2016年1月29日金曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.275 鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で強引に自分の見立てを勢いだけで記事にしたところ、文字にした途端にその不都合が判明してしまいました。

早速記事を訂正して、紡錘車と墨書土器文字との関係について詳しい検討の必要性を痛感して、これまで先延ばしにしてきたしっかりとした基礎データを作成しました。

鳴神山遺跡の竪穴住居(発掘調査報告書における年代検討サンプル調査183軒対象)別に出土遺物及び墨書土器データを整理し、分析結果をGIS上にプロットできるようにしました。

この記事では紡錘車出土竪穴住居遺構から共伴出土した墨書・刻書文字について検討します。

年代別紡錘車出土イメージ図に共伴出土した墨書・刻書文字(釈文結果)を全部書き込んでみました。(釈文不明墨書・刻書土器は無視しました。)

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第1四半期

発掘調査報告書(あるいは墨書土器データベース)では「廾」(キョウ)が共伴します。

これは正確に対応する活字がないために生まれた苦肉の策としての情報です。

活字が無いので、このテキストで表現できませんが、文字は十を二つ横に並べた漢字です。(廾は十を二つ横に並べた漢字とは全く別物の漢字です。)

この漢字は現在の活字にすると「廿」です。(十の会意文字)

「廿」は「つづら」と読んで、衣服を入れるつるで編んだかごを意味すると考えます。

紡錘車で製糸した人が衣服を入れるかご(つづら)の意味の文字「廿」を書いたということは道理に合っています。

紡錘活動をする家族が近くの掘立柱建物の被服の入ったつづらを管理していたのかもしれません。

参考
2015.05.22記事「墨書土器文字「廿」(ツヅラ)の読解」
2015.08.13記事「白幡前遺跡出土墨書土器の閲覧 その5(釈文「廿」)


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第2四半期

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第3四半期

紡錘車出土の分布広がりに対応して多様な文字が共伴出土しましが、「山本」に注目しました。

「山本」は「山」(耕地など農業利用の土地)を管理している集団の祈願語であると考えます。

焦点を絞れば、「山」とは麻畑かもしれません。

美しい言葉だからいろいろな集団の人が使ったという言葉ではなく、この言葉は特定の利権に対応する特定集団に対応していると考えます。

2遺構から「山本」が4土器分出土します。

この時代に「山本」集団が紡錘活動に深く関与していたのだと思います。

文字「卅」はミソと読んで味噌づくりの祈願語である可能性を感じています。紡錘活動と味噌づくりが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第4四半期

「山本」の状況は同じです。

一方、「久弥」が出土します。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第1四半期

「山本」が1土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」(クビラ)が2遺構3土器分出土します。

「久弥良」(クビラ)は金毘羅であり、金毘羅信仰の祈願語であると考えてきています。

参考
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する」
2015.10.25記事「墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰」

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第2四半期

文字「山本」は一つ残りますが、「久」、「久弥」、「久弥良」が4遺構から10土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」は全てクビラ(金毘羅)の意味であり、金毘羅信仰を持った特定集団の祈願語であると考えます。

鳴神山遺跡の最盛期にクビラ(金毘羅)集団が紡錘活動に深くかかわった可能性を感じます。

文字「酒有」が出土します。紡錘活動と酒造りが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

文字「田」は谷津近くの場所からの出土であり、稲作を意味している可能性を感じます。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第3四半期

「山本」は消え、9世紀第2四半期に引き続き文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第4四半期

紡錘車の出土は減少しますが、文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


出土紡錘車のうち鉄製のものがあります。

鉄製紡錘車と共伴する墨書・刻書文字

鉄製紡錘車は絹糸を石・土製紡錘車は麻糸を紡いでいた可能性があります。

もしそうだとすると、鉄製紡錘車には文字「久」、「久弥」、「久弥良」が深く関与していて、絹生産にクビラ(金毘羅)集団が関与したという想定も有りうると思います。

クビラ(金毘羅)集団が関西から鳴神山遺跡に移住してきたとき、絹生産の技術を持参してきたのかもしれません。

紡錘活動には蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代の8世紀頃は「山本」集団が、動員解除・戦後時代の9世紀頃は「久弥良」(クビラ)集団が深くかかわったといえそうです。

