花見川河川争奪を知る38 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説13
3期地形横断復元6
ア 天明期までの普請による掘削深
天保期堀割普請ではモデル断面付近での掘削深は4.5mでした。
天明期までの掘削深は組織力や財力が劣り天保期以上の掘削は行われなかったと推測します。
そこで、このブログでは天明期までの掘削深を天保期と同じ4.5mと仮に想定します。
この場合、天保期の谷底の高さ10.44mですから、普請以前の自然地形としての谷底の高さは10.44+4.5=約15mとなります。
イ モデル断面における古柏井川地形の推測
これまでの検討で、柏井付近で、北流する流れで形成された河岸段丘が普請盛土の下に隠れ、途中18.4m、17.1mの高さに谷壁斜面が存在し、横戸付近で流れに沿う方向で連続している地形面が存在し、それが千葉面に連続するという事実を報告してあります。
この事実から、古柏井川の地形が次のように対比されるものとして、模式的関係を推測します。
地形面の模式的対比(仮想)
この模式的対比は実証したものではありません。
ウ 3期地形横断復元
上記ア、イの推測を踏まえ次に3期地形横断復元図を作成しました。
天明期盛土と3期地形横断の推測図
多くの仮定を積み重ねてはいますが、3期(河川争奪後~普請前)の地形横断復元は概念的、原理的な次元ですが、できたと考えます。
3期の地形横断は15m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に谷底が、18m付近(あるいはそれより2~3m低いところ)に段丘があり、西岸に広がる広い谷であったと考えられます。
天明期普請までは、土工量の少ない西岸を中心とする掘削が行われ、18m付近段丘上に盛土がなされたと考えられます。しかし、その時点まではまだ広い谷の印象をもつことができる形状であったと考えられます。
2011年11月10日木曜日
2011年11月9日水曜日
天保期普請前後の地形横断復元 続続続
花見川河川争奪を知る37 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説12
3期地形横断復元5
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oryzasan氏からコメント「花見川の河川争奪に関して3」をいただきました。このコメントをページにそのままアップしましたのでお知らせします。oryzasan氏に感謝します。このコメントに対する私の感想は後日記事にしてこのブログに掲載します。(2011.11.9)
……………………………………………………………………
前記事で作成した堀割断面図(標高、実際掘削深入)を左右反転し、作成してある地形横断図と同じスケールに縦、横ともに変えて、その中に入れ込みました。
地形横断図+堀割断面図
堀割断面図に示される天保期普請の掘削部分が大正6年測量旧版地形図による断面線にピタリとはまりました。
天保期の資料と戦前の地形資料の対応がつきました。
この作業図上で天保期普請の掘削部分を強調した図を次に示しました
地形横断図+堀割断面図(天保期掘削部分強調)
次に天保期普請の掘削部分のみを残して堀割断面図を消去しました。
地形横断図の中に天保期の掘削部分をプロットした図になります。
地形横断図(天保期掘削部分プロット) 天保期地形を抜き出して、地形横断図にプロットしたものが、次の図です。
地形横断図(天保期普請前地形プロット)
天保期普請前の地形が復元されたことは画期的であると思います。
この地形は天明期普請後の地形を表しています。
天明期(及びその前の享保期)普請の実態は明らかではありませんが、天保期普請の実態が明らかになったので、類推することが可能になりました。
したがって、あと1歩(天明期までの普請実態の類推)で3期地形の復元が可能となります。
3期地形横断復元5
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oryzasan氏からコメント「花見川の河川争奪に関して3」をいただきました。このコメントをページにそのままアップしましたのでお知らせします。oryzasan氏に感謝します。このコメントに対する私の感想は後日記事にしてこのブログに掲載します。(2011.11.9)
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前記事で作成した堀割断面図(標高、実際掘削深入)を左右反転し、作成してある地形横断図と同じスケールに縦、横ともに変えて、その中に入れ込みました。
地形横断図+堀割断面図
堀割断面図に示される天保期普請の掘削部分が大正6年測量旧版地形図による断面線にピタリとはまりました。
天保期の資料と戦前の地形資料の対応がつきました。
この作業図上で天保期普請の掘削部分を強調した図を次に示しました
地形横断図+堀割断面図(天保期掘削部分強調)
次に天保期普請の掘削部分のみを残して堀割断面図を消去しました。
地形横断図の中に天保期の掘削部分をプロットした図になります。
地形横断図(天保期掘削部分プロット) 天保期地形を抜き出して、地形横断図にプロットしたものが、次の図です。
地形横断図(天保期普請前地形プロット)
天保期普請前の地形が復元されたことは画期的であると思います。
この地形は天明期普請後の地形を表しています。
天明期(及びその前の享保期)普請の実態は明らかではありませんが、天保期普請の実態が明らかになったので、類推することが可能になりました。
したがって、あと1歩(天明期までの普請実態の類推)で3期地形の復元が可能となります。
2011年11月8日火曜日
余談
趣味としての花見川散歩の一環として、興味の湧き出た事柄に関する資料を古書店等から購入しています。
所持しておきたいもので、ささやかな予算に合致するものをWEBで見繕って購入します。
吉田東伍「大日本地名辞書 坂東」や織田完之「印旛沼経緯記」は影印復刻本の古書を格安で購入しました。
双方とも趣味活動に役立っており、知的好奇心を掻き立てくれます。
先日、吉田東伍「利根治水論考」をWEBで¥3100-で購入申し込みしました。
影印復刻本古書の平均的値段の半値以下です。
原本古書と比べると5分の1以下です。
カバーがボロボロとか他の古書店のラベルが貼ってあるとか、欠点が長文で書いてありました。
当然ながら、影印復刻本の状態の悪いものだと思いました。
しかしそれが最安値であり、また情報が判ればそれでよいので、躊躇なくクリックして購入しました。
本日それが宅急便で到着し、開いて驚きました。
明治43年発行の原本です。
発行所日本歴史地理学会、発売所三省堂書店、定価金一円です。
奥付には三省堂の丸印まで押してあります。書き込みなども一切ないものでした。
なにか、得はしたけれどすこし後ろめたいような、妙な感覚になりました。
古書店サイドが十分に確認しないで影印復刻本として取り扱った結果だと直感しました。
私は、発行所が日本歴史地理学会となっているので、その名称から戦後の復刻本と誤判断しました。
