2013年7月25日木曜日

古代官道跡を米軍空中写真でみる(その3)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 41

3-4 C調査区
C地区は戦前に鷹之台ゴルフ倶楽部が造成され、戦中から開拓がはじまり畑地に変わったところです。従って2回にわたる土地改変が行われた場所です。

鉄道連隊軌道跡から高台南古墳までの間には線上の地形、施設、土地利用境界はありませんが、畑地に細長い影(ソイルマーク)が見えます。

このソイルマークの意味は不明ですが、この場所に柏井・高津古代官道があり、その廃滅後馬防土手として利用されたことを考えると、そのどちらかの痕跡の可能性があります。

ソイルマークの幅が広いことを顧慮すると柏井・高津古代官道の痕跡が表現されてていると考える方が妥当性があります。

C地区説明図

3-5 高台南古墳
高台南古墳とソイルマークの関係を拡大してみました。

高台南古墳とソイルマークとの関係

参考 高台南古墳付近の裸眼実体視資料

この写真から、ソイルマークが後円部(主丘)頂部に向かって「ドンヅケ」になっていることが判ります。

柏井・高津古代官道の起終点のイメージ

柏井・高津古代官道は二つの古墳に「ドンヅケ」で一旦終端となる極めて特徴的な道路施設です。このことが意味することを今後十分に検討したいと思っていますが、現在次のような考えについて、その適否を検討してみたいと思っています。

1 直線路をつくるために単純に古墳を測量目標として利用した。

2 律令国家の権威を示すために、地元豪族の聖地をわざと俗空間に取り込み、国家中央の支配性を民衆にわかるようにした。(聖地[墓]の価値をおとしめる。)

3 東京湾水系豪族の聖地と印旛沼水系豪族の聖地を直接結ぶことにより、東京湾水系世界と印旛沼水系世界の連絡性、一体性、融和性等を律令国家が演出した。(聖地[墓]の価値の活用。)

4 東京湾水系豪族の聖地と印旛沼水系豪族の聖地を直接結ぶことにより、国家官僚や一般民衆が参拝しやすいようにした。それにより、双方の聖地に対する民衆の尊崇の念や律令国家が払う敬意を表現しようとした。(聖地[墓]の価値の増進)

5 古墳が備える機能(沢山の人が集まれる広場併置、古墳を維持管理する要員の常駐等)を律令国家中央が活用しようとした。(地元豪族に対する強制的な土地・役務提供命令。)

6 古墳を人質にとることにより、地元豪族に対する支配性を強めた。

7 全くの未開発地である台地上にあって古墳は唯一人工施設であり、万人の地理的目標になる。そこで古墳の地理的目標機能を活用して官道の起終点とした。起終点には、通行者に対する利便施設(水・トイレ・休憩等)も併置されたかもしれない。

8 二つの古墳ともその墳丘頂部に立てば対する古墳が見えたので、広幅員直線官道を古墳にドンヅケすることにより、古墳から見る官道風景の印象を強烈なものに演出した。柏井・高津古代官道は(実用性もさることながら)古墳と広幅員直線道路が織りなす、強烈なインパクトを持つ景観施設であった。古墳は人々に官道を見せる重要な視点場(見晴台)であった。

9 全くの未開発地である台地上にあって、古墳は付近で唯一の人工施設である。この古墳に官道をドンヅケすることにより、官道から脇道などを通るルートに人や物が流れないようにし、通行者や物のチェック、徴税等を一元的に行えるようにした。

10 古墳に官道をドンヅケすることにより、官道を通って攻めてくる敵軍を古墳で効果的に迎え撃てるようにした。軍事的防御機能。要塞的機能。

11 杵隈(カシワイ=船着場)と高津(直轄港湾)の狼煙通信や旗・幟通信の場として古墳を利用した。そのため、古墳同士の見通しをよくするために、官道を古墳にドンヅケした。

………………………………………………
「高台南古墳」という名称は、「鷹之台カンツリー倶楽部」のクラブハウス南側にある古墳だからという理由で付けられたものと推察します。適切な命名ではありません。
………………………………………………

