2017.06.21記事「大膳野南貝塚 後期集落学習 その1」のつづきです。
発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。
1 堀之内1 式期
「大膳野南貝塚縄文集落の最盛期で、貝塚を伴う環状集落が検出された。今回の調査で発見された遺構および各貝層(北・南・西)から出土した遺物の大半は本時期に属する。出土遺物等から本時期に属することが判明した主な遺構は、住居47軒、土坑61基、土坑墓1 基、屋外漆喰炉6 基、小児土器棺6 基、単独埋甕8 基を数える。また、出土土器が無文あるいは小片であったため、大枠として後期と判断した遺構( 1 ~ 3 号単独埋甕等)、出土遺物が僅少あるいは皆無なため、時期決定が出来なかった遺構の多くは本時期に属する可能性が高いものと考えられる。なお、掘立柱建物址と判断できる遺構は検出されなかった。」
「遺構の分布状態は、大きく台地縁辺部~斜面部にかけて住居が分布し、住居分布の内側に土坑群が位置している。可視的には、住居は台地の東側縁辺部~斜面部、中央部南側、西側縁辺部~斜面部にそれぞれ群在しており、これらは二重ないしは三重に重複する環状集落と推定される。また、J47・91・92号住などは斜面下部にまで展開している。集落規模は最大で東西径約120m(J47号住-J91号住)、南北径約150m(J 8号住-バクチ穴5 号住)に及ぶ。」
「前段階で開始された漆喰使用文化は本時期も継続しており、25軒の住居で漆喰炉が検出された。漆喰貼床はJ43号住で検出されているが、貼床範囲は炉址周辺のみで前段階のJ34・77・104号住で検出された漆喰貼床に比して小規模になっている。また、J63・105号住の2 軒の住居で廃屋儀礼と推定される環状の焼土堆積が検出された。稀有な事例として注目に値する鯨骨製骨刀はJ105号住の環状焼土堆積から出土した。貝層を伴う住居は19軒を数える。また、貝土坑は20基を数え、うち3 基では漆喰の堆積が確認された。」
「 埋葬関連の遺構としては廃屋墓(単葬、複葬)、土坑墓、小児土器棺等が検出された。廃屋墓のうち複葬となるものはJ18号住( 2 体)、J67号住( 4 体)、J74号住( 7 体)の3 軒である。」
堀之内1 式期集落
2 堀之内1 式期のメモ・考察
2-1 3家族集団が観察できると予想する
前時期の称名寺~堀之内1 古式期に大膳野南貝塚を創始した2大家系の存在を想定しました。
A、B2家家族が観察できる?
この視点で堀之内1式期の竪穴住居と貝層の分布をみると次のような3家族集団を想定できます。
A、B、C3家集団の関係が観察できるか?
貝層が3つ独立して存在していて、それに空間的関係が明瞭な竪穴住居が存在するのですから3つの集団が存在することは当然のことであると思います。
出土物等からこの3集団存在を検証する作業が楽しみです。
なお、発掘調査報告書ではこのような3集団区分という概念は記述されていないようです。
現時点で空想すれば、A家、B家は造成した貝層の大きさが近似していますから双方ともに漁業をメイン生業とし、対等関係にあった主要集落構成集団であると考えます。
C家集団は造成した貝層が貧弱です。同時にその形状が直線状であり「祖先に関係する祭祀・送り場」というような見立てが困難です。そこに直線をつくる(ことにより環状を完成させる)という意識が先に働いているように感じてしまいます。
C家集団とは言いましたが血族集団ではなく、混成集団かもしれません。また漁業に携わっていた割合は大変小さいのでA家集団やB家集団の活動をサポートするような生業・役割を果たしていたと考えます。集落の中で劣位であった集団であると考えます。
A、B家に対してC家が後から集落に入ってきたことが判りました。この事実からA家、B家の漁業における海との交通は台地東側の谷津を利用していた考えることができます。
台地東側の谷津を利用すれば東側の谷津より急坂が少なくなります。
2-2 環状イメージから外れた竪穴住居が存在する
集落が長期間の活動の中で環状を形成するように、当時の縄文人は意識していたと想像します。
西貝層が台地縁に細長く伸びる様子は、無理矢理そのような貝層を配置して何としてでも集落風景として環状イメージを持てるようしようという苦肉の策のように想像してしまいます。
さて、その環状イメージから外れた竪穴住居がいくつか存在します。
環状から外れる竪穴住居の意味は?
環状イメージから外れた竪穴住居には環状の中にあるもの、外にあるものが存在します。
環状イメージと外れてしまっても存在させた背景には明確な目的・機能が存在したと考えます。
集落風景づくり以上に重要な実利的意味がそこに見つかるに違いないと考え学習を進めます。
つづく
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