古書店も現物確認を怠り、同じ間違いをしたものと推察します。
拾い読みすると、天保期普請と利根川治水との関連について国策レベルの議論も書いてあり、じっくり読んでみたいと思いました。
古書を読んだ後は必ず手を洗いませう。
所持しておきたいもので、ささやかな予算に合致するものをWEBで見繕って購入します。
吉田東伍「大日本地名辞書 坂東」や織田完之「印旛沼経緯記」は影印復刻本の古書を格安で購入しました。
双方とも趣味活動に役立っており、知的好奇心を掻き立てくれます。
先日、吉田東伍「利根治水論考」をWEBで¥3100-で購入申し込みしました。
影印復刻本古書の平均的値段の半値以下です。
原本古書と比べると5分の1以下です。
カバーがボロボロとか他の古書店のラベルが貼ってあるとか、欠点が長文で書いてありました。
当然ながら、影印復刻本の状態の悪いものだと思いました。
しかしそれが最安値であり、また情報が判ればそれでよいので、躊躇なくクリックして購入しました。
本日それが宅急便で到着し、開いて驚きました。
明治43年発行の原本です。
発行所日本歴史地理学会、発売所三省堂書店、定価金一円です。
奥付には三省堂の丸印まで押してあります。書き込みなども一切ないものでした。
なにか、得はしたけれどすこし後ろめたいような、妙な感覚になりました。
古書店サイドが十分に確認しないで影印復刻本として取り扱った結果だと直感しました。
私は、発行所が日本歴史地理学会となっているので、その名称から戦後の復刻本と誤判断しました。
古書店も現物確認を怠り、同じ間違いをしたものと推察します。
拾い読みすると、天保期普請と利根川治水との関連について国策レベルの議論も書いてあり、じっくり読んでみたいと思いました。
古書を読んだ後は必ず手を洗いませう。
天保期普請前後の地形横断復元 続続
花見川河川争奪を知る36 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説11
3期地形横断復元4
ウ 天保期堀割普請の実際掘削深
モデル断面の位置を続保定記の絵図で確認すると、次のようになります。
続保定記の絵図(モデル断面付近)(赤線、赤字記入)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
図中のちょうどこの位置に次の文字が書き込まれています。
「六十二番 上口ヨリホリシキマテ 十五丈七尺五寸」(「天保期の印旛沼堀割普請」口絵4-12説明による)
モデル断面付近が62番杭の近くであることは間違いありません。
上記文字は「六十二番 上口(杭)より堀敷まで 十五丈七尺五寸」の意味だと考えられます。
堀割断面図から、上口杭から堀敷までは7丈8尺2寸ですから合いません。
堀割断面図には「上口サシ渡十五丈壹尺二寸五分」とあります。
おそらくこの東西の上口杭サシ渡の寸法と本来の数値(7丈8尺2寸程度)を取り違え、誤記したものと考えられます。
よく見ると、「上口」、「中上口」と書かれた杭と無名の杭3本が見えます。
それらの杭の古堀筋との関係は堀割断面図(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)のそれとよく一致しますので、堀割断面図が62番杭付近と対応していることを確認できます。
(逆に、この絵図に杭位置が正確に描かれていることでこの絵図の正確描写性と、この絵図に描かれているのが普請途中の姿であることが判ります。)
絵図と堀割断面の杭の対比
絵図は天地逆転してあります。
古堀筋の東岸寄りに流路を設定し、東岸の掘削の方が多いようになる杭が打たれています。この理由は追って行う検討と関連しますが、西岸より東岸の方が工事がしやすい事情があったものと推察します。
ここでは東岸と西岸の何らかの特性の違いが工事に反映しているという事実だけを指摘しておきます。
また、絵図の地形の描き方をよく見ると、山脚部の描き方が明らかに異なります。この点も追って検討します。
堀割普請直後の安政年間に三木周蔵が行った堀割精査の図解資料が残っています。
この図解資料を見ると、杭62番における掘り分と掘り残し分がわかります。
堀割精査図解資料
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
62番の水面下計画掘削深は3丈2尺5寸(約9.85m)であり、実際には1丈8尺(約5.45m)を掘り、1丈4尺5寸(約4.40m)残ったことが記録されています。
55%掘ったことになります。
この結果を丸めて、モデル断面では50%の深さまで実際に掘ったと考えると、堀割断面図は次のようになります。
堀割断面図(標高、実際掘削深記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
堀床の標高は5.90mであり、斜面は1割1分程度の勾配となります。
3期地形横断復元4
ウ 天保期堀割普請の実際掘削深
モデル断面の位置を続保定記の絵図で確認すると、次のようになります。
続保定記の絵図(モデル断面付近)(赤線、赤字記入)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
図中のちょうどこの位置に次の文字が書き込まれています。
「六十二番 上口ヨリホリシキマテ 十五丈七尺五寸」(「天保期の印旛沼堀割普請」口絵4-12説明による)
モデル断面付近が62番杭の近くであることは間違いありません。
上記文字は「六十二番 上口(杭)より堀敷まで 十五丈七尺五寸」の意味だと考えられます。
堀割断面図から、上口杭から堀敷までは7丈8尺2寸ですから合いません。
堀割断面図には「上口サシ渡十五丈壹尺二寸五分」とあります。
おそらくこの東西の上口杭サシ渡の寸法と本来の数値(7丈8尺2寸程度)を取り違え、誤記したものと考えられます。
よく見ると、「上口」、「中上口」と書かれた杭と無名の杭3本が見えます。
それらの杭の古堀筋との関係は堀割断面図(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)のそれとよく一致しますので、堀割断面図が62番杭付近と対応していることを確認できます。
(逆に、この絵図に杭位置が正確に描かれていることでこの絵図の正確描写性と、この絵図に描かれているのが普請途中の姿であることが判ります。)
絵図と堀割断面の杭の対比
絵図は天地逆転してあります。
古堀筋の東岸寄りに流路を設定し、東岸の掘削の方が多いようになる杭が打たれています。この理由は追って行う検討と関連しますが、西岸より東岸の方が工事がしやすい事情があったものと推察します。
ここでは東岸と西岸の何らかの特性の違いが工事に反映しているという事実だけを指摘しておきます。
また、絵図の地形の描き方をよく見ると、山脚部の描き方が明らかに異なります。この点も追って検討します。
堀割普請直後の安政年間に三木周蔵が行った堀割精査の図解資料が残っています。
この図解資料を見ると、杭62番における掘り分と掘り残し分がわかります。
堀割精査図解資料
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