つづく

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2013年7月24日水曜日

古代官道跡を米軍空中写真でみる(その2)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 40

[訂正しました。当初投稿では官道跡に道路があるとしていましたが、馬防土手でした。]

3-3 B調査区
B地区における柏井・高津古代官道跡を米軍空中写真から検出しました。
捨土土手及び谷壁斜面では土地利用界となっています。
捨土土手の範囲外では、下総下位面と古柏井川谷底を区切る段丘崖斜面の直下にみつかる馬防土手が柏井・高津古代官道の跡です。

B地区説明図

参考 B地区の裸眼実体視資料
裸眼実体視の方法は2013.05.04記事「特別参考 鉄道連隊建設橋脚等の裸眼実体視資料」参照

空中写真を実体視すると、馬防土手の凸地形を確認できます。

捨土土手のある部分の本来の地形は、下総下位面であったと考えられますから、柏井・高津古代官道は下総下位面を通る途中で一段低い(4~5m低い)古柏井川谷底を通っていることになります。
このことは大変興味深いことです。

現代なら、盛土をするなり、橋梁をかけるなりして道の高低差をなくすことが出来ますが、近世までにあっては限られた財力と技術の範囲で、できるだけ地形を利用して道の高低をなくそうとします。
柏井・高津古代官道の場合、B地区で、その部分だけ道を西に数十mずらせば問題は100%解決します。
ところが柏井・高津古代官道では、そのような合理的な道のつくり方をしていません。強引に直線性を維持して、土地の高低差(4~5m)は気にしないで道路を通していることになります。

次の写真は段丘崖下の馬防土手の状況です。馬防土手の幅員は約3m程度です。この馬防土手は柏井・高津古代官道廃滅後、その跡地を利用して造られたものであると考えられます。
空中写真を拡大して実体視して調べると、この馬防土手は、段丘崖直下の古柏井川谷底を通るだけでなく、段丘崖斜面をも通っていることが判ります。捨土土手の上は通っていません。このことから、馬防土手は天保期印旛沼堀割普請以前にできたものであることが確認できます。

馬防土手として残っている柏井・高津古代官道跡

なお、ここに示した馬防土手は迅速図(明治15年測量)に出ている馬防土手の延長にあるもので、これまで見つかったことが無かったものです。いわば新発見の馬防土手です。

この馬防土手が見つかったことから、柏井・高津古代官道は廃滅後全て馬防土手として利用された時期があったものと考えることが妥当であると考えます。


ここまで出てきた柏井・高津古代官道の非合理性及び謎は次の通りです。

1 柏井と高津を結ぶものでありながら、柏井の起点を花見川東岸にしていること。(わざわざ花見川谷津(と古柏井川谷津の谷中分水界)を余分に横断する必要がある。)

2 B地区で下総下位面から古柏井川谷底に一旦降りて、再び登る高低差のあるルートとなっていること。(数十mルートをずらせば高低差は回避できるのに。)

3 2つの古墳を起終点としていること。(墓を測量杭代わりに利用するという心性が古代人にあるのか?)

現代人からみると、合理性に欠け理解しがたい柏井・高津古代官道のこの建設思想こそ、柏井・高津古代官道の最大の特徴であると想定しています。

柏井・高津古代官道の非合理性と謎の理由(解釈)について、律令国家創設初期の状況を念頭に、更に検討を深めたいと思います。

また、米軍空中写真で馬防土手を見つけ出し、柏井・高津古代官道の跡が全て馬防土手として利用されたことがあったと考えるようになりました。そのため、この直線状の境界線が馬防土手起源ではなく、もっと古い柏井・高津古代官道の跡であるという説明の根拠を、より明白に示す必要性を感じるようになりました。

現在のところは数多くの「状況証拠」しかない段階です。

柏井町と横戸町の直線状の境界線が、馬防土手起源ではなく、柏井・高津古代官道起源であるという証拠を見つけるまであと一息のような予感がしています。

大変エキサイティングな展開になってきたと考えています。

つづく

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2013年7月23日火曜日

古代官道跡を米軍空中写真でみる その1

花見川地峡の自然史と交通の記憶 39

1 古代官道の仮称
これまでこのブログで「古代官道(仮説)」という表現で古代官道跡について表示してきましたが、固有名称を与えて表現と理解を容易にできるようにすることとします。今後「柏井・高津古代官道」と仮称することとします。

