2011年8月19日金曜日
栗原東洋に興味を持つ
花見川流域のイメージと感想4 栗原東洋に興味を持つ
花見川流域を歩き、興味を持ったことについて調べているうちに、何度か栗原東洋の名前を見聞きしました。それまでほとんど注目したことがありませんでした。いつか「印旛沼開発史全4冊」をWEBで古書店から購入したのですが、その著者が栗原東洋でした。この「印旛沼開発史」を見ていくうちに、昨日の記事(2011年8月18日「流域界付近の泉と文化の検討」)に書いたように有用な情報と知的好奇心にかかわる刺激をいろいろと受けるようになりました。
花見川流域自体に対する興味とともに、栗原東洋という人物にも興味を持ち出しました。
そんな折先日、あるきっかけから、四街道市教育委員会にて「栗原東洋追憶集」(昭和57年、故・栗原東洋追憶集編集発起人)という書籍を借用することができました。
こうした本があることは知っていて、WEBで古書店からの入手を試みてだめだった経緯がありました。「千葉県内図書館横断検索」(千葉県立図書館WEBページ)によれば千葉県図書館と四街道市図書館が所蔵しているのですが、いずれも持ち出し禁止本であり、なにかのついでか、時間に余裕ができなければ読めないと半ばあきらめていました。
そうした中でこの書籍をじっくり読むことができ、栗原東洋の人となりなどについて知ることができたので、知的満足感を味わうことができました。四街道市教育委員会に感謝します。
「栗原東洋追憶集」には旧制佐倉中学校時代、北海道大学予科時代、満州時代、国民経済時代、千葉県農地制度史時代、資源調査会時代、印旛沼開発史時代、郷土史著作時代、恩師・栗原先生を偲ぶ、知人・友人の10区分で多くの方がエピソードや回想が寄稿されています。
私は栗原東洋の魅力として、扱う対象が地域史であっても、その発想が外に開かれている点にあると感じていました。この書籍をよんで、多くの方が栗原東洋に同様の印象をもたれていることを知り、収穫が大きかったです。
空間的には利根川や関東平野や全国へ・世界へ、時間的には古代へ・未来へ、インタレスト的には地域づくりへ・国づくりへ、そういった発想の広がりは参考になります。
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ん・・私はたぶん、栗原東洋氏の弟子筋(?)なんですよね・・・
返信削除いろいろ、逸話の多いひとでしたけど(苦笑)
氏を直接知っているのは、私が最後かも知れません。
匿名様 13年前の記事にコメントしていただき、感動です。
削除栗原東洋さんを直接知っているとのことで、驚いています。栗原東洋さんとはどのような場面でご一緒、あるいは交流していたのでしょうか。教えていただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。
このサイトは適切な署名にし難いのが不便ですね。
返信削除とりあえず表示は、デフォルトの匿名にして置きます。
さて。
栗原氏は晩年は、四街道市(当時は四街道町)の町史編纂の主筆や、市民講座の『郷土史講座』の講師などを務められていました。
そうした関係で『郷土史講座』で直接話を伺ったり、関連した様々な事項に携わったり、町史の『兵事編』では、町の訪中団の一員として、関連事項の調査のお手伝いなど致しました。
まぁ、郷土史講座等では当時は私は飛び離れて若かったので、『栗原先生の最後の弟子』などと、状態半分に呼ばれていたものです(笑)
なのでご想像より、ずっと深い交流でしたよ。
そうですね、とりあえず『NTJ会長』と、名乗っておきますね。
NTJ会長 様
削除昭和55年訪中団の一員で参加されたとのことで、栗原先生と濃密な関係にあった方とお話ができることに感動します。四街道市兵事編中巻368ページには訪中団一行の写真が出ています。その中で一番お若い方は後列左端の方のように見受けられますが、NTJ会長様でしょうか。中国側にとっては重たい話題(古傷を触られるような話題)での交流のような気がします。交流は順調に行われたのでしょうか。四街道市側の興味が中国側にどのように受け入れられたのか興味が湧きます。
たぶん、そうですね(笑)
返信削除そもそも兵事編の画像はだいたい私が撮影しましたので。
なお当時の中国は四人組追後であり、日中国交正常化直後でもありましたので、たぶん中国が最も親日的であった時代です。
そもそも『対日抗戦』など既に忘却の彼方であり、『撮影した古建造物』に関しても、『ただの廃墟』以上の認識は、中国側には残っていませんでした。
むしろその後の『大躍進政策』の大失敗の清算と毛沢東死去後の旧守勢力の追放が終わったところであり、中国側から見た目日本は、『躍進の手本』に見えていたようです。
原爆を受けた日本だって、アメリカを恨むような愚は犯していませんからね。
あ、こちら側の興味は中国側すると、『なんでこんな廃墟に興味があるんだ?』程度な感じでしたね。
返信削除13日間の訪中のうち、本当に意味のある日程は、その1日だけでした。
あとは『中国側が見せたい』中国ばかりでしたね(苦笑)
・・・まぁ、中国側としては、『何が目的なのだろう?』って面が強かったようで、参加メンバーの要職が幼稚園経営者だった事もあり、『幼稚園訪問』というイマイチ解らない日程が組まれていたりしました(苦笑)
まぁ・・・掲示板の限られた状況では、詳しい事をお伝えするのは難しいですが(苦笑)
そうそう、肝心なのは栗原先生のことでしたね。
返信削除まず『栗原東洋』という名前は実名であり、ペンネーム等ではありません。
現四街道市内の旧家の方で、当時の四街道町の町長であった斎藤氏の学友だったそうです。
その関係もあって、『四街道町史』の編纂が始まったようです。
その辺りの逸話も多数聞いているのですが・・・『言葉で聞いた事柄』は、文献主義な日本では、残し難いですよねぇ。
NTJ会長様 詳しいお話ありがとうございます。栗原東洋さんに関する興味がますます深まっています。突然で申し訳ない週刊誌的興味ですが、四街道市教育委員会の誰かから、栗原東洋さんは元東京都知事の舛添要一さんと姻戚関係にあると聞いたことがあります。本当でしょうか。それはどうでもよいのですが、栗原東洋さんの知的生産力の高さ、興味範囲の広大さ、行動力の強さに特別の興味を抱いています。栗原東洋さんが収集した図書を四街道市で整理中との話を聞いたことがあります。公開文庫などになっているのでしょうか?