62番の水面下計画掘削深は3丈2尺5寸(約9.85m)であり、実際には1丈8尺(約5.45m)を掘り、1丈4尺5寸(約4.40m)残ったことが記録されています。
55%掘ったことになります。
この結果を丸めて、モデル断面では50%の深さまで実際に掘ったと考えると、堀割断面図は次のようになります。
堀割断面図(標高、実際掘削深記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
堀床の標高は5.90mであり、斜面は1割1分程度の勾配となります。
2011年11月7日月曜日
天保期普請前後の地形横断復元 続
花見川河川争奪を知る35 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説10
3期地形横断復元3
イ 天保期堀割普請の計画河床高
印旛沼から東京湾に水を自然流下させる施設を作るのですから、天保期堀割普請では「計画河床高」と同じ概念で各地点の河床高を決めていることは確実です。
その値は幕府が打った杭から掘削深○丈○尺○寸で示されています。
しかし、現在となっては杭はなく、計画河床高の標高はわからないようです。
幕府は印旛沼堀割普請に先立つ天保14年(1743)に勘定組頭の五味与三郎と勘定の楢原謙十郎に印旛沼古堀筋を調査させました。
この調査報告書では平戸村印旛沼落口水底と海面との高低を取調べ、延長が9593間(17.46㎞)で「壹丈貮尺三寸餘低ク」(約3.73m低く)「勾配百間ニ付壹寸貮分」(約0.019%勾配)としています。
また印旛沼口水面と海面との高低差「壹丈六尺餘低ク」(約4.85m低く)からは、「百間ニ付勾配壹寸六分餘ニ相當リ申候」(0.026%勾配)としています。
天保14年事前調査報告書の一部
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])
天保期堀割普請では、この報告書による勾配を基に他の要素(渇水や干潮に対する舟の喫水深確保等)も加え、堀床の高さ(計画河床高)を決めたものと考えられます。
次の図は織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載の印旛沼開鑿線路高低実測縮図です。
印旛沼開鑿線路高低実測縮図
織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
明治中期に織田完之が堀割普請跡を実測し、想定した水底線(計画河床高)を描いたものです。
水底線の高さは、起点となる印旛沼口では平戸の最低水(位)より下6尺4寸1分(約1.94m下)、終点となる地先海では平均干潮より下6尺(約1.8m下)としています。
渇水や干潮時の舟の喫水深を考慮して、起終点を直線で結んでいます。
その比高は7尺6寸2分(約2.3m)です。
このブログでは上記織田の印旛沼開鑿線路高低実測縮図の水底線の勾配を使って、便宜的に東京湾0m、印旛沼口2.3mを結ぶ地形縦断直線を設定しました。
その直線を基にして、東京湾からの距離を用いた内挿法により、モデル断面の標高を求め、その値を堀床標高(計画河床高)と仮定しました。
結果は次の通りです。
便宜的に仮定したモデル断面の堀床標高=1.35m
次の図は、三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)に掲載されているもので、天保期堀割普請の計画河床高等がグラフ化されています。
この計画河床高の算定方法はこの書には出ていませんが、このグラフから読み取れる値は、このブログで便宜的にもとめた上記の値と近似した結果となっています。
「運河再興の計画」収録グラフ
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)
モデル断面の堀床標高を設定できたので、この数値をモデル断面付近であることが想定される前記事掲載の堀割断面図に反映させてみました。
堀割断面図(標高記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
3期地形横断復元3
イ 天保期堀割普請の計画河床高
印旛沼から東京湾に水を自然流下させる施設を作るのですから、天保期堀割普請では「計画河床高」と同じ概念で各地点の河床高を決めていることは確実です。
その値は幕府が打った杭から掘削深○丈○尺○寸で示されています。
しかし、現在となっては杭はなく、計画河床高の標高はわからないようです。
幕府は印旛沼堀割普請に先立つ天保14年(1743)に勘定組頭の五味与三郎と勘定の楢原謙十郎に印旛沼古堀筋を調査させました。
この調査報告書では平戸村印旛沼落口水底と海面との高低を取調べ、延長が9593間(17.46㎞)で「壹丈貮尺三寸餘低ク」(約3.73m低く)「勾配百間ニ付壹寸貮分」(約0.019%勾配)としています。
また印旛沼口水面と海面との高低差「壹丈六尺餘低ク」(約4.85m低く)からは、「百間ニ付勾配壹寸六分餘ニ相當リ申候」(0.026%勾配)としています。
天保14年事前調査報告書の一部
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])
天保期堀割普請では、この報告書による勾配を基に他の要素(渇水や干潮に対する舟の喫水深確保等)も加え、堀床の高さ(計画河床高)を決めたものと考えられます。
次の図は織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載の印旛沼開鑿線路高低実測縮図です。
印旛沼開鑿線路高低実測縮図
織田完之著「印旛沼経緯記内編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
明治中期に織田完之が堀割普請跡を実測し、想定した水底線(計画河床高)を描いたものです。
水底線の高さは、起点となる印旛沼口では平戸の最低水(位)より下6尺4寸1分(約1.94m下)、終点となる地先海では平均干潮より下6尺(約1.8m下)としています。
渇水や干潮時の舟の喫水深を考慮して、起終点を直線で結んでいます。
その比高は7尺6寸2分(約2.3m)です。
このブログでは上記織田の印旛沼開鑿線路高低実測縮図の水底線の勾配を使って、便宜的に東京湾0m、印旛沼口2.3mを結ぶ地形縦断直線を設定しました。
その直線を基にして、東京湾からの距離を用いた内挿法により、モデル断面の標高を求め、その値を堀床標高(計画河床高)と仮定しました。
結果は次の通りです。
便宜的に仮定したモデル断面の堀床標高=1.35m
次の図は、三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)に掲載されているもので、天保期堀割普請の計画河床高等がグラフ化されています。
この計画河床高の算定方法はこの書には出ていませんが、このグラフから読み取れる値は、このブログで便宜的にもとめた上記の値と近似した結果となっています。
「運河再興の計画」収録グラフ
三浦祐二・高橋裕・伊澤岬編著「運河再興の計画 房総・水の回廊構想」(彰国社刊)
