2018年5月25日金曜日

埋葬土坑と貯蔵土坑が隣接する事例

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 48

動物食関連送り場土坑(貯蔵庫ではない土坑で貝や獣骨が出土する土坑)のうち獣骨数がとりわけ多い土坑付近の様子を観察しています。
この記事では北貝層近くですが、北貝層と他の竪穴住居から少し離れた独立的竪穴住居(J16)付近を観察します。

1 詳細検討域3

詳細検討域3

2 称名寺式期

称名寺式期
土坑4基が存在します。
253と51は送り場土坑で、ともに人骨出土はありませんが、51はこれまでの学習から埋葬土坑そのもののように感得します。
90、89は貯蔵土坑ですが隣接しているので1つの土坑が建て替えられた結果を示していると考えられます。

3 堀之内1式期

堀之内1式期
竪穴住居2軒と多数の土坑存在が確認できます。
J16竪穴住居の廃絶祭祀は濃厚に行われていますから、その住人の生活も活発であったと推察できます。
そして、J16竪穴住居から数m以内の至近域に多くの土坑が配置されているように観察できますから、J16と土坑との間に関連性があると考えることが自然の成り行きだと考えます。
J15竪穴住居からの出土物はほとんどありませんが、J15と34、33土坑との関係があるかもしれません。34土坑からは獣骨が57出土しています。
J16竪穴住居を取り巻くように至近距離にある土坑に貯蔵土坑88、82が存在するとともに人骨出土土坑墓(墓1、集骨葬)、形態から埋葬施設であると想定できる73土坑が「一緒に」存在していることに着目します。
特に土坑墓(墓1)は貯蔵土坑82に「切られて」います。土坑墓(墓1)(古)→貯蔵土坑82(新)の関係にあります。
J16竪穴住居の住民が土坑墓(墓1)を建設し、その後それに隣接して貯蔵土坑82を建設したことがわかります。
J16竪穴住居住民は家族が死んでその墓を住宅から3m程のところにつくり、その後その墓の存在を十分に認識した上で、墓となりに貯蔵土坑をつくり生活に利用したことになります。
縄文人は生活空間の中に墓をつくっていたことがわかります。

4 堀之内2式期

堀之内2式期
141土坑から獣骨が125点出土しています。141土坑は埋葬施設の可能性があります。

5 加曽利B2式期

加曽利B2式期
141土坑を切って32土坑が建設されています。その出土遺物に装身具が含まれることなどから32土坑は埋葬施設であると想定できます。
141土坑の建設時期(堀之内2式期)と32土坑の建設時期(加曽利B2式期)の間には長い時間がありますが、32土坑建設時にその場所が先祖の送り場(貝層や獣骨がある場所…たぶん埋葬地)であることは事前にわかっていたに違いありません。
おそらく、先祖の墓や送り場、祭祀の場所の一部を壊して新たな墓・送り場・祭祀場をつくることは縄文時代では許容される、あるいは逆に推奨されることであったと考えられます。先祖の祀りの場(空間)を踏襲することは縄文人にとって当然であり、むしろ美徳であったに違いありません。
廃絶祭祀が濃密に行われた竪穴住居が少しだけ残されて次代の住居となっている例が沢山あり、送り場土坑も同じように扱われたと考えます。

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