2018年5月23日水曜日

埋葬ゾーンを連想させる送り場土坑集中域

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 47

動物食関連送り場土坑(貯蔵庫ではない土坑で貝や獣骨が出土する土坑)のうち獣骨数がとりわけ多い土坑付近の様子を観察しています。
この記事では北貝層付近を観察します。

1 詳細検討域2

詳細検討域2

2 加曽利E4式期

加曽利E4式期
J116竪穴住居のみ存在します。この時期の竪穴住居からは貝層や漆喰は出土していませんから住民は漁業にほとんど関わっていなかったと考えます。

3 称名寺式期

称名寺式期
貝層が出土するJ34竪穴住居が存在します。J34竪穴住居から大型石棒、ミニチュア土器が出土するとともに土器・石器の出土も多く、また漆喰貼床、環状焼土がみられ、覆土層には破砕ハマグリとイボキサゴの混貝土層が堆積していて、濃厚な廃絶祭祀が行われたと考えることができます。J34竪穴住居祉は北貝層始祖家族の住居です。
この時期には送り場土坑はありません。

4 堀之内1式期

堀之内1式期
この時期は集落最盛期になります。J34竪穴住居の近くに屋外漆喰炉が設けられます。屋外漆喰炉は祭祀にも使う漆喰製造機能を備えていて、祭祀性の強い施設であると考えます。
J63竪穴住居から人骨が出土します。
この近くに多数の動物食関連送り場土坑が存在します。このうち404土坑からは人骨が出土しています。少し離れますが貯蔵土坑の382土坑からも人骨が出土します。
単独埋甕が存在し、人骨は出土しませんが埋葬施設であると考えられます。
正確な時期は不明ですが施設ではない地面から単独人骨が3体出土しています。
218土坑からは略完形浅鉢土器が逆位で出土し、人骨出土はありませんが甕被り葬のイメージを連想しました。
送り場土坑のうち179と319には2つのピットがあり柱穴と考えられます。土坑に柱を2本建て、その土坑に埋まっているモノを表示する標識であったと空想することもできます。

集落形成期の称名寺式期に北貝層始祖家族の竪穴住居J34が営まれ、集落発展期の堀之内1式期になるとその場所付近が居住の場であるとともに祭祀活動の場(屋外漆喰炉の存在)、埋葬の場(各遺構からの人骨出土)になったことも観察できます。
人骨出土のない動物食関連送り場土坑は単に祭祀(なにかの送り)を行った結果を表示しているのではなく、その土坑が人の埋葬施設あるいはその関連施設であったと想像します。
この図だけでも埋葬の場は竪穴住居、廃絶貯蔵土坑、埋葬専用土坑(404など)、埋甕、施設の無い地面と多様性に富んでいます。
またこれまでの学習で体部をそのまま伸展でミイラ化して行う埋葬と集骨葬があります。
集骨葬は一度どこかの場所で肉を腐らせ骨だけにする必要があります。その一次埋葬施設(肉・皮を腐らせる施設)は浅い土坑であると考えられます。例えば404土坑が一次埋葬施設であり、骨を集めて別の土坑に集骨葬した時、骨の取り残しがあり、それが404土坑から出土したのかもしれません。

動物食関連送り場土坑の多くは人の埋葬に関連した施設ではないだろうかと最近は考えるようになりました。縄文集落では遺体存在と埋葬施設が生活空間と一体化しています。

5 堀之内2式期

堀之内2式期
屋外漆喰炉と送り場土坑2基が存在しています。

6 加曽利B1式期

加曽利B1式期
送り場土坑184は獣骨出土数が139で特段に大きい直になっています。この土坑にもピットがあります。恐らく柱穴であり、何らかの祭祀機能を有する柱が土坑から直立していたのではないかと空想します。埋葬関連施設であると想像します。

称名寺式期にはじめて北貝層始祖家族(漁民)がこの場所に居所を定め、それがキッカケでその場所が祭祀の場、埋葬の場、居住の場になり、その空間特性は加曽利B1式期まで継続したことが判ります。

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