「山本」集団は直線道路を北に超えて分布することはなく、「久弥良」(クビラ)集団は直線道路を超えてその分布が北上します。

「久弥良」(クビラ)集団はこの集落の権力者(「大」集団)の配下にあり、勢力を拡大したと考えます。

「久弥良」(クビラ)集団は金毘羅信仰を携えて関西から移住してきた水運技術集団と考えてきていますが(その信仰は現代まで伝わっている)、その集団が絹生産技術ももたらしたと、現段階で仮説していおきます。

……………………………………………………………………
追記 2016.01.30

同じ竪穴住居から紡錘車も墨書土器も出土していること(共伴出土)に着目して上記検討を行いました。

竪穴住居から遺物が出土する意味として次のような事例を念頭に置いています。

1 その竪穴住居で人が居住していたときに使われたものの出土。

2 竪穴住居が遺棄されごみ溜めとなり近隣竪穴住居から捨てられた廃棄物(流れ込んだ廃棄物)が出土する。

3 竪穴住居が遺棄され、その場が土器打ち欠きの場となって(祭祀の場となって)土器や遺物が出土する。

従って、同じ竪穴住居から共伴して出土した遺物と言っても、遺物間の関係には様々なものがあると考えます。

しかし、同じ竪穴住居から共伴出土した遺物・土器は、その竪穴住居とごく近くの近隣竪穴住居に関わるものが圧倒的に多いと考えます。遺物の背景にある人間関係にも近いものがあると想定します。

従って、共伴することに大きな意味があると考えています。

そのような考えから共伴することに着目して検討し、情報を引き出しています。

2016年1月28日木曜日

2016.01.28 今朝の花見川

この数日は霜で薄い白ベールをかぶせたような早朝花見川風景になっています。

これまで水面が見にくくなるので、水際付近の樹木が邪魔に感じていたのですが、今年の冬は落葉した樹木をテーマに写真を撮っています。

花見川風景(水管橋)

花見川

花見川

花見川

花見川

花見川

弁天橋

弁天橋から下流

西の空に少し欠けた月が残っています。

川鵜が数羽で集団漁をしていました。花見川で川鵜の集団漁を見たのは初めてです。

弁天橋から上流


2016年1月27日水曜日

2016.01.27 活動日誌

1月に入ってから鳴神山遺跡の出土物の年代別分布図及び墨書土器の年代別分布図を対照させて、そこから有用な情報を引き出しています。

発掘調査報告書や既発表の論文等には出土物と墨書土器文字との対応を分析した記述は見当たりませんので、素人の趣味活動とはいえ、意味が少しはあるかもしれないと考えています。

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」では、記事作成後、その内容を別の視点で検証するとどうやら仮説したことに妥当性が低いと感じるようになりました。

早速記事の訂正を行いました。

この記事を訂正する中で感じたことがあります。

出土物と墨書土器文字の年代別分布図を対照して、イメージ的に重なるとか重ならないとか、定性的に検討しているのですが、それでは見落としがあるかもしれないと感じるようになったのです。

過去の自分の経験から、このような情報の重ね合わせをする場合、誰の目でみても確かに重なっている(対応している)という判断が付くような情報が結局は有用な情報となります。

一方、高度な統計的分析的手法でわずかの対応関係(重なり)を証明してみても、それが誰から見ても一目でわかるものでなければ、結局はあまり有用に使われないことが多いと感じています。

しかし、現状の検討では、あまりにも大ざっぱすぎて、誰でも判るような明瞭な重なりや関係を十分に把握していないと感じます。貴重なデータを雑な分析で浪費していて、もったいないと感じるようになったのです。

苦労して閲覧して収集した発掘調査報告書の情報をデータベース化して、それをGISにプロットしたのですから、もう少し深めた統計的分析的な処理をすればもっといろいろなことが判るにちがいないという気がしてきました。検討意欲が出てきたということです。

遺構(竪穴住居、ただし年代データがあるのはサンプル183遺構)別出土物、墨書土器データがGISデータベース化されているのですから、それをもう少し有効活用することにします。

現在は次の2つのGISデータベースを作っていて、それを別々に利用しています。

出土物データベース

墨書土器データベース

これまでは、GISにプロットするに際しては、それぞれ特定項目ごとにデータを絞って、墨書土器の場合にはさらにレコードを竪穴住居別に直して、csvファイル出力していたのです。