モデル断面の堀床標高を設定できたので、この数値をモデル断面付近であることが想定される前記事掲載の堀割断面図に反映させてみました。
堀割断面図(標高記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
2011年11月6日日曜日
天保期普請前後の地形横断復元
花見川河川争奪を知る34 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説9
3期地形横断復元2
その2 天保期普請前後の地形横断復元
ア 天保期普請堀割断面図
前記事で戦後の印旛沼開発工事前の地形横断を復元できました。
そして、その谷底地盤高は測量目的の違いや110年間の土砂流入により、天保期普請で実際に掘削した深さよりも高いことを述べました。
この記事では、天保期普請の実際の掘削深を検討します。
次の図は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵に掲載されている堀割断面図です。
堀割断面図
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
この断面資料は堀床幅員が7間、掘削法面の勾配が1割(*)となっており、工事途中の見積作成のための資料であると考えられます。
当時の測量結果による地形現況を正確に反映した資料です。
この断面図の具体的な地点はわかりませんが、掘削深3丈の記載と庄内藩関係文書であることから高台付近(このブログのモデル断面付近)であることは間違いありません。
見積付属資料と考えられるので、庄内藩工区の代表的模式断面を表現しようとしている可能性もあります。
*「1寸勾配下」と記述してあり、「1割勾配下」と書くべきところを誤記していると考えられます。
(1寸勾配[水平距離10につき垂直距離1の勾配]と1割勾配[垂直距離1に対して水平距離1の勾配]では全く勾配が異なります。)
実際の掘削工事は堀床10間幅員、法面勾配2割でスタートし、工事途中に堀床幅員7間、法面勾配1割の見積を提出し、最終的には堀床幅員7間、法面勾配1割5分(庄内藩工区)となりました。
この図から、天保期堀割普請の時には享保期・天明期堀割普請による谷地形が在ったことが、具体的に判ります。
同時に当時の計画河床高の標高が判れば、この断面を現在の地形横断図と対比することも可能になります。
次に堀割断面図の数値をメートル法に換算して書き込んだ図を掲載します。
(1丈:3.03m、尺:0.30m、寸:0.03m、間:1.82mとして換算)
堀割断面図(メートル法換算値記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
3期地形横断復元2
その2 天保期普請前後の地形横断復元
ア 天保期普請堀割断面図
前記事で戦後の印旛沼開発工事前の地形横断を復元できました。
そして、その谷底地盤高は測量目的の違いや110年間の土砂流入により、天保期普請で実際に掘削した深さよりも高いことを述べました。
この記事では、天保期普請の実際の掘削深を検討します。
次の図は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵に掲載されている堀割断面図です。
堀割断面図
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
この断面資料は堀床幅員が7間、掘削法面の勾配が1割(*)となっており、工事途中の見積作成のための資料であると考えられます。
当時の測量結果による地形現況を正確に反映した資料です。
この断面図の具体的な地点はわかりませんが、掘削深3丈の記載と庄内藩関係文書であることから高台付近(このブログのモデル断面付近)であることは間違いありません。
見積付属資料と考えられるので、庄内藩工区の代表的模式断面を表現しようとしている可能性もあります。
*「1寸勾配下」と記述してあり、「1割勾配下」と書くべきところを誤記していると考えられます。
(1寸勾配[水平距離10につき垂直距離1の勾配]と1割勾配[垂直距離1に対して水平距離1の勾配]では全く勾配が異なります。)
実際の掘削工事は堀床10間幅員、法面勾配2割でスタートし、工事途中に堀床幅員7間、法面勾配1割の見積を提出し、最終的には堀床幅員7間、法面勾配1割5分(庄内藩工区)となりました。
この図から、天保期堀割普請の時には享保期・天明期堀割普請による谷地形が在ったことが、具体的に判ります。
同時に当時の計画河床高の標高が判れば、この断面を現在の地形横断図と対比することも可能になります。
次に堀割断面図の数値をメートル法に換算して書き込んだ図を掲載します。
(1丈:3.03m、尺:0.30m、寸:0.03m、間:1.82mとして換算)
堀割断面図(メートル法換算値記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
2011年11月5日土曜日
戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
花見川河川争奪を知る33 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説8
3期地形横断復元1
1 花見川河川争奪の成因を明らかにしたい。
→2 白鳥氏、oryzasan氏の考えに次いで、自分の考えを述べたい。
→3 自分の成因の考えの前に河川争奪現象そのものを明らかにしたい。
→4 河川争奪現象は江戸時代の堀割普請の盛土で隠されているので、まず堀割普請の実態を明らかにしたい。
→5 堀割普請の地形は戦後の印旛沼開発工事で掘削されているので、堀割普請の実態を明らかにする前提として、印旛沼開発工事の実態を知りたい。
という思考の入れ子状の連鎖の中で、もがきながら、この記事を書いています。
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形・古地理の復元に入りたいと思います。
検討はモデル検討地点を設定し、その地点における3期の地形横断を復元します。
この検討は次のステップで行います。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
↓
その2 天保期普請直後の地形横断復元
↓
その3 3期の地形横断復元
検討のためのモデル箇所は次の場所を設定しました。
モデル断面位置図
ベースマップは千葉市提供DM
データ 赤点は測線と等高線が交わる場所など高さを計測した場所です。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
ア 旧版地形図を利用した地形横断図の作成
旧版1万分の1地形図(「三角原」大正6年測量)より、地形横断図を作成しました。
作成方法は、測線と等高線が交わる場所等に赤点を打ち、その高度(あるいは内挿法による推計高度)と測線端からの距離を読み取り、エクセルのグラフ作図機能を利用して作成しました。
具体的なパソコン手作業方法は後日報告します。
地形横断図作成に用いた旧版地形図
イ 谷底の地盤高
