2011年8月16日火曜日

花見川流域の「出生の秘密」

花見川流域区分図

花見川流域のイメージと感想1 花見川流域の「出生の秘密」

1 はじめに
花見川流域を歩き、その時感じたことや調べてみたことなどを、流域紀行形式で15の小流域全てについて、これまでに紹介してきました。
こうして花見川流域を隅々まで歩いて、その記録を情報発信してみると、花見川流域全体に対する様々なイメージや感想が生まれてきます。そうした流域レベルのイメージや感想をメモしてみました。

2 花見川流域の「出生の秘密」
上の花見川流域区分図に示すように、花見川は大きくは花見川本川ブロック、勝田川ブロック、高津川ブロックの3要素に分けることができます。
元来、花見川本川ブロックは東京湾に注ぐ流域であり、勝田川ブロックと高津川ブロックは印旛沼に注ぐ流域です。
ところが、なぜか現在は「流域変更」が行われていて、勝田川ブロックと高津川ブロックが花見川流域に含まれています。
印旛沼開発のメインが水資源開発であり、流域に広さに対応して開発水量が増えるであろうと考えると、腑に落ちません。

印旛沼流域の自然の摂理を一部破壊することになる流域変更によって花見川が生まれました。なぜそうなったのか、「出生の秘密」がありそうです。
花見川の「出生の秘密(流域変更の理由)」に関わると考える情報を現在までのところ4つ温めています。それを私の感想として紹介します。

なお、この花見川流域区分について、私が抱くイメージを模式化して次に示しました。

花見川流域イメージの模式図
H1:河川争奪前の花見川流域
H2:河川争奪によって拡大した花見川流域
H3:埋立によって拡大した花見川流域
K:勝田川流域
T:高津川流域

ア 治水面からの要請
印旛沼開発工事誌(1969.3、水資源開発公団印旛沼建設所)の2章排水計画に次の記述があります。
 「排水を効果的に行うため、疏水路流域、西部調整池流域および北部調整池流域に流域を大別して排水する。
 疏水路流域は大和田~東京湾の流域であって、従来この地域から新川を通じて印旛沼に流入していた高津落、勝田落の流域を変更して東京湾へ自然流下させ印旛沼洪水流量の軽減を図るものである。
印旛沼洪水流量の軽減のためにアプリオリに流域変更するという、宣言のような記述です。
印旛沼開発工事誌では上記記述による流域変更を前提条件として排水計画、用水計画を立案しています。流域変更自体の効果検証や分析はありません。

この記述からだけでは、流域変更する必然性を理解できません。
私が見つけた流域変更にかかる記述はこの資料だけです。
社会的には、治水上の要請から流域変更したということになっているのだと思います。

イ 利水面からの要請(想像)
このブログで初めて明らかになったように、戦前には勝田川流域の大半を占める下志津演習場の中に、特殊演習場(毒ガス演習場)がありました。高津川流域の習志野演習場の中にも、よく知られている通り、特殊演習場(毒ガス演習場)がありました。

戦後まもなく、印旛沼開発の検討が行われていたころ、習志野演習場で毒ガスによる自衛隊員被災事故などが起こって新聞報道がされています。
毒ガスに汚染された可能性のある流域の水は「いらない」と水資源開発関係者が考えてもおかしくありません。
為政者上層部が毒ガスという言葉を敢えて市民に語りたくないのは昔も今も同じでしょうから、利水面からの流域変更要請は「地下に潜った」ものと、想像します。

(「それは馬鹿げた想像だ」と納得させていただける説明があれば、花見川流域人の一人としてうれしいです。)

ウ 流域帰属意識
勝田川流域には戦前、下志津演習場があり住民は立ち退かされ、土地の利用もほとんどありませんでした。つまり、流域に帰属する意識を持つ主体(人)が居なかったのです。
戦後この地を開拓した人々の意識は流域帰属という意味では印旛沼流域ではなく、東京湾側(四街道市や千葉市側)を向いていたことは確実です。高津川流域でも事情は全く同じで、人々の意識は印旛沼側ではなく、東京湾側(船橋市、習志野市など)を向いていたと思います。
社会の歴史、人々の社会心理が流域変更に整合的であったと思います。

整合的という以上に、勝田川や高津川に「流域を変更したい」という社会心理的要請があったのかどうか、今後知りたいと思っています。
たとえば、勝田川流域に住んでいる人が、「身近な川の改修とか、水利用とか、環境を考える際に、印旛沼との関係に縛られるのではなく、東京湾側の母都市(千葉市や四街道市)との関係・連携で考えたい」と思っても、不思議ではありません。

エ 堀割普請の影響
江戸時代の堀割普請は通船ができるまでには至らなかったという意味では失敗ですが、土木構造的な意味で、花見川がその流域を勝田川や高津川を「併合」できるところまで進んでいたものと考えます。
現場ではすでに流域変更寸前の状態が現出されていたといっても過言ではないかもしれません。

地域づくりの視点から現場をみたら、後戻りして本来の流域の姿に戻すことはできないと感じたに違いありません。
流域変更の理屈はあとからつけたという感じかもしれません。

マクロな視点から見ると、自然現象としての花見川河川争奪があり、人々がそれを利用して堀割普請を行い、その最後の仕上げを水資源開発が行ったようにも見えます。
あたかも、土地が自律的に変化していくように捉えることもできます。

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