2016年1月23日土曜日

鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.272 鳴神山遺跡 鉄鏃と墨書文字「大」の関係

 これまでに、紡錘車出土を集落資産存在の指標として、鉄鏃出土を防衛拠点存在の指標として見立て、その相関関係を検討してきました。

この記事では鉄鏃出土と墨書文字「大」(オオ、オホ)出土の関係を考察して、動員解除・戦後時代に鳴神山遺跡集落の防衛を担った集団が「大」を祈願語とする集団であったことを検討します。

次の多数の図は鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージを年代毎に並べて対照できるようにしたものです。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側から出土します。
8世紀第1四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」は直接対応していません。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側から出土します。
8世紀第2四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側からも出土するようになります。
8世紀第3四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
鉄鏃も墨書文字「大」も直線道路北側からも出土しますが、限られています。
8世紀第4四半期の開発域の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は1か所だけです。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が特段に強く結びついているとは考えられません。
「大」を祈願語とする集団は防衛とは無関係であり、別の生業つまり牧業務を持っていたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路南側と北側で増加します。特に北側でその増加が顕著です。
9世紀第1四半期の牧開発域が急拡大の場所が判りますが、鉄鏃と墨書文字「大」の直接対応は3か所になります。
直線道路南側の「大」多出ポイントでは鉄鏃出土に対応しませんが、直線道路北側の墨書文字「大」出土集中個所では鉄鏃集中出土と対応します。
「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)が強く結びついている場所が現れたことになります。
この時代から「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務も担いだしたと考えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡北側に集中して分布するようになります。
9世紀第2四半期の牧開発域が直線道路跡北側であったことが判ります。
直線道路跡北側で鉄鏃集中出土場所と墨書文字「大」集中出土場所が対応して、2つの指標の間に強い関連性が生まれます。
9世紀第1四半期に生まれた、「大」を祈願語とする集団と武装(鉄鏃)の結びつきが大変強いものになったことがうかがわれます。
「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務もその主務の一つになったように見えます。

このような考察をポンチ絵にすると次のようになります。

9世紀第2四半期の鉄鏃出土と墨書文字「大」出土の関係に関する考察

「大」を祈願語とする集団が時代の変遷の中で、鳴神山遺跡集落全体を守るような位置に武装拠点を持った様子から、「大」集団の武力はあくまでも本来生業を自衛するような性格のものであると考えます。

「大」集団が他集落を襲い略奪行為をして生計を立てていた攻撃的な集団であるという可能性は現時点の情報では特に得られていません。

同時に、「大」集団が牧業務だけでなく、馬を使って遠征して略奪行為を行い、その結果として鳴神山遺跡が9世紀第2~3四半期に発展したと考えることを頭ごなしに否定する情報もありません。

鳴神山遺跡が、また近隣の下総台地の多くの開発集落が9世紀一杯でほとんど消滅するので、その一因に(主因に?)集落間の略奪行為があったと考えます。


鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡北側に集中して分布します。
9世紀第3四半期の牧開発域が直線道路跡北側であったことが判ります。
直線道路跡北側で鉄鏃集中出土場所と墨書文字「大」集中出土場所が対応して、2つの指標の間に強い関連性が引き続き保たれています。
「大」を祈願語とする集団が本来の生業つまり牧業務とともに、集落防衛業務もその主務の一つにしているように見えます。

鉄鏃出土イメージと墨書土器の文字「大」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
墨書文字「大」の出土が直線道路跡南側に1軒だけあります。
9世紀第4半期には「大」集団及び鳴神山遺跡集落全体が壊滅状態にあることがわかります。


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