谷底の地盤高は戦後の開発工事前の測量データが「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)に掲載されていますので、そのデータを利用しました。(具体的には、モデル断面の上下流の地盤測定値より、モデル断面の値を内挿法で求めました。)
印旛沼開発工事前の谷底の地盤高
ウ 戦後工事前の地形横断復元図
次に示すグラフがアとイにより作成した戦後の印旛沼開発工事前の地形横断復元図です。
グラフには印旛沼開発工事後(現在)の地形横断図も載せています。
戦後工事前の地形横断復元図
この図から戦後工事前後の地形横断の比較ができます。
戦後の印旛沼開発工事により谷壁斜面が、特に東岸(図で左岸)において削られていることを確認できます。
西岸(図で右岸)の盛土背後の残存谷壁斜面が現在埋め立てられていること(県立柏井高校敷地)がわかります。
注意すべきことは、この図の印旛沼開発工事前の谷底地盤高は、あくまでも掘削工事をするための地盤高測量の結果であるという点です。
測量した際、水路があっても(その水路にはある深さがあるわけですが)、その水路底の値はこの地盤高となんら関係しません。
水路底の高さは当然ながら地盤高より低い位置になります。
また、測量時は、堀割普請以後110年程度の時間が経っているので、普請当時の水路と周辺の谷底は斜面からの土砂流入により埋め立てられていることは確実です。
したがって、印旛沼開発工事前の谷底地盤高はそのまま堀割普請直後の掘削河床高を表現していません。
そこで、次の記事で天保期堀割普請直後の地形横断(特に掘削河床高)を復元します。
なお、現代の地形横断はDMデータから作成し、谷底の高さのみ印旛沼開発工事の計画「水路底高」を使っています。
3期地形横断復元1
1 花見川河川争奪の成因を明らかにしたい。
→2 白鳥氏、oryzasan氏の考えに次いで、自分の考えを述べたい。
→3 自分の成因の考えの前に河川争奪現象そのものを明らかにしたい。
→4 河川争奪現象は江戸時代の堀割普請の盛土で隠されているので、まず堀割普請の実態を明らかにしたい。
→5 堀割普請の地形は戦後の印旛沼開発工事で掘削されているので、堀割普請の実態を明らかにする前提として、印旛沼開発工事の実態を知りたい。
という思考の入れ子状の連鎖の中で、もがきながら、この記事を書いています。
3期(河川争奪後~堀割普請前)の地形・古地理の復元に入りたいと思います。
検討はモデル検討地点を設定し、その地点における3期の地形横断を復元します。
この検討は次のステップで行います。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
↓
その2 天保期普請直後の地形横断復元
↓
その3 3期の地形横断復元
検討のためのモデル箇所は次の場所を設定しました。
ベースマップは千葉市提供DM
データ 赤点は測線と等高線が交わる場所など高さを計測した場所です。
その1 戦後印旛沼開発工事前の地形横断復元
ア 旧版地形図を利用した地形横断図の作成
旧版1万分の1地形図(「三角原」大正6年測量)より、地形横断図を作成しました。
作成方法は、測線と等高線が交わる場所等に赤点を打ち、その高度(あるいは内挿法による推計高度)と測線端からの距離を読み取り、エクセルのグラフ作図機能を利用して作成しました。
具体的なパソコン手作業方法は後日報告します。
イ 谷底の地盤高
谷底の地盤高は戦後の開発工事前の測量データが「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)に掲載されていますので、そのデータを利用しました。(具体的には、モデル断面の上下流の地盤測定値より、モデル断面の値を内挿法で求めました。)
印旛沼開発工事前の谷底の地盤高
ウ 戦後工事前の地形横断復元図
次に示すグラフがアとイにより作成した戦後の印旛沼開発工事前の地形横断復元図です。
グラフには印旛沼開発工事後(現在)の地形横断図も載せています。
戦後工事前の地形横断復元図
この図から戦後工事前後の地形横断の比較ができます。
戦後の印旛沼開発工事により谷壁斜面が、特に東岸(図で左岸)において削られていることを確認できます。
西岸(図で右岸)の盛土背後の残存谷壁斜面が現在埋め立てられていること(県立柏井高校敷地)がわかります。
注意すべきことは、この図の印旛沼開発工事前の谷底地盤高は、あくまでも掘削工事をするための地盤高測量の結果であるという点です。
測量した際、水路があっても(その水路にはある深さがあるわけですが)、その水路底の値はこの地盤高となんら関係しません。
水路底の高さは当然ながら地盤高より低い位置になります。
また、測量時は、堀割普請以後110年程度の時間が経っているので、普請当時の水路と周辺の谷底は斜面からの土砂流入により埋め立てられていることは確実です。
したがって、印旛沼開発工事前の谷底地盤高はそのまま堀割普請直後の掘削河床高を表現していません。
そこで、次の記事で天保期堀割普請直後の地形横断(特に掘削河床高)を復元します。
なお、現代の地形横断はDMデータから作成し、谷底の高さのみ印旛沼開発工事の計画「水路底高」を使っています。
2011年11月3日木曜日
地形面の検討
花見川河川争奪を知る32 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説7
2011年10月31日記事「4期地形の把握とわかったこと」の続きです。
次の図は地形分類図(1949年時点)を現代のDMデータにオーバーレイしたものです。
弁天橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ア
アの平坦面は勝田川の河岸段丘で、oryzasan氏のコメントの付図では千葉第Ⅰ段丘と千葉第Ⅱ段丘に区分されています。
八千代市の歴史資料編自然Ⅱでは上位段丘をTP段丘面(東京軽石層を含む武蔵野ローム層以上を乗せる)、下位段丘をAT段丘面(姶良Tn火山灰を含む立川ローム層上部をのせる)としています。
空中写真を実体視するかぎり二つの地形面に区分できるような段差や斜面はみつからないで、標高10mから16mまでの、だらだらした緩勾配の平坦面になっています。
もしこのアの平坦面がoryzasan氏のいうように2つに区分できると、柏井付近の段丘面対比に好都合になるような気がしています。
イ
イの細長い平坦面と背後の小崖は現在埋め立てられて観察できません。
1949年空中写真では明瞭に観察でき、アの平坦面に連続しています。
その様子は過去の地形図で、埋立が進んでいますが、現在と比べればある程度はっきりとその存在を確認できます。
この細長い平坦面と崖の存在は、勝田川の千葉段丘を作った河川に支流が流入していたことを示しています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料1です。
ウ
ウの緩斜面の存在は盛土によってその下部が隠されていますが、谷地形の存在を暗示します。
谷地形の存在を想定して初めてこのような緩斜面の説明が可能になると思います。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料2です。
