この記事ではⅣ期(縄文時代中期中葉)の貝塚について学習します。
1 図書の記述
学習している図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図と説明文が示されています。
Ⅳ期(縄文時代地中期中葉) 貝塚分布図
説明文
Ⅵ期とともに県内に大規模な集落・貝塚が最も多く形成された時期である。
分布図をみると、矢切低地から海老川低地付近と、都川低地・村田川低地付近の2つの極が存在し(図5)、奥東京湾沿岸や古鬼怒湾中央部から湾口部には、ややまばらだが一定の距離をおきながらまとまっている。
分布図には貝塚を伴わない大規模な広場集落、またはそれを含む遺跡群も示している。
この時期の遺跡群は、広場集落がひとつないし2つあって、その周辺にのみ小規模な集落が点在して遺跡群を形成するのが特徴である。
この状況は、これまで説明されてきた大規模な貝塚集落の周囲の広域に多数の小規模集落や包含層が分布するというものとはかなり違っている。
いわゆる「加曽利E式期」は,Ⅳ期とⅤ期というまったく居住様式の異なる時期にまたがっており、両者を一括した分布図や説明によって誤解を生んできたといえる。
広場集落の大半は貝層を形成しており、ほぼ阿玉台Ⅲ期ないし中峠期から加曽利EⅢ式土器の成立前後まで、という集落の継続期間や、広場と群集貯蔵穴をもつ集落形態、多数の遺構内貝層、イボキサゴや小型ハマグリ中心の貝層、多量の土器片錘、石器組成など共通点が多く、きわめて均一性が高い。
Ⅲ期の広場集落には定住的な特徴と、頻繁な移動を想定させる特徴を併せもっていたが、Ⅳ期の集落は長期にわたる通年定住型の集落とみてよいだろう。
東京湾沿岸の大型貝塚の意味については、これまでに幾つかの説明が与えられてきたが、現在に至るまで長い間中心的な理論となってきたのは、「大型貝塚=干貝加工場説」である。
要約すると、大規模な貝層は、春の大潮などに複数の集落が共同で干貝加工を行ったために形成されたものであり、計画的で恒常的な食料の確保が集落の定着・集中・大型化をもたらしたとするものである(文献2)。
しかし、ほぼ全体の様子が判明している千葉市緑区有吉北貝塚の分析結果から、別の意見も提示されている(文献13)。
さまざまな分析結果から、生業や食事のバランスは魚貝類に偏ってはおらず、堅果類・イモ類等の植物、陸獣などを含めた多種の食材を運び込む点に特徴があると考えられた。
また、貝類の採取は一年中、日常的に行われた可能性が高い。
これは、干貝加工場とみられる東京都北区中里貝塚とはまったく異なっている。
このような点から、大規模な貝層は長期間にわたる貝類の日常的な利用によるとする見解である。
イボキサゴや小型ハマグリは保存加工が容易であることも確かであるが、むしろ一年中毎日のように生の貝が入手できる点に価値があったと考える。
さらに、植物質食材を使った鍋料理が安定化・日常化したことに伴って、うまみや塩味が加えられる調味食材として貝の需要が高まったのではないか、というものである。
今後議論していく段階にあるので、2つの論を併記しておく。
2 記述理解のための分布図調整
図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。
Ⅳ期貝塚分布図
この分布図調整により、図書記述をより具体的に理解することができました。
またこの分布図には貝塚を伴う集落だけでなく貝塚を伴わない主な集落もプロットされています。
ですからこの時期の縄文人社会の様子をそれなりにイメージすることが可能となります。
3 疑問・興味
●貝塚集落と貝塚を伴わない集落の関係がどのようなものであったのか、特段に強い興味を持ちます。
貝塚を伴わない少数の集落が多数の貝塚集落近隣に寄り添うように分布しています。
この分布の様子から次のような想像をしましたので、今後その想像がどの程度確からしいか学習の中で検証したいと思います。
【貝塚集落と貝塚を伴わない集落の関係】
・貝塚集落がその活動をしていく上で、自給自足的に得ることができない食料・道具・サービスなどが生じることがあると考えます。
そのような自給自足的に手当てできない食料・道具・サービスを貝塚をともなわない集落が提供して、その反対給付が海産物であったと考えます。
・貝塚を伴わない集落は漁業以外の生産活動を行うとともに交易・交流によって貝塚集落に必要とする食料・道具・サービスを提供していたのではないだろうかと考えます。
●下総台地中央に貝塚を伴わない集落が集中していて、縄文人グループとしての古鬼怒湾ネットワークと東京湾ネットワークの交流機能空間であったのではないかと空想します。
Ⅳ期(縄文時代中期中葉)の交流ルート(空想)
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