2018年9月13日木曜日

事例学習 実信貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 13

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では縄文中期の実信(さねのぶ)貝塚の学習をします。

1 実信貝塚の位置

実信貝塚の位置
実信貝塚は台地から約20mの位置にある沖積低地上に立地し、標高は約5m、台地との比高は約15mである。

学習マップ

2 調査の経緯
本貝塚は,古代の条里制遺跡(市原条里制遺跡)として周知されていた範囲内にあり, 1990(平成2)年,東関東自動車道の建設にともない調査が行われた。市原条里制遺跡の調査範囲は輻約70m・長さ約4.2kmにも及ぶことから, 9か所の地区に分割して調査を行った。本貝塚はこのうちの実信地区で検出されたものである。他の4地区からも早期・前期・中期・後期・晩期の土器、多くの土器片錘、貝塚の可能性のある貝層が出土している。

3 実信貝塚の様子
本貝塚からは,中期後半(加曽利EⅡ式期)から晩期終末(前浦式期)にわたる土器群が出土した。各時期の土器群の分布状況から,貝塚は時期ごとに地点を変えながら形成(堆積)していたようであるが,貝塚形成の主体となる時期は,土器の出土量から中期後半(加曽利EⅡ式期新段階~加曽利EⅢ式期古段階)であると考えられる。また.当該期の土器片錘も多量に出土している。
貝層内からは170か所もの灰集中地点・被熱貝集中地点(写真2)や,中期後半の土坑が1基検出されている。また,貝層周辺には2 か所の鹿骨集中地点や、2体の人骨も検出されている。2号鹿骨集中地点は断続的な鹿の解体場であり, 1号人骨は掘り込みをともなわない屈葬であると考えられている。両者は縄文時代に属することは確実であるが,時期を明確にすることはできなかった。
本貝塚から出土した土器群は,中期後半から晩期終末にかけてのものである。注目される資料として晩期終末を中心とする土器群がある。東北地方の大洞(おおぼあら)式系の土器群であり,このほかに,詳細な時期が不明の壺形土器や,稲妻状(Z字状)の意匠を有する粗製土器などがある。いずれも千葉県内での類例に乏しく,貴重な資料であるといえよう。

被熱貝集中地点等 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

4 感想
近くの台地上に環状貝塚と住居跡26軒を含む菊間手永遺跡(後期前半~晩期終末)があり、存在時期が重なります。実信貝塚は菊間手永遺跡の漁港兼作業場として関わる時期があると想像します。
灰集中地点・被熱貝集中地点の存在は「石焼鯨」と想像した神門遺跡の集石跡と同じように、漁獲物の製品化作業の跡(保存食品生産工場跡)と考えると合点がゆきます。2018.09.05記事「事例学習 神門遺跡」参照

この遺跡から晩期終末土器群に東北地方の大洞(おおぼら)式系の土器群が出土していますが、菊間手永遺跡からも東北地方後期前半に属する蛍沢式土器が出土しています。また有吉南貝塚から東北地方南部を主要分布域とする大木式およびその影響を受けた土器が出土しています。2018.09.10記事「事例学習 有吉南貝塚」参照
これらの情報から、村田川河口低地付近一帯の人々のルーツは東北地方にあるのかもしれません。そのような縄文人移動に関する知識が自分には全くなかったので、驚きであり、今後学習を大いに深めて自分なりの正しいイメージを持てるようにしたいと思います。

シカ解体場の存在はこの近くでシカ猟が継続的に行われていた証拠となります。シカを台地海食崖に追い詰めてそこから落とした崖猟が行われた可能性があります。捕ったシカは海水を利用して解体したと考えます。
崖猟の下の水場でシカを継続解体した例として以前千葉市内野第1遺跡について学習したことがあります。ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟」参照

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