エ
エの急斜面は谷壁を示します。
この谷壁が流入支谷のものであるのか、本川の谷壁の一部であるのかは今後検討する必要があります。
DMデータから谷壁の最低点の標高が17.1mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料3です。
柏井橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
オ
オの急斜面と背後の緩斜面は流入支谷を示します。
下部は盛土によって隠されていますが、DMデータから谷壁の最低点の標高が18.41mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
この支谷の方向が北を向いており、本川も北を向いて流れていたことを暗示します。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料4です。
カ
カの河岸段丘(標高14m~16m)はその分布形状から前谷津の水流で形成されたことは確実です。
そして、北方向に流れた水流で形成されたことを強く示唆します。
谷全体の等高線も南にではなく、北方向に向かっていることが示されています。
段丘の北側は盛土で隠されています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料5です。
キ
キの河岸段丘(標高14m~18m)はその分布形状から花見川の本流筋で形成されたことは間違いありません。
その分布形状をよく見ると、前谷津の谷壁によって切られているように見えます。段丘形成後、その地点で流れを南転させるる前谷津の水流によって切られたという印象を受けます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料6です。
柏井橋~花島付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ク
クの段丘は標高が16m~20であり、それ以外の段丘より一段上にあります。
カやキの段丘と対比される高さの段丘と小崖で接しているところもあります。
河岸段丘には2面あることが暗示されます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料7です。
ケ
ケの緩斜面は小崖で境されながら低位の段丘や高位の段丘に接しています。
河成の浸食斜面のように捉えることができます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料8です。
コ
コの河岸段丘(標高12m~16m)存在をカやキの河岸段丘存在と一連のものとして(連続するものとして)捉えることが自然です。
コの河岸段丘はカやキの河岸段丘の上流にあたる部分として捉えることになります。
その場合高度が逆転しますから、地殻運動の影響を考慮しなければ説明できません。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料9です。
以上のア~コに示した9つの材料から、特にイとカの材料を中核理由として、花島付近から、前谷津・後谷津を合流して北流し、勝田川に合流する古柏井川の存在は確実であるといえます。
時代を知ることにも手が届きつつあると思います。
河川争奪存在の原理的証明は、地形的情報を集めた結果、完了したと思います。
その規模や形状の復元はさらに作業を進めれば詳らかになります。
わかりやすい平面図や断面図で表現する必要があると思います。
地形面の対比は、堆積物を観察し火山灰をキーとすれば、正確にできると思います。
そうなれば、時間の概念も導入できて、編年ができると思います。
勝田川の河岸段丘である千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘に、柏井付近の高位段丘と低位段丘が対比されるような結果になれば、美しいのですが。
柏井、花島付近に河岸段丘が発達する理由は、そこが河川争奪の現場だからです。近隣の東京湾側V字谷に類似するような河岸段丘はありません。
2011年10月31日記事「4期地形の把握とわかったこと」の続きです。
次の図は地形分類図(1949年時点)を現代のDMデータにオーバーレイしたものです。
弁天橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ア
アの平坦面は勝田川の河岸段丘で、oryzasan氏のコメントの付図では千葉第Ⅰ段丘と千葉第Ⅱ段丘に区分されています。
八千代市の歴史資料編自然Ⅱでは上位段丘をTP段丘面(東京軽石層を含む武蔵野ローム層以上を乗せる)、下位段丘をAT段丘面(姶良Tn火山灰を含む立川ローム層上部をのせる)としています。
空中写真を実体視するかぎり二つの地形面に区分できるような段差や斜面はみつからないで、標高10mから16mまでの、だらだらした緩勾配の平坦面になっています。
もしこのアの平坦面がoryzasan氏のいうように2つに区分できると、柏井付近の段丘面対比に好都合になるような気がしています。
イ
イの細長い平坦面と背後の小崖は現在埋め立てられて観察できません。
1949年空中写真では明瞭に観察でき、アの平坦面に連続しています。
その様子は過去の地形図で、埋立が進んでいますが、現在と比べればある程度はっきりとその存在を確認できます。
この細長い平坦面と崖の存在は、勝田川の千葉段丘を作った河川に支流が流入していたことを示しています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料1です。
ウ
ウの緩斜面の存在は盛土によってその下部が隠されていますが、谷地形の存在を暗示します。
谷地形の存在を想定して初めてこのような緩斜面の説明が可能になると思います。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料2です。
エ
エの急斜面は谷壁を示します。
この谷壁が流入支谷のものであるのか、本川の谷壁の一部であるのかは今後検討する必要があります。
DMデータから谷壁の最低点の標高が17.1mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料3です。
柏井橋付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
オ
オの急斜面と背後の緩斜面は流入支谷を示します。
下部は盛土によって隠されていますが、DMデータから谷壁の最低点の標高が18.41mであり、それより低い場所に本川谷底面があったことは確実です。
この支谷の方向が北を向いており、本川も北を向いて流れていたことを暗示します。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料4です。
カ
カの河岸段丘(標高14m~16m)はその分布形状から前谷津の水流で形成されたことは確実です。
そして、北方向に流れた水流で形成されたことを強く示唆します。
谷全体の等高線も南にではなく、北方向に向かっていることが示されています。