返信削除収蔵先と推定される四街道市図書館にて確認を依頼し、先程回答を頂きました。
削除収集品が収蔵されている可能性は大きいようですが、「栗原東洋氏の収蔵品」としては纏まれていないようです。
個々の収蔵品を閲覧することは可能なようですが・・・どれが栗原氏の収集品であったのかは、不明な状況のようですね・・・。
蔵書一覧から個々の収蔵元をあたってゆけば目録作成も可能とは思いますが・・・そこからどのような情報が導きされるかは、不明ですね・・・
ntj会長様 栗原東洋さん所蔵図書の行方の情報ありがとうございます。2011年頃四街道市域をメインとする旧下志津演習場に特段の興味を持っていました。四街道市域を夢遊病者のごとく毎日歩き回りました。遠近五差路(トーチカ五差路)という地名を発見しておお喜びしたりしました。その中で近衛師団管轄演習場規程付図が防衛省図書館や国会図書館になく、どうしても見たいために一度押収されたアメリカまで出かけて探そうと思ったことがあるほどです。その資料探しの過程で、四街道市教育委員会に相談しました。その時、栗原東洋さんの図書の目録作りが
削除進行中であることを知りました。しかし、軍事関係資料を栗原東洋さんは収集していないことをその時知った次第です。しかし、印旛沼堀割普請関連の膨大な資料、特に明治・大正・昭和の資料がまとまって存在していることも知りました。印旛沼開発については興味が継続していますので、いつか四街道市図書館蔵書を探索することにします。情報ありがとうございます。
桝添氏との姻戚関係は、私も知らないです。すみません。
返信削除たしかに栗原先生の収集した文献は膨大で、亡くなった後にお伺いした時には、旧家の廊下にまで溢れ返っていました。
・・・あれを整理するのは、尋常ではない労力が必要そうです。
その後、公開されたという情報は聞いていないので、非公開文書として所蔵されているのではないかと。
返信削除実際、茶変している文書も少なくないように見受けられたので、公開すると損壊してしまいそうでした。
現代であれば、電子化すれば、有用な情報源になりそうですが、その労力は『四街道市の財力に余る』のではないかと・・・
別件ですが・・・私個人としては、花見川を『小河川』と表現することには、些か違和感を感じます。
返信削除ご存知のように千葉県には『上流となる山岳』が存在しないため、県境の利根川・江戸川を覗いては、大河川は存在していません。
花見川は延長こそ短いですが、その流量は(千葉県の河川としては)中河川に相当する規模ではないかと感じます。
まぁ、『鹿島川』を小河川と感じられるようでしたら、花見川も当然小河川となりますが・・・
でもJR線で千葉から東京方面へ向かったとき、江戸川以前で唯一の『河川らしい河川』は、花見川なのですけどね。
NTJ会長様 花見川の元来の自然河川では流域面積がとても狭く、戦後の印旛沼開発で新川の上流部が人工的に流域変更された現状でも流域面積がとても狭く、小河川です。しかし洪水時には新川・印旛沼の水を花見川に逆送させるので、川幅は身分不相応に広くなっています。堰が2つあるため普段の水面も広いのですが、流量は家庭排水起源の少量です。洪水時には大和田排水機場から500トン/秒流れます。
削除もちろん私は、花見川の元来の流域や流量など承知しています。花見川流域の分水帯も概ね把握していますので。
削除とはいえ、「開削完了後」の川幅は「千葉県の河川」としては「小河川」と言うには広すぎるので、個人的に違和感を感じてしまうんですよ。
「人工的な排水路として」掘削された結果であるのは十分に承知の上で、「中河川」と感じる・・・ということです。
最低限、「小河川」という言葉からイメージされる「小川」の佇まいではないですからね、花見川は・・・。