2 使用した米軍空中写真と調査区
分析に使用した米軍空中写真は次の2枚です。
USA-R2769-95 1949年4月26日撮影
USA-R2769-96 1949年4月26日撮影
印画紙プリント空中写真をスキャナーで1200dpiで電子画像としてパソコンに取り込み、画像ソフト(フォトショップ)で実体視や画像分析しました。
空中写真の幾何補正等はしていません。

調査区を次のように設定して、調査区毎に詳細に検討しました。

調査区の設定
USA-R2769-95(部分)を使用

3 柏井・高津古代官道跡の確認
3-1 双子塚古墳
実体視すると、双子塚古墳の東側は樹木がなく開けた空き地になっていて、東の道路から双子塚古墳が見えるようになっています。
双子塚古墳の上には樹木が生えています。
双子塚古墳を基点にするように土地利用界が鋭く折れ曲がっています。

参考 双子塚古墳の姿
1982年発掘調査前撮影写真(出典:「千葉市双子塚」千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター、1983)
古墳背後は樹林に覆われている捨土土手

3-2 A調査区
柏井・高津古代官道跡が直線状土地利用界として明瞭に残っています。
直線状土地利用界は天保期印旛沼堀割普請の捨土土手地形の上に走っています。
従って、天保期印旛沼堀割普請の後に再測量して、古代から続いてきた境界(柏井村と横戸村の境界)を再度正確に設定しています。
柏井・高津古代官道の跡が江戸時代の国家的大土木工事をもってしても消滅しないという強烈な保守力、維持力に一種の感動をおぼえます。

A地区説明図

A地区の地形イメージ

柏井・高津古代官道跡が直線状土地利用界として空中写真で認識できますから、それ以上の画像分析は特段必要ではありませんが、参考までにフォトショップの「輪郭のトレース」という機能を使って直線状土地利用界を確認しました。

A地区の画像分析(「輪郭のトレース」)

さて、柏井から高津に向かうのに、なぜわざわざ花見川東岸の双子塚古墳を基点にして古代官道ができたのか、根本的な疑問が湧きます。

その解答に迫る情報をB地区と高台南古墳で得ることができました。

B地区以降は別記事とします。


つづく

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2013年7月22日月曜日

千葉市立中央図書館所蔵「千葉市小字図」の館外帯出が叶う

花見川地峡の自然史と交通の記憶 38

2013.07.08記事「千葉市小字図(タイプ印刷)を実見する」で「千葉市小字図(タイプ印刷)」(和田茂右衛門、昭和53年)[コピー製本]について紹介しました。

1 館外帯出
このたび、千葉市立中央図書館の計らいで同書の館外帯出が叶い、自分のパソコンの前で使うことができるようになりましたので、報告します。
千葉市立中央図書館に感謝します。

パソコン前の机上で広げた「千葉市小字図」
(正面画面すぐの資料)

千葉市小字図の外姿
B4判約350ページのコピー製本

千葉市小字図は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 上・下巻」(千葉市発行)の小字情報をさらに詳細分析する時に必要な専門資料(補完資料)として大変有用です。

2 「千葉市小字図」の「はしがき」紹介
私は地名、特に小字について興味を持っていて、いつかGIS上に小字図を作成したいと考えていますが、「千葉市小字図」の「はしがき」にも同じ願いが書いてありましたので、紹介します。

