2018年6月12日火曜日

「中期後半の衰退」期における集落立地

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の貝塚集落としての最初期の様子(シナリオ)を次のように書きました。
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●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)

●集落形成期
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。
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このシナリオを想像を交えつつデータで補強します。

1 「中期後半の衰退」期頃の貝塚集落数の趨勢
「Ⅳ期には集落経営が破たんして人々は新天地に出るしか選択肢がなく、その結果Ⅴ期に多数の新規貝塚集落ができた。その一つが大膳野南貝塚である。」というのが私が考えたシナリオでした。
その実態を貝塚分布図変遷で見ると次のようになります。

集落立地の背景検討
分布図にプロットされた貝塚集落数はⅣ期75→Ⅴ期77と増大しますから、縄文社会全体が「中期後半の衰退」期にあって、数の衰退はありません。この時期には既存の貝塚集落が一斉に衰滅し、新開発貝塚集落が広域に立地します。集落の入れ替わりが行われ、従って人集団の入れ替わりが想定されます。(参考図参照)
貝塚集落だけを対象にすれば、「中期後半の衰退」とは旧集団の集落が衰退し、新集団の集落が勃興した現象のようです。
従って「Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。」というより「Ⅳ期集落社会が破たんしてその集団は没落し、新たに流入した集団により新たなⅤ期社会が勃興した。」と言い換えた方がよいかもしれません。

集団が入れ替わった時、旧集団の人々が新集団の下層に組み入れられた可能性があります。

2 新旧貝塚集落の空間関係
新旧貝塚集落の空間関係を大膳野南貝塚付近でみると次のようになります。

Ⅳ期とⅤ期の貝塚集落の分布
Ⅳ期集落分布のあり方(原理)とⅤ期集落分布のあり方(原理)は明らかに異なります。
Ⅳ期集落はそれぞれ海に近い台地に立地しています。相互の関係性は特段見られません。
それだけ集落密度が低かったということです。
ところがⅤ期集落は台地面主部(台地が広くて連続しているところ)近くに立地していて、海から離れてもお構いなしです。大膳野南貝塚などは海からかなり離れてしまい、草刈遺跡と比べて集落立地原理が明らかに異なります。また狩猟場(九十九里との分水界付近)との関係を意識して集落が立地しています。同時に集落間の関係も想定できます。それだけ集落密度が高いということでもあります。
Ⅳ期集落社会とⅤ期集落社会の空間分布原理が異なることから、社会を構成する集団が異なるとの示唆を受けることができます。

なおⅣ期の有吉北貝塚、有吉南貝塚よりⅤ期の上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚の方が海側に立地しています。これは地象プロセスとしての海岸線後退現象に対応した事象です。
Ⅳ期の有吉北貝塚や有吉南貝塚は時間が経過するとともに海までの距離が長くなり集落経営上多少の不利が生れたと考えることはできます。しかし「海」は無くなっていないので、その多少の不利が集落衰退の主因ではないと考えます。Ⅴ期に多数の貝塚集落新立地が見られることから考えて、海岸線の後退(=海面低下)や海況の変化(=生物相の変化)など広い意味での気候変動を「中期後半の衰退」の主因とする考えには共鳴できません。

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参考図

貝塚分布図 Ⅳ期

貝塚分布図 Ⅴ期

貝塚分布図 Ⅵ期

貝塚分布図 Ⅶ期

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