2011年8月4日木曜日

縄文丸木舟と大賀ハス2

浪花川流域紀行4 縄文丸木舟と大賀ハス2

2 丸木舟の出土経緯

 検見川出土丸木舟についてもっとも詳しいと感じた資料は「上代独木舟の考察」(松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文)(以下松本論文とします)です。
 この論文を引用・参考にしながら、丸木舟の出土と調査経緯をかいつまんでまとめてみます。

 なお、江戸東京たてもの園で検見川出土丸木舟現物を閲覧させていただいた際、論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)(以下高橋論文とします)の存在を教えていただきました。この論文には検見川出土丸木舟の出土調査経緯の外、その後の調査体制等について、関係者ヒアリングを加えて詳しく解説されています。

2-1 丸木舟の出土
昭和22年(1947)7月28日千葉市畑町1501、旧東京大学運動場予定地であり、当時東京都の所有に帰し、作業中であった東京都林産組合草炭採掘場に於いて長さ6m20、幅43cm、材カヤなる鰹節形丸木舟(第46号)が発見せられ、頗る学界の注目を惹いた。

 また今一つの独木舟(第47号)の一部を附近の表土以下約3m20の地点に於いて発見したので越えて昭和23年(1948)1月25日慶大考古学教室、東洋大学考古学会、日本考古学研究所の共同調査、畑青年団の奉仕協力により、之を発掘し得た。此舟は長さ5m80、幅48cm、深さ44cmであり、舟の先端に小突起あり、此点に従来の刳舟に見えない特色を示してをる。

 またこの舟と相並んだ前二者よりやゝ大型の独木舟(第48号)の破片、長さ3m48、幅52cmを発見した。材は、三隻ともカヤで出来ている。」(松本論文)(引用に際して、読みやすくするために段落余白を加えました)

 高橋論文では日本考古学研究所の詳しい説明や慶大や東洋大学の調査体制についてヒアリングをもとにまとめています。昭和20年代の考古学分野のイキイキとした状況が専門外の私にも伝わってきて、引き込まれます。

2-2 丸木舟の収蔵先
第46号の舟は、今日井の頭公園の武蔵野文化博物館に、第47号の舟は(図版第20.1)慶大考古学教室に、第48号の舟は東洋大学に蔵せられてをる。」(松本論文)

            松本論文図版第20.1
 慶大考古学教室に収蔵された第47号の舟

 高橋論文では調査団の組織化や調査費の裏づけが明確でなかったことが出土物の収蔵先に反映していること、なぜ武蔵野文化博物館になったのかその理由・背景について資金や日本考古学研究所内の問題を含めて解説されています。
 普通知ることが出来ない生々しい情報が含まれていて、また私自身も疑問に思っていたことの答えの一つがそこにあり、興味津々に高橋論文を読みました。

 武蔵野文化博物館に収蔵された丸木舟(最初の出土した丸木舟)は、現在後継組織である江戸東京たてもの園(東京都小金井市)が所蔵しています。
(つづく)

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