2016年1月21日木曜日

鳴神山遺跡 墨書土器文字「大」の年代別出土イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.271 鳴神山遺跡 墨書土器文字「大」の年代別出土イメージ 

鳴神山遺跡の竪穴住居のうち出土物の多い183サンプルについてその年代表が作られていますので、その年代表に対応させて出土物の検討を行っています。

これまで鉄鏃と紡錘車について検討してきました。

鉄鏃は防衛拠点を意味するのではないかと考えています。

その鉄鏃分布と墨書土器文字「大」(オオ、オホと読むと考えています)の分布が時間的、空間的に似ているように見えます。鉄鏃と文字「大」の間に関連があるのではないかと考えていますので、これから検討します。

この記事では文字「大」の時間的、空間的イメージ図を紹介します。

鳴神山遺跡竪穴住居 文字「大」 墨書土器出土数イメージ

鳴神山遺跡の最大出土墨書文字は「大」です。

その文字は8世紀第1四半期から9世紀第4四半期まで出土しますが、メインの出土期間は動員解除・戦後時代の9世紀第1四半期~第3四半期です。

半年前の自分の予想では「大」は蝦夷戦争における兵站基地での活動のなかで祈願文字として書かれたものと考えていましたから、その予想は見事に、大いに外れました。

蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代に「大」は書かれていたので、種はあったのですが、それが爆発的に広がったのは動員解除・戦後時代です。

現時点の仮説としては、蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代の「大」は律令国家が運営した大結馬牧の出先牧(東京湾岸から香取の海に牛馬を搬送する道路に設けた中継牧)の集団の祈願語として考えておきます。

動員解除・戦後時代の「大」は大結馬牧出先牧の集団を核にして、鳴神山遺跡集落に本格的な馬牧が建設され、その馬牧集団の祈願語であったと考えます。

動員解除・戦後時代の本格的な馬牧は直線道路北側につくられ、その位置は盗賊集団(俘囚か?)の略奪(馬や食料・衣服等)を最初に受ける位置であったので、「大」集団が鳴神山遺跡集落を守る軍事的役割を担ったのだと仮説しておきます。


鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第1四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する。
中継馬牧は直線道路南側に存在していたのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第2四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する。
中継馬牧は直線道路南側に存在していたのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第3四半期

蝦夷戦争準備時代
「大」は直線道路南側から出土する分の方が多く、北側からも出土するようになります。
中継馬牧は直線道路南側に存在していて、順次北側にも広がったのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 8世紀第4四半期

蝦夷戦争時代
「大」は直線道路南側から出土する分の方が多く、北側からも出土するようになります。
中継馬牧は直線道路南側に存在していて、順次北側にも広がったのかもしれません。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第1四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路の南側でも北側でも増えます。
直線道路が埋め立てられ、地域分断という障害がなくなったので、馬牧が直線道路跡の両側に広がっていたと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第2四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路跡の北側で急増します。
馬牧が直線道路跡北側の広大な土地に展開し、同時に拠点が生まれ、「大」と書く祈願(墨書土器打ち欠き)が行われ、鉄鏃を用意して砦(要塞)として、盗賊の略奪に武力で対抗したのだと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第3四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が直線道路跡の北側で多くなっています。
馬牧が直線道路跡北側の広大な土地に展開し、同時に拠点が生まれ、「大」と書く祈願(墨書土器打ち欠き)が行われ、鉄鏃を用意して砦(要塞)として、盗賊の略奪に武力で対抗したのだと考えます。

鳴神山遺跡竪穴住居からの墨書土器「大」出土イメージ 9世紀第4四半期

動員解除・戦後時代
「大」の出土数が激減し、直線道路跡の北側では完全に消失します。
「大」集団が消滅した様子が表現されていると考えます。

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