今後は、墨書土器データベースのレコードを竪穴住居別に変換して出土物データベースと結合して1つのファイルにします。

出土物と墨書土器情報が1つの竪穴住居別レコードとなったファイルを利用して、これまでできなかった次のような分析を行うことにします。

例
●紡錘車出土遺構から出土する墨書文字
●鉄鏃出土遺構から出土する墨書文字
●文字「依」出土遺構から出土する他の墨書文字
…

統計的及びGIS空間的に検討できる項目が広がります。

なお、現在進めている分析は年代データのある183竪穴住居を対象としています。

このサンプル以外の竪穴住居及び他の遺構(溝、土坑、掘立柱建物等)のデータは出土物及び墨書土器とも含まれていません。

サンプルだけの検討で鳴神山遺跡の特性が浮き彫りになると考えています。

2016年1月25日月曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.274 鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係

墨書土器「依」は鳴神山遺跡出土墨書土器文字の中で(漢字認識できるものの中では)2番目に多い文字です。

「依」(少数「衣」も出ますので含めます)は衣服に関わる産業活動に関連する祈願文字であると考えています。
2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考」参照

そこで、文字「依」と紡錘車出土との関係を探ってみました。

難渋した検討となりました。

文字「依」の年代別出土イメージを示します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「依」「衣」墨書土器出土イメージ

「衣」は8世紀第1四半期から出土していて、途切れる年代もありますが、9世紀第1四半期まで少数出土が継続します。

ところが、9世紀第2四半期に急増し(6→44)、第3四半期も同程度の水準を保ち、9世紀第4四半期には激減します。

土器に「依」と書いて生産活動を祈願した集団が細々と100年以上活動していたのですが、9世紀第2四半期と第3四半期の50年間は墨書土器という自己啓発ツールを積極活用して労働層の意識向上を積極的に図った様子を見てとることができます。

(もともと、墨書土器という自己啓発ツールを官人が蝦夷戦争兵站基地に持ち込み、労働層のやる気を刺激したと考えてきているのですが、鳴神山遺跡では蝦夷戦争後に墨書土器の大流行があるようです。したがって、これまでの自分の見立てを大幅に変更しなければならないようです。)

次に紡錘車出土数イメージを示します。

鳴神山遺跡 紡錘車出土イメージ

紡錘車出土数イメージは8世紀第3四半期に急増し、さらに9世紀第2四半期に急増し、その後減少するパターンとなります。

このグラフパターンが紡錘量の変化パターンを表し、ひいては織物生産量の変化量に対応している指標として考えることができると思います。

このグラフと前出の「依」「衣」墨書土器出土イメージがあまりにも違いますが、紡錘車出土数は客観的な生産活動に関連した指標であり、「依」「衣」墨書土器出土数は労働生産性向上のために、墨書土器という自己啓発ツールをどれだけ有効活用したかという社会指標ですから、違ってきます。

次に紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージを年代順に対照させてみました。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。


紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
文字「依」が出土しません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
紡錘車出土域は直線道路北側にも広がりますが、文字「依」は直線道路南側1遺構だけです。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
文字「依」の分布も広がりますが、紡錘車出土遺構とまったく重なりません。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
文字「依」の分布がさらに広がるとともに、1か所で集中出土します。
紡錘車の分布と文字「依」の分布がお互いを避けるように見えることは不思議です。
紡錘車分布と文字「依」分布が重複する部分が存在するという見立てでこの図を作成したので、検討をお互いに重複しない相関として検討し直す必要が生まれました。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
9世紀第2四半期と同じ感想を持ちます。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
紡錘車も文字「依」も急減しているよう状況です。

考察(2016.01.27訂正追記)
当初、紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージの関係を次のように考えましたが、この関係を取り下げます。

紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージの関係(取り下げた考え)

「依」集団は麻栽培(桑栽培もおこなっていた可能性があります)を担っていた集団で、畑地の近くの竪穴住居で生活し、集団の拠点も畑地の近く(掘立柱建物群の近くでもある)に存在していたと考えられます。
その状況は竪穴住居の密度が低い場所の近くから文字「依」が出土することからわかります。

織物を作るうえで、畑で麻(及び桑)を栽培してその生産量を増大させることが最も基本的な活動であり、その活動を効率化するために、9世紀第2四半期、第3四半期に墨書土器風習が広まった(広めた)のだと考えます。