「はしがき
世の落着きとともに、郷土史への関心が高まってきました。あたかも千葉開府八五〇年という加担もあり、社会教育の振興もあずかって老若を問わぬ取り組みは、郷土研究に新しい視点を当て、徐々に解明されてゆくことは喜びにたえません。
しかし、一方では首都圏の共通した現実として、宅地造成はじめ、開発の前に地域社会の崩壊も急速に進んでいます。そして民俗資料や古文書の消失、農村社会に伝承された地域の行事も忘却されてゆくことは、寂しい至りです。古いロマンを今日に伝えてくれる地名も消え去ります。
このような時期に、「小字図」は、郷土研究に欠かせぬ基礎史料としての意義を一段と高めることでしょう。
市内の小字図については、昭和三十年ごろの拙著が、県中央図書館の郷土室等で識者の利用に供されているところですが、その後、市域の拡大や町名の変更等で不便さは争えませんでした。
この度市内に散在する小字図をもとに、集録したのが、本冊子です。もとより手づくりなので、規格はまちまち。原図も、明治九年に村々から県へ提出したものが主体としたが戦後市域編入にあたり土地の所有関係を明確にしておく目的で作られた小字図もある。原図を何分の一かに縮図したので地名の判読しにくい地域もあります。
齢七十も半ばを過ぎての老躯が五年の歳月をかけ、タイプライターをうちつづけた地名解説とあわせ、ミカン箱に収めると十六箱の量に達しました。この時期を逸しては、千葉市の小字図の集大成は一層困難になるであろうという危惧からあえて手がけた稿本です。
近い将来には、千葉市の事業として一万分の一ぐらいの現代地形図に統一的な小字図が完成されることを願ってやまない。
なお小字名等の不鮮明については、原図が左記に保存されているので照合いただきたい。
・千葉県中央図書館・郷土室
・和田宅 千葉市院内○の○の○
昭和五十三年盛夏 和田茂右衛門
協力 安藤一郎 西川明
注1 №23~27に相当する長沼原、三角、大日、千種の各町の資料が未発見なので欠番。
注2 №48松が丘も未発見につき欠番。№70は大高町と小山町共有番号
注3 №72「谷津村」とは、現在の「椎名崎町(№80)内に属するものです。
以上」

「近い将来には、千葉市の事業として一万分の一ぐらいの現代地形図に統一的な小字図が完成されることを願ってやまない。」という和田茂右衛門先生の願いは実現していません。

さて、昭和53年(1978年)から現在(2013年)までの35年間で技術が大いに進歩し、個人レベルで、GIS上で(パソコン上で)小字図をつくることが、技術面では難なくできるようになりました。
そこで、近い将来、千葉市を含む近隣地域の小字図(界線図)をつくりたいと思っています。
作業量は結構なものになると思いますが、「千葉市小字図」を作成するために和田先生が要した眩暈のするような膨大な時間と比べると、至ってコンパクトな作業であり、個人で作成できると思っています。

つづく

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2013年7月21日日曜日

千葉市花見川区横戸町の小字「高台向」が意味するもの

花見川地峡の自然史と交通の記憶 37

1 千葉市花見川区横戸町の小字「高台向」
千葉市花見川区横戸町に小字「高台向」(タカダイムケエ)(読みは「千葉市小字図」(和田茂右衛門、昭和53年)による)があります。平戸川とそれに合流する高津川に面した台地上の小字です。

この小字には古墳が多数あります。また縄文時代以降の遺跡も存在しています。川を見下ろす台地端に位置していることから、私はここが「横戸村」という広域地名になる前の「横戸」地名の発祥地ではないかと考えています。(後日記事にする予定です。)

一方、柏井町には高台(タカダイ)という小字名があります。
かつて、東京湾水系花見川の源頭部と、その花見川の侵食作用により空川になってしまった古柏井川(印旛沼水系)谷津が谷中分水界をなすところがありました。その谷中分水界のある場所の台地が高台という小字になっています。

高台と高台向は名称として近親関係にあると考えられています。
高台にちなんで、「鷹之台ゴルフ倶楽部」(現在「鷹之台カンツリー倶楽部」)という施設が横戸町高台向に戦前につくられています。
「鷹之台カンツリー倶楽部」にちなんで、戦後、地域に「鷹の台自治会」がつくられています。

小字「高台向」と小字「高台」
出典:「千葉市史 史料編 9 近世」収録小字分布図(横戸村、北柏井村、南柏井村の小字分布図を近づけて表示)

2 小字「高台向」が意味するもの
以下は仮説です。

「高台」や「高台向」がいつごろから使われ出した地名であるか不明ですから、確定的なことは言えません。しかし、天保期印旛沼堀割普請の時には「高台」という地名が出てきますから、「高台」及び「高台向」はそれ以前からある古い地名であると考えます。

