺物出土住居趾」参照

ク 支配統治業務
・上ノ台遺跡は前方後円墳のある東鉄砲塚古墳群対応していて、花見川・浜田川流域圏の統治拠点であったと推察している。
・掘立柱建物址は倉庫に、柱穴群は望楼に、小竪穴遺構は烽火通信施設に仮想できることから、高度な支配統治機能が存在していたと推察する。
2015.03.04記事「上ノ台遺跡 支配統治機能に関する仮想」参照
2015.03.05記事「上ノ台遺跡 望楼(仮想)からの風景」参照

2 上ノ台遺跡の年代
「千葉・上ノ台遺跡 本編3」(千葉市教育委員会)の須恵器解説に、須恵器出土量の編年グラフが掲載されています。この編年グラフとその説明文から上ノ台遺跡のおおよその年代を知ることができます。

上ノ台遺跡時期別須恵器出土数
「千葉・上ノ台遺跡 本文編3」(1983、千葉市教育委員会)より引用、書き込み

上ノ台遺跡は出土須恵器の時期と量から、集落としてのピークは6世紀中頃と7世紀第1四半期の2回あったと考えられます。

【メモ】
上ノ台遺跡は古墳時代を最後に消滅してしまう理由は、1でまとめた上ノ台遺跡の生業の特性の中に内臓されているように思えて仕方がありません。
花見川-平戸川筋の古墳時代検討の後、奈良時代検討を行い、その時上ノ台遺跡消滅の理由がはっきりわかると思います。

現時点では上ノ台遺跡消滅は次のようにイメージしています。

古墳時代に存在した花見川・浜田川流域圏は一種の小独立国であり、現代企業社会に喩えればオーナー社長がいる中小企業みたいなものです。

律令国家が出来て中央集権的な国家体制が出来た時、花見川・浜田川流域圏は小独立国としは解体されたのだと思います。中小企業が巨大企業に吸収されてしまい、オーナー社長は支店の下の数ある出張所の所長に格下げされてしまったのだと思います。

牛牧という生産拠点や花見川河口津というインフラは蝦夷戦争における戦略的位置づけが行われ、国家中央の直轄管理下に移行したのだと思います。

国家中央から見れば、牛牧や花見川河口津はそれを現場で運営している技術集団を取り込んで直轄管理すればよいのであって、現場技術集団の上前をはねていた上ノ台遺跡(集落)は切り捨てればよかったのだと思います。

そのような激変の中で、牛牧や花見川河口津を失った上ノ台遺跡は集落としての意義を失ったのだと思います。

3 追補 滑石製品作製工房地帯
2015.02.20記事「上ノ台遺跡 滑石模造品工房」の中で、滑石製品作製工房地帯を図示しましたが、西隣A地区に発見された3軒の工房住居址の位置がわかりましたので、地図を次のように正確に書き直しました。

滑石製品作製工房地帯のイメージ(情報追補)
A地区滑石製品作製工房址の情報は「千葉市上ノ台遺跡-国鉄幕張電車基地建設工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告-」(1973、日本国有鉄道東京第一工事局・財団法人千葉県都市公社)による

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