蝦夷戦争の動員解除・戦後時代に「大」を祈願語として墨書した集団が集落防衛の砦の運用を担っていたことを2016.01.23記事「鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係」で検討しました。
鳴神山遺跡の最多出土墨書土器文字は「大」ですが、「大加」も多出します。
「大」と「大加」の出土分布は文字「大」を共有し、かつ大変類似している(重複している)ので同一集団のなかの異なる亜集団(支族、分派)であることは気が付いていましたが、この記事で詳しく検討してみます。
2015.10.04記事「鳴神山遺跡の墨書土器分布検討 その1」参照
墨書土器文字「大加」(オオカと読んでおきます)の年代別出土状況を次に示します。
文字「大」は8世紀第1四半期から出土していますが、「大加」は9世紀第1四半期から「加」わるように出土します。蝦夷戦争が終わってから出土する文字です。そして「大」と同じように9世紀第2四半期と第3四半期に急増し、その後急減します。
次に、9世紀における文字「大」と文字「大加」の出土イメージを対照してみます。
文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第1四半期
「大」と「大加」の分布パターンは大変よく似ています。
同じ遺構から「大」、「大加」の双方が出土している場所も複数個所あります。
「大」、「大加」ともに最多出土遺構は直線道路南側にあるのですが、その場所は近くですが、別遺構です。
文字「大」と文字「大加」の出土イメージ 9世紀第2四半期
「大」と「大加」の分布パターンは大変よく似ています。分布の重心が明確に直線道路北側に移動しました。
同じ遺構から「大」、「大加」の双方が出土している場所も多数個所あります。
「大」、「大加」ともに最多出土遺構は直線道路北側にあるのですが、その場所は近くですが、別遺構であり、特徴的です。
「大」亜集団と「大加」亜集団は双方入り混じっているにも関わらず、その亜集団拠点は異なります。
上記の「大」と「大加」関係から、次の考察を導くことができます。
9世紀第2四半期の特徴的分布とこれまでの検討結果を重ねると次のような情報を得ることができます。
「大」亜集団と「大加」亜集団の近接拠点に関する考察
「大」亜集団の拠点A(複数遺構により構成される)からは多数の鉄鏃が出土しています。その様子から、この場所を鳴神山遺跡を防衛する戦略拠点としての砦であると考えました。
一方、「大加」集団の拠点B(1遺構)からは鉄鏃が1本も出土していません。しかし「弓・大加」「弓・大加・弓」という墨書土器が出土しています。
「弓」という祈願語は、武器である弓矢を持つことを務めとする(生業職種とする)兵士、つまり戦闘員が、自分の職務完遂を祈願しているのだと思います。2015.09.30記事「鳴神山遺跡の興味ある墨書土器」参照
「大加」集団が戦闘員であり、その墨書土器が出土した遺構からは鉄鏃が全く出土しないという情報は大変興味深い、重要な情報であると考えます。
集落を襲う盗賊集団に備えてプロの戦闘員集団(「大加」集団)を雇い、武器(弓矢)は雇い主「大」集団拠点Aに常備し、戦闘員集団「大加」集団の拠点Bには武器「弓矢」が無かった可能性が濃厚です。
雇われたプロの戦闘員集団(「大加」集団)が武器(弓矢)を常備すると、その武力により集落が脅かされてしまうからだと思います。
「大加」集団は日常は通常の牧業務に従事し、盗賊集団に襲われた時に、砦に駆けつけ武器を持って応戦したのだと想像します。
また、「大加」集団は奴婢、浮浪人、俘囚など下層の人々であった可能性を想像します。
このように検討(想像)すると、文字「大加」の意味をこれまでと異なる意味として捉える必要があります。
これまでは、「大加」の加は「酒を注ぐ」という意味で考えていました。
参考 墨書・刻書文字の意味解読パターン素案(2016.10.16)
しかし、「大加」集団拠点から文字「弓」が出土するのに、鉄鏃が出土しない状況から、加は「仲間に加わる」「加勢する」というような意味あいで考えることができそうです。
「大」は8世紀第1四半期から継続している本流筋であり、「大加」は蝦夷戦争後の9世紀になって「大」集団に新たに「加」わった戦闘員集団であると考えます。