段丘の北側は盛土で隠されています。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料5です。
キ
キの河岸段丘(標高14m~18m)はその分布形状から花見川の本流筋で形成されたことは間違いありません。
その分布形状をよく見ると、前谷津の谷壁によって切られているように見えます。段丘形成後、その地点で流れを南転させるる前谷津の水流によって切られたという印象を受けます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料6です。
柏井橋~花島付近の地形分類
DMデータは千葉市提供
ク
クの段丘は標高が16m~20であり、それ以外の段丘より一段上にあります。
カやキの段丘と対比される高さの段丘と小崖で接しているところもあります。
河岸段丘には2面あることが暗示されます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料7です。
ケ
ケの緩斜面は小崖で境されながら低位の段丘や高位の段丘に接しています。
河成の浸食斜面のように捉えることができます。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料8です。
コ
コの河岸段丘(標高12m~16m)存在をカやキの河岸段丘存在と一連のものとして(連続するものとして)捉えることが自然です。
コの河岸段丘はカやキの河岸段丘の上流にあたる部分として捉えることになります。
その場合高度が逆転しますから、地殻運動の影響を考慮しなければ説明できません。
古柏井川の存在と規模や形状を示す材料9です。
以上のア~コに示した9つの材料から、特にイとカの材料を中核理由として、花島付近から、前谷津・後谷津を合流して北流し、勝田川に合流する古柏井川の存在は確実であるといえます。
時代を知ることにも手が届きつつあると思います。
河川争奪存在の原理的証明は、地形的情報を集めた結果、完了したと思います。
その規模や形状の復元はさらに作業を進めれば詳らかになります。
わかりやすい平面図や断面図で表現する必要があると思います。
地形面の対比は、堆積物を観察し火山灰をキーとすれば、正確にできると思います。
そうなれば、時間の概念も導入できて、編年ができると思います。
勝田川の河岸段丘である千葉第Ⅰ段丘、千葉第Ⅱ段丘に、柏井付近の高位段丘と低位段丘が対比されるような結果になれば、美しいのですが。
柏井、花島付近に河岸段丘が発達する理由は、そこが河川争奪の現場だからです。近隣の東京湾側V字谷に類似するような河岸段丘はありません。
2011年11月2日水曜日
oryzasan氏のコメント(2011.10.25)の感想
花見川河川争奪を知る31 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説6
2011年10月26記事「oryzasan氏のコメント(2011.10.25)」の感想を述べます。
oryzasan氏からコメントをいただいてからだいぶ時間がたってしまい、申し訳ございません。
コメント記事も画面の奥深くに移ってしまいましたので、再度引用させていただき、文章毎に私の感想を述べさせていただきます。
……………………………………………………………………
Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。
次の点です。 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。
盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。
僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。
各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
……………………………………………………………………
横戸団地より南(鉄道連隊鉄橋跡より南)の東岸ではoryzasan氏のおっしゃる通りの地層になっているものと推察できます。
江戸時代の堀割普請でも地山を削って掘っています。さらに戦後の工事でもその斜面の表面を削っています。
見かけ上台地の上にしか盛土がないよう見える部分が多いと思います。
しかし、西岸には古柏井川由来と思われる谷壁残片があり、詳細に調べると違うと思います。「対岸も同様」と片づけるのは早計だと思います。
横戸団地より北(鉄道連隊鉄橋跡より北)(断面A-Bも含まれます)では東岸の盛土背後に勝田川河岸段丘から連続する平坦面とその背後の崖が1949年撮影空中写真で確認できます。
したがって、盛土は古柏井川の谷底面上にあるものだと考えます。
もしこの部分の盛土が薄く(2-3m)地山の上ならば、私の地形解釈を変える必要があります。
これまで存在しないと連絡を受けていた戦後の詳細な工事資料(平面図、断面図等)について、水資源機構千葉用水総合管理所より倉庫の中で見つかったとの連絡を受けました。
昨日訪問し、その膨大な資料を確認させていただきました。
この資料を活用することにより戦後工事の実態がよくわかるようになります。つまり、現在の地形と堀割普請によりできた地形の関係が判りますので、自分としては現場観察の基礎をしっかり確保できることになると思っています。
今後この発見資料を検討させていただく予定になっています。
……………………………………………………………………
問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
……………………………………………………………………
私の感触では千葉段丘が南西に出っ張る部分(?部分)が古柏井川の谷底そのもので、その谷の谷壁の残片が西岸に幾つか残っており、さらに、北柏井の集落を乗せる前谷津の河岸段丘、さらに花島の谷津の河岸段丘へ連続すると、捉えて(空想して)います。
大胆すぎる想定ですが、このような想定の下で入手できる情報を組み立てられるか、検討作業しています。
作業がまとまったところから記事にしますので、oryzasan氏からのご指摘、ご批判、ご指導よろしくお願い申し上げます。
2011年10月26記事「oryzasan氏のコメント(2011.10.25)」の感想を述べます。
oryzasan氏からコメントをいただいてからだいぶ時間がたってしまい、申し訳ございません。
コメント記事も画面の奥深くに移ってしまいましたので、再度引用させていただき、文章毎に私の感想を述べさせていただきます。
……………………………………………………………………
Cooler 様 「花見川河川争奪を知る20 花見川河川争奪の成因検討2 oryzasan氏の説と感想6」を拝見しました。
空中写真の判読から古柏井川の旧地形が復元できそうだとのお話しを興味深く読ませていただきましたが、残念ながら地形の解釈に誤りがあります。
次の点です。 「断面A-Bのイメージ」ですが花見川の開削部の上部半分を「盛土」としていますが、この部分は地山です。
