浪花川流域紀行5 縄文丸木舟と大賀ハス3
2-3 丸木舟の年代
松本論文(「上代独木舟の考察」〔松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文〕)では出土した丸木舟について次のような議論を行っています。
「此三隻の刳舟以来問題となったのは、その年代鑑定である。舟の出土に伴出した考古学的遺物は、全然なく、たゞ3mも堆積する泥炭層の上部から完全な土師の壺を出してをる。附近の地表からは土師器の破片を拾ふことが出来、また舟を出土した谷の源頭に近く土師器時代の小貝塚が発見せられ、また所々に弥生式土器の破片を拾ふことが出来るが、縄文式土器の破片は、何処にも発見出来ず、結局遺蹟地より20町以上も離れた犢橋(コテハシ)の貝塚まで行かなければ縄文文化遺蹟に接し得ない。然しこの附近表面に見出される文化遺物を以って深層出土の文化遺物の年代を判定するのは頗る危険である。後述する加茂の遺蹟の如き地下に豊富な前期より中期にかけての石器時代泥炭遺物を包蔵しつゝも地表には何等その痕跡を示してゐなかったのである。
また丸木舟及び櫂の刳り方に対しても両様の見解が対立した(図版第21.6・8、第15図)。その如何にも稚拙な凸凹ある、所々に焼痕ある削り方は、その製作の石器によることを推察せしむるが、他の論者はこのつくりをもって金属器によらざれば不可能なりと云ふ意見を表白されたのである。
地質、地形上より本遺蹟を考察された地理調査所の中野尊正氏は、本泥炭層の生成した年代を今日の幕張附近の砂地が陸地となる以前であるとし、独木舟は泥炭層の下底に近い所から出土してをるので泥炭形成の中期までに年代を比定し得るとし、独木舟の年代は、砂地形成年代よりも遡り得るとて、検見川の谷が、犢橋の石器時代遺蹟の近くまで進入してゐる所から独木舟埋没の年代も或いはその辺の年代にもってゆくことが出来るのではないか、その頃台地の上では腐植層が生成してゐたが、その後海岸に接する崖の所から舞ひ上げられて来た砂が台地の上に砂丘を堆積する様になった。独木舟及び台地上の遺蹟とをこの腐植層、砂丘との前後関係に於て追求することによって更に時代関係が明瞭になるのではないかと論ぜられた。
かく丸木舟の年代は、地理学的に見れば砂丘の生成した歴史時代にひきさげ得ぬものであるが、文化科学的には、之を石器時代と見るか、歴史時代初期と見るかの二説が対峙し、此問題は結局丸木舟と伴出する考古学的遺物によらなければ解決されぬ破目にあった。かくて検見川の谷から発見せられた刳舟の年代を比定する為に、他所に考古学的遺物を伴う丸木舟の発見に必要が感ぜられたのである。」(松本論文)(引用に際して読みやすくするために段落余白を加えました)
松本論文図版第21.6・8
櫂の彫刻部分の写真です。実用的道具に美的意識を投影していた縄文人の気持ちが伝わってきます。
松本論文第15図
櫂の実測図です。
その後、加茂遺跡で「縄文前期の諸磯式土器」と同種の土器片が伴出する丸木舟が、八日市場で刳り残しの横梁が4箇所ある丸木舟と櫂が出で近くの同じ層位から「縄文末期(晩期)の安行式土器」の大きな破片がみつかりました。櫂の彫刻は検見川出土の櫂の彫刻と類似しているとのことです。八日市場の丸木舟は検見川出土の丸木舟と較べて構造上の複雑さ(横梁がある)と全体に華奢であることから検見川出土丸木舟より後のものと考えられました。
結果として、検見川出土の丸木舟は縄文前期の加茂遺跡のものより後で、縄文末期(晩期)の八日市場出土のものよりも前ということになりました。
2-4 c14年代測定
昭和28年に大賀博士が大賀ハスの年代を調べるために、大賀ハスと同層位から出土した丸木舟のうち東洋大学所蔵資料と武蔵野郷土博物館所蔵資料から木片を切り取り、c14年代測定しました。結果は平均すると1125年前後180年BCとなり、3075年前、前後180年(縄文後期から晩期)という結果になりました。(「大賀ハス」〔千葉市立郷土博物館発行〕による)
「ラジオ・カーボン・テストに用いた丸木舟の断片」
「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)17ページ掲載写真
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