墨書土器の意味として、「大加」は「大国玉神に、(集落防衛に)加わって成功することを祈願する」ということになります。
「大加」という墨書(刻書)がデザインされた組文字になっているものが多いので、「大加」は一種のエンブレムだったと思います。
組文字「大加」が単純な祈願行為の結果であっただけでなく、集落防衛に加わる「大加」集団の一員であることを誇り高く表現していたと考えます。
大加組文字(墨書土器画像から模写)
空想に空想を重ねれば、下層の人々が戦闘員(武士)という危険な業務ではあるが、まっとうな生業に就けた喜びを「大加」エンブレムに投影していたと考えます。
同じ遺構から「大」、「大加」の双方が出土している場所も多数個所あります。
「大」、「大加」ともに最多出土遺構は直線道路北側にあるのですが、その場所は近くですが、別遺構であり、特徴的です。
「大」亜集団と「大加」亜集団は双方入り混じっているにも関わらず、その亜集団拠点は異なります。
「大」と「大加」の出土イメージともに9世紀第2四半期と類似しています。
「大」と「大加」の関係も9世紀第2四半期と変化ありません。
「大」と「大加」はほとんど全滅した状況です。
上記の「大」と「大加」関係から、次の考察を導くことができます。
9世紀第2四半期の特徴的分布とこれまでの検討結果を重ねると次のような情報を得ることができます。
「大」亜集団と「大加」亜集団の近接拠点に関する考察
「大」亜集団の拠点A(複数遺構により構成される)からは多数の鉄鏃が出土しています。その様子から、この場所を鳴神山遺跡を防衛する戦略拠点としての砦であると考えました。
一方、「大加」集団の拠点B(1遺構)からは鉄鏃が1本も出土していません。しかし「弓・大加」「弓・大加・弓」という墨書土器が出土しています。
「弓」という祈願語は、武器である弓矢を持つことを務めとする(生業職種とする)兵士、つまり戦闘員が、自分の職務完遂を祈願しているのだと思います。2015.09.30記事「鳴神山遺跡の興味ある墨書土器」参照
「大加」集団が戦闘員であり、その墨書土器が出土した遺構からは鉄鏃が全く出土しないという情報は大変興味深い、重要な情報であると考えます。
集落を襲う盗賊集団に備えてプロの戦闘員集団(「大加」集団)を雇い、武器(弓矢)は雇い主「大」集団拠点Aに常備し、戦闘員集団「大加」集団の拠点Bには武器「弓矢」が無かった可能性が濃厚です。
雇われたプロの戦闘員集団(「大加」集団)が武器(弓矢)を常備すると、その武力により集落が脅かされてしまうからだと思います。
「大加」集団は日常は通常の牧業務に従事し、盗賊集団に襲われた時に、砦に駆けつけ武器を持って応戦したのだと想像します。
また、「大加」集団は奴婢、浮浪人、俘囚など下層の人々であった可能性を想像します。
このように検討(想像)すると、文字「大加」の意味をこれまでと異なる意味として捉える必要があります。
これまでは、「大加」の加は「酒を注ぐ」という意味で考えていました。
参考 墨書・刻書文字の意味解読パターン素案(2016.10.16)
しかし、「大加」集団拠点から文字「弓」が出土するのに、鉄鏃が出土しない状況から、加は「仲間に加わる」「加勢する」というような意味あいで考えることができそうです。
「大」は8世紀第1四半期から継続している本流筋であり、「大加」は蝦夷戦争後の9世紀になって「大」集団に新たに「加」わった戦闘員集団であると考えます。
墨書土器の意味として、「大加」は「大国玉神に、(集落防衛に)加わって成功することを祈願する」ということになります。
「大加」という墨書(刻書)がデザインされた組文字になっているものが多いので、「大加」は一種のエンブレムだったと思います。
組文字「大加」が単純な祈願行為の結果であっただけでなく、集落防衛に加わる「大加」集団の一員であることを誇り高く表現していたと考えます。
大加組文字(墨書土器画像から模写)
空想に空想を重ねれば、下層の人々が戦闘員(武士)という危険な業務ではあるが、まっとうな生業に就けた喜びを「大加」エンブレムに投影していたと考えます。
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