2018年9月28日金曜日

なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?

学習テーマについて 3

2018.09.24記事「ブログ学習活動の経緯と学習テーマ」で今後の縄文時代学習のテーマとして次の4つを選び取り組むことにしました。
1 中期~後期・晩期の貝塚集落消長
2 なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?
3 竪穴住居漆喰貝層有無別の理由
4 土器形式年代と海岸地形との関係
この記事では2の学習テーマ「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」の今後の学習について検討します。

1「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」という疑問(興味)から導き出る思考
次の平面図、断面図は大膳野南貝塚の地形上の位置をしめしたものです。

大膳野南貝塚の平面図上の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
Bの位置に大膳野南貝塚があります。Bと海の間を谷津谷底を通って往来する場合のルート・断面がA-Bです。またBから尾根線を通って九十九里方面に往来する場合のルート・断面がB-Cです。

大膳野南貝塚は海から3㎞ほど離れていて、標高は50mのところにあります。他の貝塚も同じような地勢上の位置に立地するものが多く、「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」という素朴な疑問(興味)が以前からありました。重い漁獲物を3㎞、50m上まで運び上げるには不利な場所であると考えたことから生まれた疑問(興味)です。

しかし、この疑問(興味)を引き金にしてよくよく考えてみると、次のような思考(想像)を導くことができました。

1 大膳野南貝塚集落は漁業専業集落ではないと考えられますから、この場所の立地要因として漁業だけでなく、狩猟や堅果類採集の便利も同時に考慮されたに違いありません。

2 集落の立地要因として堅果類採集、飲料水の確保、燃料の確保、近隣集落との交通条件など、そのサイトに集落を立地させてはじめて得られる項目があります。それらの項目が集落立地で最初に考えられ、ベースになったのではないだろうかと考えます。

3 海から見えない、海が見えない場所に集落があっても恒常的な漁業を行っているので、地域社会に漁業権類似概念が存在していて、漁業に関して広域行政機能が存在していたと考えられます。その漁業権区域(広域社会が認めた集落の漁場)との交通の便がよい場所に集落が立地したと考えます。

4 狩猟の主な場がどこであるか不明ですが、例えばそれが集落周辺2㎞圏内にあるということはありえないと考えます。広域圏の中で、集落から離れた遠隔地に特定の狩場が存在していたのではないかと考えます。狩場での狩猟に関して漁業と同じく広域的行政機能が存在し、狩猟に関して空間的時期的な棲み分け等が図られていて、集落間の争いが起こらないような仕組みがあったと考えられます。その狩場(狩猟権を確保できた狩場)との交通の便が良い場所に集落が立地していたと考えます。

このように思考を巡らしてくると、集落周辺の環境と生業(漁業、狩猟、堅果類採集)の様子からなぜその場所に集落が立地したのか分析をすることが可能になると考えます。
逆にその分析が進めば、発掘情報の少ない遺跡に関して、立地場所から環境や生業の様子をある程度推定することが可能になるかもしれません。

集落立地要因分析が自分にとっての重要な学習テーマとなります。

2 谷奥台地に立地する集落と海辺台地に立地する集落の違い
中期集落のうち有吉北貝塚、有吉南貝塚は谷奥台地に存在しますが、草刈貝塚は海辺台地に存在し、集落から海が見えます。
後期集落のうち六通貝塚、大膳野南貝塚など多くは谷奥台地に存在しますが、菊間手永遺跡は海辺台地に存在し、集落から海が見えます。
このような違いが生業の在り方の違いに関わるのかどうか、関わるとするとその程度はどのようなものであったのか、比較学習を深めたいと考えます。

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