花見川地峡の自然史と交通の記憶 40
[訂正しました。当初投稿では官道跡に道路があるとしていましたが、馬防土手でした。]
3-3 B調査区
B地区における柏井・高津古代官道跡を米軍空中写真から検出しました。
捨土土手及び谷壁斜面では土地利用界となっています。
捨土土手の範囲外では、下総下位面と古柏井川谷底を区切る段丘崖斜面の直下にみつかる馬防土手が柏井・高津古代官道の跡です。
参考 B地区の裸眼実体視資料
空中写真を実体視すると、馬防土手の凸地形を確認できます。
捨土土手のある部分の本来の地形は、下総下位面であったと考えられますから、柏井・高津古代官道は下総下位面を通る途中で一段低い(4~5m低い)古柏井川谷底を通っていることになります。
捨土土手のある部分の本来の地形は、下総下位面であったと考えられますから、柏井・高津古代官道は下総下位面を通る途中で一段低い(4~5m低い)古柏井川谷底を通っていることになります。
このことは大変興味深いことです。
現代なら、盛土をするなり、橋梁をかけるなりして道の高低差をなくすことが出来ますが、近世までにあっては限られた財力と技術の範囲で、できるだけ地形を利用して道の高低をなくそうとします。
柏井・高津古代官道の場合、B地区で、その部分だけ道を西に数十mずらせば問題は100%解決します。
ところが柏井・高津古代官道では、そのような合理的な道のつくり方をしていません。強引に直線性を維持して、土地の高低差(4~5m)は気にしないで道路を通していることになります。
次の写真は段丘崖下の馬防土手の状況です。馬防土手の幅員は約3m程度です。この馬防土手は柏井・高津古代官道廃滅後、その跡地を利用して造られたものであると考えられます。
空中写真を拡大して実体視して調べると、この馬防土手は、段丘崖直下の古柏井川谷底を通るだけでなく、段丘崖斜面をも通っていることが判ります。捨土土手の上は通っていません。このことから、馬防土手は天保期印旛沼堀割普請以前にできたものであることが確認できます。
なお、ここに示した馬防土手は迅速図(明治15年測量)に出ている馬防土手の延長にあるもので、これまで見つかったことが無かったものです。いわば新発見の馬防土手です。
この馬防土手が見つかったことから、柏井・高津古代官道は廃滅後全て馬防土手として利用された時期があったものと考えることが妥当であると考えます。
この馬防土手が見つかったことから、柏井・高津古代官道は廃滅後全て馬防土手として利用された時期があったものと考えることが妥当であると考えます。
ここまで出てきた柏井・高津古代官道の非合理性及び謎は次の通りです。
1 柏井と高津を結ぶものでありながら、柏井の起点を花見川東岸にしていること。(わざわざ花見川谷津(と古柏井川谷津の谷中分水界)を余分に横断する必要がある。)
2 B地区で下総下位面から古柏井川谷底に一旦降りて、再び登る高低差のあるルートとなっていること。(数十mルートをずらせば高低差は回避できるのに。)
3 2つの古墳を起終点としていること。(墓を測量杭代わりに利用するという心性が古代人にあるのか?)
現代人からみると、合理性に欠け理解しがたい柏井・高津古代官道のこの建設思想こそ、柏井・高津古代官道の最大の特徴であると想定しています。
柏井・高津古代官道の非合理性と謎の理由(解釈)について、律令国家創設初期の状況を念頭に、更に検討を深めたいと思います。
また、米軍空中写真で馬防土手を見つけ出し、柏井・高津古代官道の跡が全て馬防土手として利用されたことがあったと考えるようになりました。そのため、この直線状の境界線が馬防土手起源ではなく、もっと古い柏井・高津古代官道の跡であるという説明の根拠を、より明白に示す必要性を感じるようになりました。
現在のところは数多くの「状況証拠」しかない段階です。
柏井町と横戸町の直線状の境界線が、馬防土手起源ではなく、柏井・高津古代官道起源であるという証拠を見つけるまであと一息のような予感がしています。
また、米軍空中写真で馬防土手を見つけ出し、柏井・高津古代官道の跡が全て馬防土手として利用されたことがあったと考えるようになりました。そのため、この直線状の境界線が馬防土手起源ではなく、もっと古い柏井・高津古代官道の跡であるという説明の根拠を、より明白に示す必要性を感じるようになりました。
現在のところは数多くの「状況証拠」しかない段階です。
柏井町と横戸町の直線状の境界線が、馬防土手起源ではなく、柏井・高津古代官道起源であるという証拠を見つけるまであと一息のような予感がしています。
大変エキサイティングな展開になってきたと考えています。
つづく
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