2018年9月20日木曜日

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その1

8月に「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈 ~印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察~」をまとめて公表しましたが、このまとめ作業をするなかで地名「千葉」が縄文語起源であり、それもイナウを起源とするものであるという梅原猛の説を知りましたので紹介しつつ数編のシリーズ記事を書いて検討します。
自分にとっては衝撃があり、かつ説得力のある仮説です。この記事では仮説そのものを引用掲載します。

1 仮説 掲載図書
梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)の「第一の旅 異界の旅へ、鳥、四-鳥その二、イナウの美-「チパ」から「チバ」へ」にこの仮説が掲載されています。

図書 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001) 

2 イナウの美-「チパ」から「チバ」へ 抜粋引用
著者は帯広在住のアイヌの方が司祭する祭に参加した体験を語るなかで地名「千葉」が「チパ」(アイヌ語でヌササンのある場所)起源であると考え、そう考えると縄文文化が発展した千葉の地名の意味がよくわかると述べています。

そしてイナウは、祈りを捧げる神さまの数だけ作られる。縄でそれぞれを結びつけて、一つの棚状のものにする。これを、「ヌササン」という。「ヌサ」とはイナウの集まり、「サン」とは棚のことである。今はアイヌでもあまり使われなくなった言葉であるが、このようなヌササンのある場所を「チパ」という。つまり、ヌサをおいて神を祀る場所が、チパなのである。かつてはアイヌの家のどこにでも、家の東側にこのチパは設けられていたという。また村全体として神を祀るチパもあったようである。
「イナウ」、日本でいう「削り掛け」は、平城京跡からもたくさん出てきたという。かつてバチェラーが見たイナウの並ぶ美しい光景は、古代日本にもあったのであろう。そしてイナウ、削り掛けの並ぶ棚、ヌササンのあった場所、チパに私の想像はおよぶ。「チパ」とは「千葉」に通ずる言葉ではなだろうか。
「日本書紀」の応神天皇の条に、近江(おうみ)に行くとき山城国宇治郡の菟道野(うじの)に立って国見をしたという歌がある。
千葉の葛野(かづの)を見れば百千足(ももちた)る家庭(やには)も見ゆ国の秀(ほ)も見ゆ
この歌の「千葉」とは「チパ」ではないか。葛野は神を祀る場所で、そこにチパがあったのではないか。その下に「百千足る家庭も見ゆ」とあるから、「家庭」というのは家の中で神を祀る場所というのであろう。
また「チハヤフル」は神にかかる枕詞(まくらことば)であるが、これも「チパが古くなっている」、つまり「古い神々がいる」という意味で神にかかるのではないかと考えられる。さらに、氏にかかる枕詞「チハヤビト」、これは武勇の優れた人と従来解されてきたが、やはり「チパヤヒト」つまり「神祭りの霊場に集まる人」という意味で、氏にかかったのではないかと思う。「千葉」をそのように解すると、あの千葉県の「千葉」の意味もよくわかる。「千の葉」という意味では何のことかわからないが、チパのあったところと解すればよくわかる。千葉県は縄文の遺跡の宝庫であり、縄文文化がもっとも発展したところである。」梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用

チパ(ヌササン)で祈る著者 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用 

3 感想
千葉県には縄文時代の遺跡が数千あり縄文文化が花咲いたので、その影響は後世に強く伝わったはずです。縄文人がつかった言葉も地名として数多く伝わってきていると考えています。ただ古い地名が縄文人から伝わってきたと認識できていないだけで学術が進歩すれば数多くの縄文語起源地名が明らかになると考えています。このブログでも過去の幾つかのテーマで検討しています。
千葉が「チパ」起源であり、それが縄文時代の文化から継承されたものであるという梅原猛仮説に強い興味と共感を覚えます。さらにそれがイナウと結びついているので、自分のとってより大切な仮説となります。
地名「千葉」は現在では範囲が「千葉県」まで拡大していますが、当初は現在の千葉市中心市街地付近つまり都川河口付近であったと考えられます。その付近にある縄文時代の遺跡には加曽利貝塚も含まれていて、加曽利貝塚が国特別史跡に指定されていていわば土地に関わる国宝であると考え千葉市がその価値の大きさを行政に活かそうとしている現在、この仮説の意義には大きなものがあると考えます。

都川河口付近の代表的縄文時代遺跡

0 件のコメント:

コメントを投稿