鳴神山遺跡や萱田遺跡群の墨書土器の文字の意味を推定してきて、墨書土器が神との交信装置であるという認識を強めていますので、その認識の現時点概要をメモておきます。
墨書土器が発生した頃に次の2つの新鮮な驚き(感動、喜び)が存在していたものと考えます。
●文字の存在を初めて知った驚き(感動、喜び)
●文字を土器に書いて、それを神との交信装置に変えることができることを知った驚き(感動、喜び)
その説明をします。
1 自分の思考を「文字」という手段で表現できるという驚き(感動、喜び)
奈良時代の印旛浦開発地の人々に、祈願内容を「文字」にできるという驚き(感動、喜び)があったと考えます。
萱刈り取り(萱生産)を職務とする集団に属する個人を想定した場合、次のような状況があったと考えます。
kaya(かや)と声(音)で発し、例えば次の写真のようなイメージを浮かべることができる個人が、
萱のイメージ(例)
その音とイメージを次の文字で表現できることは驚き(感動、喜び)であったと考えます。
萱(草)のデザインされた象形文字
萱(草)の文字
つまり思考世界の事象を客観的に他者に伝わるように物体上に書くことができ、それは自分の存在とは独立して存在できるということを初めて知った人の驚き(感動、喜び)は大きなものがあったと考えます。
2 祈願内容を「文字」にして、神に客観的に提示して、祈願できるという驚き(感動、喜び)
単なる食器であった土器に、祈願内容を「文字」で書くことにより、生身の自分とは独立した別の物体上に祈願内容を存在させ、それをもって神に直接提示できる(祈願できる)ということは驚き(感動、喜び)であったと考えます。
そしてその装置を使って実際に神と交信できるということを知った時、それは人々にとってさらに大いなる驚き(感動、喜び)であったと考えます。
神との交信装置としての墨書土器(萱(草)増産祈願の例)
墨書土器が神との交信装置であったということは次のように説明できます。
●特定祈願内容を「文字」で土器に墨書する。(特定祈願内容のための神との交信装置づくり)
●その墨書土器に酒や魚を入れてお供えとし、特定祈願内容を祈願する。(手を合わせるなどの動作をともなって祈願していたと考えます。恐らく、日常生活で毎日継続して長期間この祈願行為が行われていたと考えます。食事ごとに盛った飲食物を最初に祈願に使い、その後それを食べたのかもしれません。)(これが人→神への交信です。)
●特定祈願内容が成就する。(組織活動のプロジェクトが完了した時、大きな仕事が完了した時、その年の収穫が終わった時などが特定祈願内容が成就した時です。)(これが神→人への交信です。)
●墨書土器を打ち欠く。(特定祈願内容の祈願に区切りをつける。)
(墨書土器という神との交信装置をつかって祈願したおかげでその特定祈願内容が成就したのですから、組織活動集団として神に大いなるお供え物をして感謝し、そのお供え物を墨書土器で食べ(酒宴)、最後に墨書土器そのものも役割が終わったので打ち欠いた(破壊した)と考えます。墨書土器の打ち欠きは、神との契約では犠牲が必要であるという気持ちが背景にあると考えます。)
3 律令国家による墨書土器風習の利用
文字というものが、それを初めて知る大衆にとっては驚くべき感動と喜びを与えるものであり、さらに墨書土器にするとそれが神との交信装置になり、祈願内容が成就するという文字の魔力(威力)に着目してそれを利用したのが律令国家であったと考えます。
律令国家は官人を先兵として、蝦夷戦争の軍事兵站・輸送基地で働く大衆に墨書土器風習を広め、組織活動の強化に使ったのだと考えます。
銙帯(官人着用品)出土と墨書土器出土の分布がほぼ一致していることがこのような考えを支持します。
土器は生活実用品としての意義だけでなく、労務管理上必須アイテムの墨書土器として使うという意義も併せて持った消耗品であると考えます。
したがって、奈良時代には、律令国家のプロジェクトがあった開発地では、土器は生活実用品として必要な分量以上に多量に生産されていたと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