さて、高台の意味は素直に受け取ることができます。谷津の最も高い部分(谷中分水界)近くの台地ですから二重に高台です。谷津を縦断する時に最も高い場所であり、谷津と台地を比較しても台地は高台です。

高台向は、とても意識してつけた名称です。高津川が平戸川に合流する谷底平野を眺望する台地縁に存在するにもかかわらず、その谷底平野とは逆の台地奥の、それも印旛沼水系ではなく東京湾水系の谷津谷頭部を見て、つけられた地名です。

更に、高台向ということは、主体が高台であって、高台向は従であります。

通常の地名の付け方ではこのような地名はできないと思います。

やはり、この地名は古代官道(仮説)に絡めて考えることが必須だと思います。

私は、古代官道(仮説)の管理に係ったのが横戸の人々であることから、この地名が付けられたのだと思います。

例えば、律令国家中央から、官道(陸路部分)の管理担当は横戸,杵隈(カシワイ、船着場)の管理担当は柏井、高津(直轄港湾)の管理担当は高津などとの労役区分があったのだと思います。

横戸の人々が、古代官道(仮説)の管理役務をするとなると、視線(意識)は道路に向きます。その方向は高台です。ですから、自分たちの場所は高台向となります。

要するに、高台向という地名は古代官道(仮説)管理にその場所の人々が動員されたためにうまれたものであると思います。

横戸が古代官道(仮説)の管理にかかわったというイメージ

横戸の人々が古代官道の一括管理をさせられていたために、その管理地にあった双子塚古墳は、本来柏井方面の豪族の古墳であったにもかかわらず、官道廃滅後、いつの間にか横戸のものになってしまいました。一種の役得です。


つづく

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古代官道(仮説)で参考にした図書

花見川地峡の自然史と交通の記憶 36

2013.07.19記事「古代官道(仮説)を地籍図からみる」で、古代官道の跡を昭和9年の地番割図から読み取りましたが、この作業を思いついたきっかけは、直前に読んだ次の図書によるものです。自分の思考の流れを記憶しておくために、記録しておきます。

中村太一著「日本の古代道路を探す 律令時代のアウトバーン」(平凡社新書、2000.5)

中村太一著「日本の古代道路を探す 律令時代のアウトバーン」(平凡社新書、2000.5)

この図書には「古代道路の探し方」という章があり、その章の次の記述を参考にしました。

●行政境界線
「古代の主要道路は、しばしば国郡郷の境界線として利用されている。これは、計画道路が大地に刻まれた明瞭なラインを形成しており、境界線に活用しやすかったためと考えられる。現在でも道路は、様々な境界線に利用されている。
このことを逆手にとり、現在の直線的な行政境界線を追いかけることによって、古代道路の路線を復原・想定する方法がある。この方法を使用した場合、境界線だけでなく、地割など何らかの道路痕跡がともに見出されるというケースが多い。」
「古代道路が廃滅し、その地割さえ消滅してしまった場所でも、境界線だけはしっかりと残っているという事例もある。これは、境界が土地所有と絡むからである。…
境界線が一度でも固定し、そこに土地所有や資源が絡むと、その歴史に束縛されて境界線はなかな変わらず、…」

●旧道・地割
「日本古代の主要道路は非常に直線的である。このことから逆に、現地表面にのこる直線的な旧道や地割を探すことにより、古代道路の路線を具体的に追求することができる。なぜなら、日本の歴史において直線道路が全国的に敷設されたのは、律令国家の時代と近代-特に高度成長期以後だけだからである。」
「10~20メートル幅の細長い土地区画が見出されるケースもある。この場合は、古代道路の広い敷地がそのまま現在の土地区画に反映しているわけで、路線ばかりか道路幅をも推定する材料になる。細長い地割が、一定の幅を保ちながら連続している場合や、周辺の土地区画とは異なる不自然な地割を形成している場合は、道路痕跡として特に有望なものになる。」