「依」集団が衣服に関係する生業集団であるとの考えは変わりませんが、麻栽培集団であるかどうか再検討します。

一方、麻を原料にそれを加工して紡錘する仕事は女性の手仕事であり、集落の中の非農家の竪穴住居生活者(女性)が紡錘車を使った活動を行ったのだと思います。

女性の手仕事は麻栽培のような基本的労働とは異なり、高度に組織されたものではなく、したがって墨書土器という自己啓発ツールの活用が無かったのだと思います。

紡錘車を使った活動に特有の祈願語(墨書文字)は存在しなかったのだと思います。

紡錘車を使った女性の活動が一つの社会集団にはならなかったのだと思います。

このような関係を想定すると、紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージが重ならない理由が説明できます。

紡錘車を使った活動に対応する墨書文字集団が見つかりそうなので、上記検討を取り下げます。

紡錘車出土イメージと文字「依」出土イメージを対照させて、そこから引き出せる情報は今のところ次のようになります。

その文字の意味から衣服生産に関連する集団であると考える文字「依」集団の分布と製糸活動を示す紡錘車出土分布が、お互いをすみ分けるように重ならないという印象を受ける。

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無理を承知で強引に情報を引き出し、記事にしてみて、それを読み返すと、これまで見えていなかった情報が見えるようになるという体験をしているようです。(頭の中で仮説を夢想しているだけでは、いつまでもその段階にとどまってしまいます。)

このブログは検討結果(成果)を公表する場ではなく、私の思考プロセスを公表している場ですので、このような検討における試行錯誤をお許しください。




2016年1月24日日曜日

鳴神山遺跡 集落防衛戦闘員(武士)の可能性がある「大加」集団

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.273 鳴神山遺跡 集落防衛戦闘員(武士)の可能性がある「大加」集団

蝦夷戦争の動員解除・戦後時代に「大」を祈願語として墨書した集団が集落防衛の砦の運用を担っていたことを2016.01.23記事「鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係」で検討しました。

鳴神山遺跡の最多出土墨書土器文字は「大」ですが、「大加」も多出します。

「大」と「大加」の出土分布は文字「大」を共有し、かつ大変類似している(重複している)ので同一集団のなかの異なる亜集団(支族、分派)であることは気が付いていましたが、この記事で詳しく検討してみます。
2015.10.04記事「鳴神山遺跡の墨書土器分布検討 その1」参照

墨書土器文字「大加」(オオカと読んでおきます)の年代別出土状況を次に示します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「大加」 墨書土器出土数イメージ

文字「大」は8世紀第1四半期から出土していますが、「大加」は9世紀第1四半期から「加」わるように出土します。蝦夷戦争が終わってから出土する文字です。そして「大」と同じように9世紀第2四半期と第3四半期に急増し、その後急減します。

次に、9世紀における文字「大」と文字「大加」の出土イメージを対照してみます。

文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第1四半期

「大」と「大加」の分布パターンは大変よく似ています。
同じ遺構から「大」、「大加」の双方が出土している場所も複数個所あります。
「大」、「大加」ともに最多出土遺構は直線道路南側にあるのですが、その場所は近くですが、別遺構です。

文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第2四半期

「大」と「大加」の分布パターンは大変よく似ています。分布の重心が明確に直線道路北側に移動しました。
同じ遺構から「大」、「大加」の双方が出土している場所も多数個所あります。

「大」、「大加」ともに最多出土遺構は直線道路北側にあるのですが、その場所は近くですが、別遺構であり、特徴的です。

「大」亜集団と「大加」亜集団は双方入り混じっているにも関わらず、その亜集団拠点は異なります。

文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第3四半期

「大」と「大加」の出土イメージともに9世紀第2四半期と類似しています。
「大」と「大加」の関係も9世紀第2四半期と変化ありません。

文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第4四半期

「大」と「大加」はほとんど全滅した状況です。

上記の「大」と「大加」関係から、次の考察を導くことができます。

9世紀第2四半期の特徴的分布とこれまでの検討結果を重ねると次のような情報を得ることができます。

「大」亜集団と「大加」亜集団の近接拠点に関する考察

「大」亜集団の拠点A(複数遺構により構成される)からは多数の鉄鏃が出土しています。その様子から、この場所を鳴神山遺跡を防衛する戦略拠点としての砦であると考えました。