盛り土部分は2m弱(「横戸緑地」の公園が台地面から出っ張った部分)しかありません。
僕はこの部分が造成される現場を見ていますが、盛り土部分が関東ローム層の上に乗っているのを観察(貝化石層がローム層の上に乗っていてびっくりしました)しています。
また、現在はヤブで覆われていますが、開削部も調査がされており、厚さ約5mの陸成の関東ローム層(武蔵野ローム層+立川ローム層)の下に、常総粘土層と木下層、上岩橋層が分布するのを確認しており、これは対岸も同様です。
従って、この部分に「古柏井川」の谷があったとすれば、それは花見川開削部の内側以外に考えられません。
下図はCoolerさんのブログ中の地図に手を加えたものです。盛り土は両岸にありますが、これは台地面上を薄く覆っているに過ぎず、基本的にはここは地山です。
各地形面の境界部ははっきりしない部分はありますが、おおかたはこんなところでしょう。
……………………………………………………………………
横戸団地より南(鉄道連隊鉄橋跡より南)の東岸ではoryzasan氏のおっしゃる通りの地層になっているものと推察できます。
江戸時代の堀割普請でも地山を削って掘っています。さらに戦後の工事でもその斜面の表面を削っています。
見かけ上台地の上にしか盛土がないよう見える部分が多いと思います。
しかし、西岸には古柏井川由来と思われる谷壁残片があり、詳細に調べると違うと思います。「対岸も同様」と片づけるのは早計だと思います。
横戸団地より北(鉄道連隊鉄橋跡より北)(断面A-Bも含まれます)では東岸の盛土背後に勝田川河岸段丘から連続する平坦面とその背後の崖が1949年撮影空中写真で確認できます。
したがって、盛土は古柏井川の谷底面上にあるものだと考えます。
もしこの部分の盛土が薄く(2-3m)地山の上ならば、私の地形解釈を変える必要があります。
これまで存在しないと連絡を受けていた戦後の詳細な工事資料(平面図、断面図等)について、水資源機構千葉用水総合管理所より倉庫の中で見つかったとの連絡を受けました。
昨日訪問し、その膨大な資料を確認させていただきました。
この資料を活用することにより戦後工事の実態がよくわかるようになります。つまり、現在の地形と堀割普請によりできた地形の関係が判りますので、自分としては現場観察の基礎をしっかり確保できることになると思っています。
今後この発見資料を検討させていただく予定になっています。
……………………………………………………………………
問題は千葉第Ⅰ段丘が南西に出っ張る部分(?部分)ですが、これは5万年前(千葉第Ⅰ段丘堆積物堆積時)の勝田川の支流(段丘堆積物の分布は河川の氾濫原の広がりを示しますから)を示すのかもしれません。
ただしこれが柏井にまで連続し、現在の柏井の谷津に接続したかとなると、この段丘面は柏井まで伸びてはいませんから、そうは考えられません。
なお、柏井前谷津と後谷津の南流の時期は30m地域の隆起が始まって間も無く(この頃のこの地域はわずかな高低はあったと思いますが、ほとんど平らと見て良いでしょう。)のことと考えています。
おそらくは現在の花見川も、この前後に流れの方向を変えていると思います。千葉第Ⅰ・第Ⅱ段丘の形成はそれよりももっと後のことです。
……………………………………………………………………
私の感触では千葉段丘が南西に出っ張る部分(?部分)が古柏井川の谷底そのもので、その谷の谷壁の残片が西岸に幾つか残っており、さらに、北柏井の集落を乗せる前谷津の河岸段丘、さらに花島の谷津の河岸段丘へ連続すると、捉えて(空想して)います。
大胆すぎる想定ですが、このような想定の下で入手できる情報を組み立てられるか、検討作業しています。
作業がまとまったところから記事にしますので、oryzasan氏からのご指摘、ご批判、ご指導よろしくお願い申し上げます。
2011年11月1日火曜日
絵図注記文字の解読を教えていただく
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、絵図注記文字の私の解読が間違っていたことを教えていただきましたので、報告します。
2011年10月15日記事「絵図から読み取れる興味深い情報」で「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)の次の部分(赤囲い文章)を、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と解釈して、自分の考えを述べました。
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)部分
木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号より引用、赤線書き込み
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と読むことが正しいと教えていただきました。
「コノ」はカタカナ、間はくずし字であり、くずし字資料を見せていただきました。 丁寧な説明をしていただき、納得できました。
おかげさまで自分の間違いを訂正できました。
専門的見識を持って対応していただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
自分の考え(堀割普請前に台地に無能谷があった)をこの注記文字に投影したいという感情が強すぎた結果、「コノ」(カタカナ)を「ここ」(ひらがな)とよみ、間(くずし字)を「より」と読んでしまいました。
2011年10月15日記事「絵図から読み取れる興味深い情報」で「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)の次の部分(赤囲い文章)を、「ここより 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と解釈して、自分の考えを述べました。
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(八千代市指定文化財)部分
木原善和(1995):江戸期の印旛沼掘割工事で描かれた絵図、印旛沼自然と文化第2号より引用、赤線書き込み
八千代市立郷土博物館の学芸員の方と文字解読専門の方から、「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」と読むことが正しいと教えていただきました。
「コノ」はカタカナ、間はくずし字であり、くずし字資料を見せていただきました。 丁寧な説明をしていただき、納得できました。
おかげさまで自分の間違いを訂正できました。
専門的見識を持って対応していただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。
自分の考え(堀割普請前に台地に無能谷があった)をこの注記文字に投影したいという感情が強すぎた結果、「コノ」(カタカナ)を「ここ」(ひらがな)とよみ、間(くずし字)を「より」と読んでしまいました。
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