●廃滅道路の取り合いによるクランク形成
「律令国家の政策が変わって、その幅広い道路を維持していく必要がなくなった。さて、農民であるあなたは、この計画道路の敷地をどうするだろうか?私だったら、道路に必要な幅を残して、あとはさっさと自分の耕地にしてしまう。目端の利く人が始めたのか、村で相談して開墾したのかそのあたりは分からないが、何といってもモノが結構広い土地である。それを見た人たちは、我先に右にならったであろう。実際、現在の道路が、幾つものクランクを組み合わせたような使いにくい道になってしまった地域さえある。これなどは、それぞれが勝手に早い者勝ちで、両側から道路を侵食してしまった結果といえる。」

つづく

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2013年7月20日土曜日

古代官道(仮説)と地籍図(補論)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 35

2013.07.19記事「古代官道(仮説)を地籍図からみる」で示したように、古代官道の跡が昭和9年の地番割図から読み取れることが判りました。

関連情報を補っておきます。

1 地籍図上の古代官道(仮説)位置と馬防土手、古墳の位置
昭和9年の地番割図を2枚近づけた図に馬防土手の位置と二つの古墳の位置を掲載しました。

古代官道(仮説)に関する情報図
次の情報を集成している。
●大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和9年7月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)
●境界沿いの細長い筆とクランク
1~5は境界線に接する細長い筆
A~Fは境界線のクランク
●迅速図(明治15年測量)
馬防土手位置を2枚の地番割図にそれぞれ記入。(馬防土手が2つあるわけではない。)
●千葉県埋蔵文化財分布地図
双子塚古墳と高台南古墳の位置を記入。

この情報図から、この直線状境界が馬防土手起源ではないことが判ります。
古代官道(仮説)と2つの古墳との間に深い関係があることがわかります。

2 双子塚古墳付近の筆形状

次の図は旧版1万分の1地形図に現代の町丁目界線をプロットしたものです。
双子塚古墳が直線状境界の起終点になっていることと、それが横戸村サイドに含まれていることを確認できます。

旧版1万分の1地形図に表現された双子塚古墳と現代の町丁目界線
旧版1万分の1地形図は「三角原」図幅(部分)(大正6年測量)

この部分の地番割図を拡大してみると、興味あることが判ります。

大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)(部分拡大)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和9年7月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)

柏井村サイドの地番割図の直線状境界が折れ曲がる所は現代の町丁目界線と同じ形状になっています。
ところが、横戸村サイドの地番割図は一旦クランクしてから折れ曲がります。
双子塚古墳を避けて筆が成立しているものと考えました。

このことから次の2点について考察しました。
ア 双子塚古墳そのものが古代官道の起終点であったと考えられること。
双子塚古墳からスタートして古代官道がつくられたと考えます。古代官道が使われなくなり、その敷地を柏井サイドと横戸サイドが早いもの勝ちで取得していった時代に、双子塚古墳を自分のものと横戸サイドが考えていなかったことがあったのだと思います。それが、このクランクに表現されているものと考えます。

イ 当初、双子塚古墳を避けて横戸村が筆の界線を描いた理由は明白
双子塚古墳は東京湾水系花見川の下流平野部を耕作している豪族の古墳です。その古墳が古代律令国家によっていわば道路の起終点標(杭)として利用されたのです。それが使われなくなって、国家中央の影響が薄くなって、道路敷が早い者勝ちの取り合いになったからといっても、最初は横戸村サイドに遠慮みたいなものがあったのだと思います。
横戸村は印旛沼水系平戸川を根拠とする集落です。
結果としてこの古墳は横戸村のものになっているのですが、奈良平安の時代に地籍図上では(地籍図は無かった思いますが、それに替わるような社会の仕組みの中で)横戸村のものにしていなかったことがあり、その残像みたいなものが昭和9年まで引き継がれたと考えます。

3 古代官道の幅員について
「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和9年7月、全国町村地番地図刊行会陽明社)は縮尺3000分の1となっています。

この縮尺を頼りにして、横戸村サイドの地番割図から読み取れる直線状境界における細長い筆とクランクの幅について8つを計測してみました。

その結果平均は11.6mという結果になりました。

古代官道の幅員は、東海道本道に匹敵する広幅員道路だった可能性が濃厚です。
古代に、東海道本道に匹敵するような広幅員道路がつくられたので、その跡が町丁目界線として現代にまで忠実に残っていると考えることができます。

つづく

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