一方、「大加」集団の拠点B(1遺構)からは鉄鏃が1本も出土していません。しかし「弓・大加」「弓・大加・弓」という墨書土器が出土しています。

「弓」という祈願語は、武器である弓矢を持つことを務めとする(生業職種とする)兵士、つまり戦闘員が、自分の職務完遂を祈願しているのだと思います。2015.09.30記事「鳴神山遺跡の興味ある墨書土器」参照

「大加」集団が戦闘員であり、その墨書土器が出土した遺構からは鉄鏃が全く出土しないという情報は大変興味深い、重要な情報であると考えます。

集落を襲う盗賊集団に備えてプロの戦闘員集団(「大加」集団)を雇い、武器(弓矢)は雇い主「大」集団拠点Aに常備し、戦闘員集団「大加」集団の拠点Bには武器「弓矢」が無かった可能性が濃厚です。

雇われたプロの戦闘員集団(「大加」集団)が武器(弓矢)を常備すると、その武力により集落が脅かされてしまうからだと思います。

「大加」集団は日常は通常の牧業務に従事し、盗賊集団に襲われた時に、砦に駆けつけ武器を持って応戦したのだと想像します。

また、「大加」集団は奴婢、浮浪人、俘囚など下層の人々であった可能性を想像します。

このように検討(想像)すると、文字「大加」の意味をこれまでと異なる意味として捉える必要があります。

これまでは、「大加」の加は「酒を注ぐ」という意味で考えていました。

参考 墨書・刻書文字の意味解読パターン素案(2016.10.16)

しかし、「大加」集団拠点から文字「弓」が出土するのに、鉄鏃が出土しない状況から、加は「仲間に加わる」「加勢する」というような意味あいで考えることができそうです。

「大」は8世紀第1四半期から継続している本流筋であり、「大加」は蝦夷戦争後の9世紀になって「大」集団に新たに「加」わった戦闘員集団であると考えます。

墨書土器の意味として、「大加」は「大国玉神に、(集落防衛に)加わって成功することを祈願する」ということになります。

「大加」という墨書(刻書)がデザインされた組文字になっているものが多いので、「大加」は一種のエンブレムだったと思います。

組文字「大加」が単純な祈願行為の結果であっただけでなく、集落防衛に加わる「大加」集団の一員であることを誇り高く表現していたと考えます。

大加組文字(墨書土器画像から模写)

空想に空想を重ねれば、下層の人々が戦闘員(武士)という危険な業務ではあるが、まっとうな生業に就けた喜びを「大加」エンブレムに投影していたと考えます。


2016年1月23日土曜日

鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.272 鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係

 これまでに、紡錘車出土を集落資産存在の指標として、鉄鏃出土を防衛拠点存在の指標として見立て、その相関関係を検討してきました。

この記事では鉄鏃出土と墨書文字「大」(オオ、オホ)出土の関係を考察して、動員解除・戦後時代に鳴神山遺跡集落の防衛を担った集団が「大」を祈願語とする集団であったことを検討します。

次の多数の図は鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージを年代毎に並べて対照できるようにしたものです。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側から出土します。
8世紀第1四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」は直接対応していません。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側から出土します。
8世紀第2四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側からも出土するようになります。
8世紀第3四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側からも出土しますが、限られています。
8世紀第4四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路南側と北側で増加します。特に北側でその増加が顕著です。
9世紀第1四半期の牧開発域が急拡大の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は3か所になります。
直線道路南側の「大」多出ポイントでは鉄鏃出土に対応しませんが、直線道路北側の墨書文字「大」出土集中個所では鉄鏃集中出土と対応します。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が強く結びついている場所が現れたことになります。
この時代から「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務も担いだしたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡北側に集中して分布するようになります。
9世紀第2四半期の牧開発域が直線道路跡北側であったことが判ります。
直線道路跡北側で鉄鏃集中出土場所と墨書文字「大」集中出土場所が対応して、2つの指標の間に強い関連性が生まれます。
9世紀第1四半期に生まれた、「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)の結びつきが大変強いものになったことがうかがわれます。
「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務もその主務の一つになったように見えます。

このような考察をポンチ絵にすると次のようになります。

9世紀第2四半期の鉄鏃出土と墨書文字「大」出土の関係に関する考察

「大」を祈願語とする集団が時代の変遷の中で、鳴神山遺跡集落全体を守るような位置に武装拠点を持った様子から、「大」集団の武力はあくまでも本来生業を自衛するような性格のものであると考えます。

