2018年9月7日金曜日

事例学習 有吉北貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 10

1 有吉北貝塚の概要
有吉北貝塚は村田川の形成した低地から谷津を1.5kmほど入った谷奥部の台地尾根に位置する縄文時代中期中葉から後葉の集落遺跡である。細尾根でつながった隣の台地には同時期の有吉南貝塚があり、全体として双環状の貝塚を形成する。縄文中期には村田川低地の奥まで海岸線が入り込んでおり、本遺跡から1.5kmほど下れば海に出ることができた。

有吉北貝塚と有吉南貝塚 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

2 集落と貝層
長径120×短径70mの範囲に,住居群が外側, 小竪穴群(貯蔵穴群)がやや内側に配されている。中央には遺構がなく,環状集落の典型的な例といえる。貝層は遺構群の外郭からその下の斜面にあり,斜面貝層は集落の前半期には北東斜面貝層と南斜面貝層が,後半期には北斜面貝層が形成され,全休として点列環状貝塚を形成する。

3 遺構と時期
中期の住居跡は134軒, 士坑は770基検出された。土坑のうち約580基が小竪穴である。住居跡39軒・小竪穴53基では,遺構内に貝層が形成されていた。阿王台式期末に住み始め,加曽利EI~EⅡ式期にかけてが集落と貝層形成の繁栄期である。加曽利EⅢ式期に入った頃,環状集落は廃絶され,わずかに台地南側の斜面部に住居の跡がみられる。
なお,このほかに,早期後葉の炉穴群,前期後葉の遺物包含層,後期初頭の住居跡・土坑・斜面貝層などが検出されている。

4 主な出土物
中期の出土遺物は,土器が整理箱にして約1200箱,石器・礫約25000点(石鏃1019・打製石斧820・磨石 ・石皿類911),骨角製品約300点(装飾品40・道具133・未製品116),貝製品約870点(装飾品41・道具類826),土 製耳飾17点, 土器片錘約5300点,埋葬人骨19体,埋葬または遺棄された動物骨4体(イヌ・サル・イノシシの幼獣),鳥獣魚骨50000点以上と多種多様である。骨角貝製品は,装身具・刺突具・貝器が充実している。多数発見されたアリソガイ・ハマグリの腹縁がすり減ったものは,よく利用される道具のひとつであった可能性がある。黒曜石およびチャート製の石鏃,骨角製品は集落内で製作が行われている。黒曜石は分析した309点のうち,判明したもののほとんどが神津島産(247点, 94%)であった。そのほかの産地は信州系12点,高原山1点, 箱根系2点にすぎない。

5 北斜面貝層
北斜面貝層は,ほぼ加曽利EⅡ式期以外の混入物のない大規模な貝層である。台地斜面の海成砂層を大きく抉り込んで,長さ35×幅15m, 深さ2~4m の壺状の地形が形成され,土砂と貝層が埋めている。谷は,出土した土器がほぼ単一土器型式であることから,短期間に埋まったと考えられる。そして,かく乱されることなくパックされたため,大量の遺物が良好な状態で出土した。しかも,この時期には台地上の遺構内貝層が少なく,崖崩れなどによる浸食の拡大をくい止めるように,集中的に廃棄が行われたようである。なお,谷底の基底面近くには多量の土器が一括廃棄されており,そのなかで,イノシシの頭骨を基底面に突き刺した状態のものが発見されている。これらは何らかの儀礼的な行為によるものと考えられる。

北斜面貝層 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

北斜面貝層平面図断面図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

北斜面貝層下部土器集中 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

6 動物遺存体
貝類はイボキサゴ(86%)とハマグリ (9%)で出土量の95%を占め,いずれも小さな個体が採取されている。
ハマグリは, 漁の盛んな時期, とくに加曽利EI式期に小型化が著しい。殻の成長は早いので,小型化は採取圧による年齢構成の若年化のためと考えられる。一方,加曽利EⅡ式期にはイボキサゴ漁などで混入したハマグリの稚貝をもう一度海へ戻すという資源の保護があったと推察される。この時期に若干大きなサイズの個体が増えたのはその効果とみられる。

二枚貝のサイズの変化 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

7 感想
北斜面貝層の記述と動物遺存体の記述が強くリンクしていると感じますので、強い興味を抱きました。
7-1 ガリー浸食拡大防止土木工事
北斜面貝層は斜面のガリー浸食が拡大して台地を損傷する可能性を縄文人が察知して対応策を講じたものであると考えられます。植生被覆の無い場所では乾燥地に限らずガリー浸食が生じます。縄文人はそのガリー浸食を食い止めるための土木工事を行ったものと考える事ができます。特に「図4貝層下部土器集中図」はガリー基底部に固い土器片を投入して直接的応急的効果を狙ったものと考えることができます。現代でも例えば花見川サイクリングロード脇の斜面にガリー浸食ができると千葉市公園事務所がそこに土嚢を投入して処置します。処置の仕方基本は全く同じです。
北斜面貝層は加曽利EⅡ式期にガリー浸食拡大防止土木工事が行われた遺構であると把握することができます。
7-2 斜面植生の破壊
現在の谷津では大規模なガリー浸食はほとんどありません。斜面が植生に覆われているからです。しかし加曽利EⅡ式期のガリー浸食拡大防止工事が行われたということは谷津斜面の植生が破壊されていて裸地化していたことをものがたります。恐らく燃料や建築資材採取による広範な裸地化・植生破壊があり、それに起因するガリー浸食があったものと推察します。集落のある台地のガリー浸食は直接に生活基盤が失われるといる危機感を伴うものですから、縄文人は切羽詰まって応急対応措置をとったものと考えます。
加曽利EⅠ式期には広範な土地で植生破壊とガリー浸食が存在していたものと想定できます。
7-3 ガリー浸食拡大防止策とハマグリサイズ増加の通底
加曽利EⅠ式期までハマグリ取り放題(ハマグリサイズ減少)、谷津植生利用し放題(植生破壊とガリー浸食)の生活を送っていた縄文人が、そうした野放図の生活が立ち行かなくなり、危機感から加曽利EⅡ式期に自らの生活を変更した可能性があります。環境破壊に気が付き、どうしたら同じ資源を子どもの世代に渡せるかはじめて意識した可能性があります。
ガリー浸食拡大防止策とハマグリサイズ増加は同じ縄文人の意識変化の別表現であると考え、今後より深く学習することにします。
縄文中期加曽利EⅡ式期の人々が環境破壊に気がついて、結局、それが功を奏したのか、遅すぎたのか?

参考 有吉北貝塚と有吉南貝塚の1960年代空中写真へのプロット

有吉北貝塚と有吉南貝塚の1960年代空中写真へのプロット

有吉北貝塚と有吉南貝塚のある場所の1960年代空中写真
1960年代空中写真に見られるような植生では大規模なガリー浸食は起こりえません。

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