「大」集団が他集落を襲い略奪行為をして生計を立てていた攻撃的な集団であるという可能性は現時点の情報では特に得られていません。

同時に、「大」集団が牧業務だけでなく、馬を使って遠征して略奪行為を行い、その結果として鳴神山遺跡が9世紀第2~3四半期に発展したと考えることを頭ごなしに否定する情報もありません。

鳴神山遺跡が、また近隣の下総台地の多くの開発集落が9世紀一杯でほとんど消滅するので、その一因に(主因に?)集落間の略奪行為があったと考えます。


鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡北側に集中して分布します。
9世紀第3四半期の牧開発域が直線道路跡北側であったことが判ります。
直線道路跡北側で鉄鏃集中出土場所と墨書文字「大」集中出土場所が対応して、2つの指標の間に強い関連性が引き続き保たれています。
「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務もその主務の一つにしているように見えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡南側に1軒だけあります。
9世紀第4半期には「大」集団及び鳴神山遺跡集落全体が壊滅状態にあることがわかります。


2016年1月21日木曜日

鳴神山遺跡 墨書土器文字「大」の年代別出土イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.271 鳴神山遺跡 墨書土器文字「大」の年代別出土イメージ 

鳴神山遺跡の竪穴住居のうち出土物の多い183サンプルについてその年代表が作られていますので、その年代表に対応させて出土物の検討を行っています。

これまで鉄鏃と紡錘車について検討してきました。

鉄鏃は防衛拠点を意味するのではないかと考えています。

その鉄鏃分布と墨書土器文字「大」(オオ、オホと読むと考えています)の分布が時間的、空間的に似ているように見えます。鉄鏃と文字「大」の間に関連があるのではないかと考えていますので、これから検討します。

この記事では文字「大」の時間的、空間的イメージ図を紹介します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「大」 墨書土器出土数イメージ

鳴神山遺跡の最大出土墨書文字は「大」です。

その文字は8世紀第1四半期から9世紀第4四半期まで出土しますが、メインの出土期間は動員解除・戦後時代の9世紀第1四半期~第3四半期です。

半年前の自分の予想では「大」は蝦夷戦争における兵站基地での活動のなかで祈願文字として書かれたものと考えていましたから、その予想は見事に、大いに外れました。

蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代に「大」は書かれていたので、種はあったのですが、それが爆発的に広がったのは動員解除・戦後時代です。

現時点の仮説としては、蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代の「大」は律令国家が運営した大結馬牧の出先牧(東京湾岸から香取の海に牛馬を搬送する道路に設けた中継牧)の集団の祈願語として考えておきます。

動員解除・戦後時代の「大」は大結馬牧出先牧の集団を核にして、鳴神山遺跡集落に本格的な馬牧が建設され、その馬牧集団の祈願語であったと考えます。

動員解除・戦後時代の本格的な馬牧は直線道路北側につくられ、その位置は盗賊集団(俘囚か?)の略奪(馬や食料・衣服等)を最初に受ける位置であったので、「大」集団が鳴神山遺跡集落を守る軍事的役割を担ったのだと仮説しておきます。


鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する。
中継馬牧は直線道路南側に存在していたのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する。
中継馬牧は直線道路南側に存在していたのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する分の方が多く、北側からも出土するようになります。
中継馬牧は直線道路南側に存在していて、順次北側にも広がったのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
「大」は直線道路南側から出土する分の方が多く、北側からも出土するようになります。
中継馬牧は直線道路南側に存在していて、順次北側にも広がったのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路の南側でも北側でも増えます。
直線道路が埋め立てられ、地域分断という障害がなくなったので、馬牧が直線道路跡の両側に広がっていたと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路跡の北側で急増します。
馬牧が直線道路跡北側の広大な土地に展開し、同時に拠点が生まれ、「大」と書く祈願(墨書土器打ち欠き)が行われ、鉄鏃を用意して砦(要塞)として、盗賊の略奪に武力で対抗したのだと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路跡の北側で多くなっています。
馬牧が直線道路跡北側の広大な土地に展開し、同時に拠点が生まれ、「大」と書く祈願(墨書土器打ち欠き)が行われ、鉄鏃を用意して砦(要塞)として、盗賊の略奪に武力で対抗したのだと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が激減し、直線道路跡の北側では完全に消失します。
「大」集団が消滅した様子が表現されていると考えます。